第81話 ドロテア② (Side:アルヴィン)
薄暗い洞窟の中、火を囲んで、ダリウスが地図を広げる。
いくつも書き込まれた印は、彼があの炎の夜から五年もの月日をかけて配置してきた、忠臣たちの居場所。
「宗教という手段は、奏功しました。太古の昔、初代”贄姫”に力を与えた竜を神として崇めることで、恐化から救った者たちを中心に、水面下で信仰が広がっています」
きっと、印の場所が、新興宗教”竜神教”の集会場なのだろう。
奏功――とは、よく言ったものだ。
邪教と呼ばれ迫害されることの、何が奏功なのか。
黙った私の横顔に何かを感じ取ったのか、咳払いをしたダリウスは地図の上に指を滑らせる。
「竜神教は、協力者を募る良い隠れ蓑ですが――御家復興には、遠い。我ら一族が『お役目』につけなくなって以降、世界は荒れ、恐化は進むばかり……すべての元凶は、一族を夜襲した憎き敵勢力。最後はこれを屠る必要があります」
ダリウスの指が示すのは、地図の中央。
白魔法遣いが中心となって恐化を退け、安寧の地として自治都市を作っているという噂のエリアだ。
「白魔法の権威を王として、新たな王国を造り出すつもりだとか……」
「腹立たしいことです。白魔法など、所詮紛い物。問題を先送りにするばかりの対症療法とは知りもせず、我らを迫害することで、世界は文明すら後退させてしまった……」
敵意をむき出しにするダリウスの言葉に、私は小さく息を吐いてゆるりと周囲を見渡す。
この洞窟もまた、私たちがやってくるまでは、酷い恐化の中心地だった。私たちが本物の竜の力で浄化をしたから、ここはしばらく安全だ。
五年前のあの夜――私の一族は、急に人間たちに裏切られた。
黒魔法と白魔法――新しい魔法が生まれた結果、私たちは”特権階級”ではあり得ないという世論が巻き起こったのは知っていた。本当は誰にでも使える魔法の秘密を一族で独占し、甘い汁を吸っていた鼻持ちならない連中――というのが、いつのまにか、世界の常識になっていた。
人々は嫉妬に端を発したどす黒い正義感を振りかざし、私の家族を、一族を、皆殺しにすることにした。
しかし、彼らも一枚岩ではなかったのだろうか。私たち一族がいなくなった後、誰が世界の覇権を握るのかで、揉めたようだ。――酷く、馬鹿馬鹿しい。
結果、あちこちで争いが巻き起こった。争いが増えるにつれ、死も増える。――死のエネルギーが堆積すれば、瘴気が濃くなっていく。
人間は、愚かだ。
正義を口にして、恐化から世界を守ると嘯いて――私たち一族を追い落とすことで、自ら恐化を引き起こした。自然の摂理と異なる速度で広がる恐化を、紛い物の白魔法で一生懸命浄化しているらしいが、”核”を見極める竜神の目がない彼らの対処は効率が悪い。
それまで存在していた国は魔物によって全て壊滅し、瘴気によって土地は汚染され、人々はまともな生活を送ることすら困難になって久しい。
――世界に、避けようのない”死のにおい”が蔓延していた。
「このままでは、世界が崩壊します。偽りを真実と吹聴する奴らに世界の命運は託せない。かくなる上は――私をはじめとした選りすぐりの忠臣たちを敵勢力に潜り込ませ、内側から崩します」
「!」
トントン、とダリウスは地図を指で叩く。
「新王国は、優秀な白魔法遣いを求めていると聞きます。宗教を目くらましにしたおかげで、本体の我らの情報も足取りも煙に巻けている今が好機です。どうせ、ここ数年の戦乱で、数々の情報が失われています。白魔法遣いの血を引く誰かになりすまし、潜り込んだところで気づく者はいない。奴らが躍起になっている竜神教の摘発を手伝う名目で、情報を持ち込み、討伐すれば、さらに我らが竜の一族とは夢にも思われず――」
「やめて」
短く、しかし強く、鋭く伝える。
ダリウスは、虚を突かれた顔をした。
「なぜですか!? 時間はかかりますが、必ず――」
「……やめて、と言っているの」
もう一度、静かに従者を宥める。
「竜神様」
「もう、誰も死なせたくない。……誰にも、死んでほしくない」
遠い日の炎の音を、思い出していた。
あの夜の、屋敷が崩れていく音は、今も耳にこびりついて離れない。
――あれから、何人が死んだだろう。数えるのも、やめた。
「一族の無念を晴らすことが――」
「一族は、もう終わっています」
