第82話 天使 (Side:アルヴィン)
僕は、僕のまま、夢を見る。
懐かしく愛しい、宝物のような戻らない日々――
僕の人生は、たった一人の天使との出逢いから、始まった。
◆◆◆
国内でも有数の大貴族フロスト家に嫡男として生まれた僕は、生まれる前から将来を期待されていた。
幼い子供に背負わせるには大きすぎる期待を、物心つく前から何となく感じていた。周囲は僕に、最高の環境を与え、立派な貴族になるよう徹底的に教育した。
周囲の言うことを聞いていれば、褒めてもらえた。自我らしい自我など、必要とされていなかった。求められるのは、”将来有望なフロスト家次期当主に相応しい振る舞い”――ただ、それだけだった。
それを感じ取れるくらいには、幼いころから聡い子供だったのだと思う。
それが変わったのは、妹が出来てからだった。
日に日に大きくなる母の腹の中に、命が宿っているというのが不思議だった。生まれてくる子が男でも女でも、兄として、次期当主として、模範になるように努め、助けてやりなさいと言われた。もちろん、言われるまでもなく僕の答えは「はい」だった。――それ以外の回答が求められることはなかったから。
やがて、出産のために母が家を離れた。少しは寂しい気持ちもあったが、そんなことを言って甘えるのは相応しくない振る舞いだった。僕は、品行方正な兄として相応しくあるよう、母の不在も弱音を吐かずに日常通りに振舞った。
しばらくして、母が久しぶりに帰宅した。子供らしく駆け寄るなんてことはしない。「お帰りなさいませ」なんて大人びた挨拶をして、優しい貴公子の微笑みを湛える余裕まであった。
だけど、懐かしい母から、「これが貴方の妹よ」と赤子を腕に抱かせてもらった、あの瞬間――
雷に打たれたのかと思うような衝撃が走った。
それまで想像していたものなど、所詮、子供が考える範囲の中での幼稚な想定でしかなかった。
小さい。
か弱い。
――――愛しい。
「ぅ……ぁぅ……」
腕の中で、目を開くことも出来ないまま、小さな泣き声にも似た何かを発する赤子。それまで経験してきた大人たちの抱っこに比べれば、酷く頼りなく不安だったに違いない。
それでも、彼女は大声で泣くことなく、今にも消え入りそうな声で控えめに主張をしただけだった。その主張を最後に、すぅっと眠りに落ちてしまったらしい。少し重くなった。
布の中に、小さな顔があった。皺だらけで、赤くて、およそ美しいとはいえない顔だったが、唇だけが、妙に形よく整っていて、眠りながら小さく動いていた。
それが、堪らなく――愛しくて、愛しくて。
もし、手を滑らせでもしたら――……自分の振る舞い一つで、簡単に危険に陥る責任感と緊張に、怖くなる。
だけど、同時に、こんな拙い自分を信じて身体を預けてくれる感動に、心が震えた。
「シャロン、というのよ」
母が名前を教えてくれて、愛しさがさらにあふれ出す。
兄としてではない。次期当主としてでもない。
この”シャロン”と名付けられた愛しい命を、世の中の全ての害悪から、全身全霊をかけて自分が守ってやらねば――と心に決めた。
この小さな、か細い、こんなに儚い存在を。この指を、この重みを、この眠りながら動く唇を、何者からも守りたかった。
「……シャロン」
眠ったままの顔に向かって、小声で呼びかけるが、答えは返ってこなかった。
――それでいい。答えなくていい。眠っているままでいい。
この子が目を開いて、初めて見たときの世界を、少しでもましなものにしておくのが、僕の仕事だと思った。
――それが、僕が生まれて初めて抱く、”アルヴィン”としての、個人的な感情だった。
◆◆◆
初めて出逢ったあの日から、シャロンはずっと世界で一番愛しい存在だった。
初めて目を開いて、僕を見てくれた日。
大きな瞳に僕を認めて、初めて笑いかけてくれた日。
舌足らずな拙い発音で、初めて「おにいさま」と呼んでくれた日――
どれも、昨日のことのように鮮明に思い出せる。
幸せそうな笑顔を目の当たりにするたびに僕は、シャロンのために全てを捧げようと心に誓った。
だけどシャロンは、可愛すぎて――危険な目にも、たくさん遭遇した。
