第85話 二択 (Side:カルロ)
「兄を救う手段に移りましょう」
シャロンの言葉を受けて、マダムは再び腰を下ろす。俺たちも、それに倣った。
「そもそも今回の件は、”器”の儀式を施されていない、血筋だけ適性のある男が魂移しの儀式に割り込んだことが原因だ。本来”器”へ継承されるはずの竜の力と記憶が、対象外の男に流れ込んでしまった」
びくり、とシャロンの肩が揺れる。シャロンにとっても、目の前で兄が竜へと姿を変えたあの日の出来事は、忘れられない悪夢なのだろう。
「結果、行き場をなくした力が暴走し――それを適切に御するために、古代の竜と同じ異形へと形を変えた。今のアルヴィン・フロストは、そういう状態だと考えられる」
「……」
「儀式直後から、膨大な歴代の竜神の記憶が流れ込んでるはずだ。いくら巨体になったとはいえ、処理が追いつくとは思えない。自我がどれだけ残っているかは、正直、賭けだね」
「そんな――」
シャロンは不安げに瞼を伏せた。
実際、アルヴィンは竜の討伐隊の攻撃を無効化した後、山頂に陣取ったまま動いていない。
先日、レーヴ領を訪れたときも、妹をあれほど溺愛していた男が、すぐ近くまで来たシャロンに、何の反応も示さなかった。自我があるのなら、助けを求めることも、せめて姿を見せることも、できたはずだ。それをしないということは――
そこまで考えて、軽く頭を振る。――今は、そんなことを考えている場合じゃない。
自我がないなら諦めよう、なんてことは、シャロンを前にして口には出来ない。俺自身、そんなことで諦めるなら、一年前の時点で討伐隊に加わっていた。
アルヴィンに自我があろうとなかろうと――必ず救う手立てを何とか考え出すのだ、と心を奮い立たせて、今日まで来たのだ。
「だが、人間に戻す方法は、ある。――神器があるなら、ね」
「――!」
俺とシャロンは同時に顔を上げ、マダムを見る。
「簡単な話さ。”器”がないから力が溢れて暴走した。――なら、受け止めるための”器”を用意してやればいい。神器を身に着ければ、溢れた力はそこへ収まる。人間に戻ることも、可能だろうさ」
ぱぁっとシャロンの顔が明るくなる。
あれから、一年。絶望に心を折られたシャロンに暗示をかけ、共に傭兵となって各地を渡り歩いて半年――それでも、アルヴィンを人に戻す糸口だけは、何ひとつ掴めなかった。
出口のない暗がりを、ずっと手探りで歩いてきた。今日この屋敷を訪ねたのだって、藁にもすがる思いだった。
そこへ、初めて、はっきりとした光が差した。
神器なら、ある。フロスト家の家宝として、現に手の届くところに存在している。
隣を見れば、シャロンも俺を見ていた。蒼い瞳が、久しぶりに子供みたいに輝いている。よかったな――そう言いかけて、俺の頬も緩んだ。
「――猫の首に鈴をつけるのが誰か、っていう問題は残るがね」
「……え……?」
緩みかけた空気が、凍りついた。マダムは、呆れたように嘆息する。
「相手は、巨大化して古代魔法を好きに振るえる化け物だ。アルヴィン・フロストとしての自我がどれだけ残ってるかも怪しい。理性を欠いた獣みたいな異形に――あんな小さな首飾りを、誰が、どうやって身に着けさせる? 人の形すら、してないんだよ」
差したばかりの光が、音もなく消える。
――そうだ。神器さえ着ければ、人に戻る。
だが、その鍵を、どうやってあの巨体に届けるのか。人に戻すために着けるのに、着けるには――まず、近づける相手でないといけない。近づけたところで、神器をぶつければいいわけでもない。肝心なのは”身に着けさせる”ことだ。あの巨体のどこに引っ掛ければいいか、から考える必要がある。だが、恐らく敵だと見なされる俺たちを相手に、反抗もせずじっとしていてくれるとは思えない――堂々巡りだ。
「人間に戻す方法は、それだけだ。実現できるかどうかは知らないがね」
マダムは一つ息を吐いた後、シャロンへ視線を据えた。
「……世界を救う方法なら、別にある」
「!」
