第88話 出立準備 (Side:カルロ)
北の山脈へ発つと決めてから、俺は寝る間も惜しんで作戦を組み立てていた。
”万が一”なんて起こすわけにはいかない。あらゆる可能性を想定し、準備する必要があった。
卓に広げた地図を睨む。指で、竜の潜む山頂をなぞった。――厄介なのは、あいつが逃げることだ。
一年前、俺たちの目の前で竜になったアルヴィンは、誰にも危害を加えることなく、北へと飛び去った。その後、国が編成した討伐隊すら、竜は正面から退けなかった。戦わず、ただ北へ、山頂へと逃げ続けた。
人を積極的に害するつもりはない。だが、大人しく捕まる気もない。
それは、アルヴィンの自我が微かに残っている可能性を示唆する。だが同時に、正面から挑んだところで、また雪の向こうへ姿を消すだけということでもあった。
「まともに追ったら、逃げられるだけだ。追いかけっこでは勝てない――」
何せ、相手は翼を持ち古代魔法まで使えるのだ。
呟いて、俺は考える。追いつけない相手を、どうやって足止めするか――そこが、この作戦の要だった。
「追いつくのが無理なら、おびき寄せて捕まえればいい」
普通に考えれば至難の業だろう。だが――手はある。
もしもあいつに、僅かでも自我が残っているなら、一つだけ。
それさえ叶えば、問題は、どこに足止めをするかだ。
じっと地図を見つめていると、隣からシャロンが覗き込んできた。
「何か、策があるのですか」
「ああ。……いい考えがある。なんだかんだ、付き合いは長いからな」
ニッと片頬を上げて言う俺に、不思議そうな顔をしながらもシャロンは納得してくれたようだった。
「シャロンの方こそ、準備は順調か? 作戦決行には、お前の力が不可欠なんだ」
「はい。任せてください」
シャロンは笑顔で胸を張る。
おびき出したアルヴィンを足止めする手段は、早々に決まった。
討伐隊の攻撃魔法が霧散したことから、俺の黒魔法では竜の力を抑え込めない。それなら――”禁術”しかない。
古代魔法の劣化版とはいえ、黒魔法と白魔法を融合させた竜の魔法に近い存在だ。うまく使えば、竜にも通用する可能性がある。少しの間なら、動きを縛れる見込みがあった。
「マダムが手配してくれた講師が、わかりやすく丁寧に教えてくださるので」
「センセイ、ねぇ……」
俺は苦い顔で呟く。
アーノルドの考察では、禁術を使えるのは竜神教の幹部たちだけだ。ならば、マダムが手配した連中も、本来なら邪教の徒として追われる身のはずだ。
後ろ暗い連中をシャロンに近づけることに懸念を示した俺を、マダムは鼻で嗤って一蹴した。
シャロンは、宗家の血を引く”贄姫”。
分家は宗家を支える――古代より続くしきたりは、竜神教の幹部たちにもしっかりと継承されていたらしい。
「最初は、本当に私にも”禁術”が使えるのか、半信半疑でしたが――ちゃんと、呪文と共に魔方陣は発動しました」
「マダムの言う話が本当だった、っていう証左だな。……アーノルドには絶対言うなよ。血筋研究の進化のためなら、犯罪にすら手を染めかねねぇ」
シャロンは複雑な顔で頷く。邪教の徒に教えを乞うていることも、自身が古に滅びた竜の一族の宗家の末裔であることも、あまりにも公表できないことが多すぎる。
「カルロに言われた通り、拘束の術ばかりを練習し、極めていますが――本当に、それだけで良いのですか?」
「あぁ。”禁術”は強力だが、発動に時間がかかり過ぎる。戦いの最中に、臨機応変に繰り出せるよう複数習得するほどの猶予はない。一つの術を極めておいて、事前に仕込み、罠として発動させる方が確実だ」
俺の言葉に、シャロンは頷く。