彼女が五歳の時、王都で襲撃を受け、信頼していた護衛の死を目の当たりにしてから、シャロンは内向的になっていった。
始まった貴族教育も相まって、どんどん本音を口にすることが無くなっていく日々――まるで、シャロンと出逢う前の自分を見ているようだった。
シャロンが生きる世界は、綺麗で穏やかなもので満たしたかった。彼女を脅かす存在は全て排除して、いつだって幸せそうな顔で、何も心配せずに笑っていてほしかった。そのためなら、何でもした。
――シャロンのために生きることが、”アルヴィン”としての生きざまだったから。
だから――
「――シャロン!!!」
現れた得体のしれない巨大な竜の幻影の前に飛び出すことだって、何の躊躇もしなかった。
僕に何かあったら、一族に迷惑がかかることなどわかっていた。父も母も、利権が絡む全ての人たちが困るだろうことはわかっていた。
――だけど、それが、何だというのか。
一族が無事でも、シャロンに何かがあったら、僕は生きていけない。それは結局、一族郎党を惑わせる結果になる。
見たこともない竜の影が、一体何なのかとか、そんなことは考えなかった。
世界で一番愛しく、命を賭して守ると誓っている少女に危険が迫っていた。――それだけで、僕が身を挺す理由は十分だった。
そのために、シャロン以外の人間が、世界が、どうなろうと知ったことではない。シャロンが無事なら、それでいい。
――僕は、ドロテアの気持ちが、誰よりもよくわかった。
夢の中で垣間見た、歴代の”贄姫”と”竜神”たちの記憶――数々のものに囚われ続けた、哀しい人たち。
夢の内容が真実ならば、シャロンが次の”贄姫”となり、太古の竜の力を行使して、各地で進行する恐化を浄化していけば、世界は救われたのだろう。――竜の力は、対症療法でしかない白魔法と違って、瘴気を完全に浄化できる。
だが、それが何だと言うのか。
世界が救われたその先に――シャロン自身の幸せがないなら、意味はない。
シャロンは、とても優しい子だ。事情を話して、世界のために『お役目』に囚われてくれと告げれば、きっと、受け入れてくれただろう。過去の経験から、自分を犠牲に他人の幸せを願うことに、慣れ切ってしまった哀しい子だから。
だけどその優しく哀しい子が、初めて、”自分の幸せ”を感じて大切にしようと思い始めていたところだったんだ。
自由な世界に連れ出してくれた婚約者のおかげで、他人の幸せだけでなく、自分の幸せを喜ぶことが出来るようになったところだった。
生まれて初めて、自分のための外出をして、キラキラとした笑顔を見せた日のことは忘れられない。
あの笑顔を引き出せたのが、僕じゃなくカルロだったというのは少し癪だが、天使みたいなシャロンの笑顔の前には、些末なことだった。
だから、あの日、僕が身を挺したことで、竜の力を僕が奪ってしまったことは、結果としてよかったと思う。――シャロンにこの力が宿っていたら、シャロンは世界を救うため、何も言わずに『お役目』に囚われていただろう。
自由もなく、命を削る力を惜しみなく行使して――誰に感謝されるわけでもないのに、当然のことだと微笑んだはずだ。
それは――ドロテアが、忠義を尽くしてくれた分家と袂を分かってまで、避けたかった未来。
世界が崩壊する危険を誰より知りながら、己の子孫には決してその呪われた運命を引き継がせまいと、周囲に何も語らず、生涯を終えた。
”竜の力”が僕の元にあるうちは、シャロンが犠牲になる未来は訪れない。
そもそもが、竜の一族を妬み、協力の道ではなく排除を選んだ人間側――現代の支配勢力たちが引き寄せた、自業自得の結末だ。
だから僕は、ここで眠り続けよう。
僕の先祖――初代フロスト家当主のドロテアが願った通りに。
人知を超えた力など、歪なものだ。誰かを不幸にして築かれる幸せなど、最初から存在しなかったことにしてしまえばいい。
――大丈夫。
シャロンの隣には、カルロがいる。
シャロンの本当の笑顔を引き出せたカルロなら、きっと、僕の愛するシャロンを幸せにしてくれるはずだ。
それだけで――僕は、十分だった。