「既に”器”となったアンタが、今度こそ邪魔が入らない場所で、継承の儀を受けることさ。私らが開発した最新の儀式は、竜の力を強制的に召喚し、対象へ乗り移らせる。アルヴィン・フロストから力と記憶を残らず剥奪して、アンタに乗り移らせることも出来るはずだ」
「それは……」
「そうすりゃ恐化は止まり、世界は救われる。――その時、元のアルヴィン・フロストがどうなるかは、何の保証もないけどね」
その言葉に嘘はないだろう。
今回の竜化は、ガードナーにとっても想定外のイレギュラー――前例がない事象だ。どうなるかなんて、誰にもわからない。
仮に力を剥がして人の体に戻れたとしても、無事でいられるとは思えない。命を蝕む竜の魔法を、数度とはいえ神器も無しに行使した体だ。それに、竜を事前に移動させておかなければ、力を奪われた瞬間、北の山頂で、防寒もない裸身で放り出されることになる。
力と記憶を、残らず剥ぎ取る。マダムは事も無げに言うが、どちらに転んでも、アルヴィンは――
「……方法は教えたよ。どちらにするのか、早めに決めておくれ」
「!」
マダムは、話は済んだとばかりに腰を上げる。
俺は、ぐっと奥歯を噛みしめた。
頭の中に、二つの道が並ぶ。
神器でアルヴィンを助けられる方法は、実行する術がない。実行できる方法は、アルヴィンを犠牲として差し出す道だ。
――最初から、選べる道なんて、一つもありゃしない。
「私としては、当然、後者を勧めるよ。たった一人の犠牲で世界が救えるなら、御の字じゃないか」
「っ、てめぇ――!」
「だが、私らは分家だ。宗家の意向に従う。――最後は、宗家が決めればいい。物事の分別が付かない小娘でもないようだからね」
先ほど、怯まず意見したシャロンを見たからだろうか。
マダムはそれだけ言い残して、俺たち二人を残して、部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
応接間に、俺とシャロンだけが残された。暖炉の薪が小さく爆ぜる音が、室内の重い沈黙をより際立たせた。
窓の外で、陽が傾きはじめている。
オレンジ色の光が、机に広げたままの分厚い書籍を、ゆっくりと染めていく。
――言うべき言葉が、見つからない。
いつもなら、どんな窮地でも軽口の一つも叩いて、シャロンを励まし、解決策を提示するのが俺の役目だ。なのに今は、口が重かった。
戦う相手がいるなら、いくらでも戦う。どんな敵でも、シャロンを守るためなら、負けるつもりはない。
だが、今度ばかりは勝手が違った。立ちはだかっているのは、人でも魔物でもない。ただ、道がない、ということだけ――
拳を握っても、振り下ろす先がない。
どれくらい、そうしていただろうか。
先に口を開いたのは、シャロンだった。
「……カルロ」
顔を上げると、シャロンは俯いてはいなかった。蒼い瞳が、まっすぐ机の上の本へ注がれている。
「本当に、この二つきりなのでしょうか」
「……あ?」
「マダムは、ガードナーが紡いできた歴史から推察できる方法を、教えてくださいました。でも――まだ誰も気づいていないことや、試したことのないことだって、あるはずです。私の体に起きたことだって、前例のないことだったのでしょう」
シャロンの言葉に、ハッと息を呑む。
マダムの言葉は、重かった。百戦錬磨の女傑が、何代もの研究の果てに示した、二つの道だ。それを前に、俺はもう答えはこの二つきりだと、いつのまにか自分から蓋をしていた。
なのにシャロンは、その蓋を、諦めずに持ち上げてみせた。
絶望に呑まれず、与えられた二択そのものを疑っている。
「……そうだな」
俺は、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「マダムが知らねぇことも、きっと、いくらでもある。それに――決めるのは宗家だと言ったのはあっちだ。なら、焦って今ここで選んでやる義理もねぇ」
「はい。……二人で、考えましょう。きっと、まだ何か、あるはずですから」
窓の外で、陽が落ちていく。
出口は、まだ見えない。
それでも――隣に、シャロンがいる。諦めず、俯かず、前を見続けるシャロンが。
――今はまだ、それだけでいい。そう思い、俺はシャロンと立ち上がった。