禁術は、魔方陣を描いて呪文を唱え終えて、初めて発動する。戦いの最中に、悠長に絵を描く隙を、竜が与えてくれるはずもない。荒事に不慣れなシャロンが、場に応じて術を組み替えるのも難しいだろう。
だから俺は、考えた。
魔方陣を描くのと、呪文を唱えるのを、切り分ければいい。
――描くのは、戦いの前でもいいはずだ。
魔方陣は、戦いが始まる前に描いておく。その上へ雪を被せて隠し、竜を誘い込んでから呪文で発動させる。展開の遅さという泣きどころを、戦いの外へ押し出す作戦だ。
あとは、どこにその罠を仕掛けるかという問題だが――
「ここだな」
俺は地図に向き直り、竜の潜む山頂から指を滑らせ、一点を指す。山頂から少し下った、開けた雪原。逃げ場は限られ、人の暮らしからは遠い。ここへ引きずり下ろし、シャロンが呪文を唱え終わるまでに、事前に仕込んだ禁術が足元に来るよう誘導して、捕える。
つまり、俺の仕事は二つ。
竜を山頂からおびき出して罠まで誘導すること。
禁術発動後、シャロンがアルヴィンを元に戻すまでの時間を、少しでも長くつなぎとめること。
そのために、魔道具は、ありったけ拵える。目くらましも、足止めも、拘束の決壊を凌ぐ保険も。
竜を斃すためではなく――シャロンを、兄の元に届かせるために。
◆◆◆
全ての準備の目処が立った頃には、窓の外で、根雪の縁が少しずつ緩み始めていた。
王都出立を翌日に控えた夜半、俺は寝つけずに自室を出た。
水でも飲もうと居間へ下りると、暖炉の前に、先客の影が見えた。
「シャロン。……眠れないのか」
「カルロ……」
振り返ったシャロンは、少し驚いた顔をして、それから困ったように微笑んだ。
「はい。明日のことを考えていたら、なんだか目が冴えてしまって」
俺は、向かいの椅子に腰を下ろす。消えかけた暖炉の火が、小さく揺れていた。
婚約したばかりの頃――俺は、シャロンを何があっても守ると、約束した。その気持ちは今も変わらない。
だが、この作戦の要は、俺じゃない。竜に触れ、アルヴィンを人へ戻すのは、シャロンだ。俺にできるのは、そこへ辿り着くまでの露払いに過ぎない。
半年前なら、俺はきっと、シャロンを部屋の隅へ押し込めて、一人で山へ向かっただろう。守るとは、そういうことだと思っていた。
今は、違う。
シャロンを危険から遠ざけることが、守ることではない。
彼女が選んだ道の隣で、その一歩を支えること。守護者ではなく――共に人生を歩む伴侶として。
――そう思えるようになったのは、目の前で背筋を伸ばすこの少女が、この一年で大きく変わったからだ。
「なあ、シャロン」
「はい」
「……怖くはないか?」
問うと、シャロンは少し考えて、首を横に振った。
「怖くない、と言えば嘘になります。でも……それより、ずっと楽しみなんです。お兄様に、また逢えるのが」
まっすぐな声だった。
もう、暗示に護られて俯いていた頃の彼女ではない。
「そうだな。絶対に、連れて帰ろう。約束しただろう。――絶対に、お前たち兄妹を生きたままもう一度逢わせてやる」
気づけば、そう口にしていた。
「帰ってきたら、結婚式だ。知らない間に話が進んでて、死ぬほど悔しがるアルヴィンの顔が今から楽しみだな」
冗談めかして言う俺に、シャロンは、ふっと表情をやわらげた。暖炉の残り火が、その頬をほのかに照らす。
「ええ。――三人で、帰りましょう」
その一言が、妙に胸に染みた。
俺たちが帰る場所には、初めから三人分の席がある。そういう当たり前を、当たり前にするために、明日、発つのだ。
「……そろそろ休め。明日から、長い道のりだぞ」
「はい。おやすみなさい、カルロ」
柔らかい笑みと共に軽く会釈をして、シャロンは階段を上がっていく。その足取りに、迷いはなかった。