私は、ダリウスの顔を見ないまま言った。
「もう、終わったのです。――あの炎の夜に、何もかも」
ダリウスの顔色が変わる。
私を抱えて逃げてくれた、母の忠実な従者。幼いころから、私の世話も積極的に焼いてくれた昔なじみ。
昔は分家を代表する人物で、整った顔立ちの好青年だった。だがこの五年で目は落ち窪み、深いしわが刻まれ、厳しい顔つきが常態となっている。今や当時の面影はどこにもない。
「竜神様は……あの御方の御意志を、お忘れになったのですか」
「あの御方――先代の、竜神様のことを言っているのでしょうか」
瞳に凄絶な光を宿すダリウスに、ふっと嘲笑にも似た吐息が漏れる。
一族が散り散りになり、母が死に――ダリウスはあの日から、未だ御家復興の妄執に取り憑かれている。
神器を着けたまま泣きじゃくる幼い私を、簡易の祭壇に縛り付け、無理矢理継承の儀を決行した。儀式が終われば、大の大人が膝を付き、幼い子供に向かって仰々しく「竜神様」と呼びかけた。
世の中の人間は愚かだが――彼らもまた、酷く愚かに思えた。
「先代は――母は、そんなこと、望んでいませんよ」
「竜神様!」
母の遺志――私はそれを、誰よりよく知っている。
儀式を経れば、歴代の”竜神”の記憶が継承される。当然、先代の竜神だった母の記憶も。
母が望んでいたのは、今、私たちを迫害している者たちとの共存だった。一族も、一族以外も、誰も死なせない道だった。
でも、それを今ここで告げても、きっとダリウスには、届かない。
それもまた、よくわかっていた。
「ダリウス」
静かに、その名を呼んだ。母の記憶を引き継ぎ、ただの”ドロテア”だったときには知り得なかった事実。
「母は、死んだのです。世の中に真実を知らしめ、家を復興させ、再び世界が我ら一族の力を必要とするようになったとしても――母は、戻って来ませんよ」
「……」
火が、ぱちりと小さくはぜた。
ダリウスは、何も言わなかった。――耳が痛くなるほどに長い、長い沈黙だった。
母の記憶の中、ダリウスは常に母の傍らに在り続けた。
母に仕え、苦楽を共にした。献身を捧げ、公も私も全てを明け渡していた。
そのまなざしには――敬愛以外の情が、昔からずっと、含まれていた。
母も気づいていた。気づいていて、何も気づかないふりをした。
宗家と分家。主と従者。――二人は決して交わらない存在だったから。
あの夜があろうとなかろうと、ダリウスが己の感情を吐露することはなかっただろう。
母には決められた伴侶がいて、私という子供が生まれ、幸せな家庭を築いていた。
ダリウスもまた、分家の繁栄を担う男子として、妻を娶り子をなした。――それが、彼らの『役目』だったから。
だが、不本意な形で失ってしまった愛すべき人への喪失感を、どうやって埋めていいか、わからないのだ。
だからいつまでも、亡霊のように妄執を抱えたまま、全てを捨てて進み続ける。
「……どうしてもというのなら、貴方だけでやりなさい。私は関与しません」
「竜神様」
「恨みが募る相手の懐に入るのは、耐えがたい苦しみを生むでしょう。危険な目にも遭うかもしれない。だからどうか、約束してください。御家復興の使命などよりも――自分の命を何より大切にする、と。私は、もう、一族の誰にも死んでほしくないのです」
私はダリウスに微笑む。少しでも母に似た面差しだと良いと願いながら。
「……承知いたしました」
本当に納得したとは思えなかったが、ダリウスは口先では了承し、自分の息子を私の前に立たせる。
「エルド。お前は、これから竜神様にお仕えしろ。宗家を支える分家として、生涯、命を賭してお守りするんだ」
「父上――」
エルドは、何か言おうとして、口を閉じた。
ダリウスは深く頭を下げ、そのまま夜の中へ歩いていく。――振り返ることは、なかった。
身を粉にして尽くしてくれた忠臣との別れだったが、悲しいとも、寂しいとも思わなかった。
「竜神様――」
「……ドロテア。私は、ドロテアよ」
告げながら、私は立ち上がる。目の前の少年は、同じくらいの年頃に見えた。
「私は、貴方の父親と違って、宗家も、一族も、もう、どうでもいいの。だからどうか――ドロテア、と呼んでほしいわ」
「ドロテア……様」
「……今は、それでいいわ。よろしくね、エルド」
手を差しだして、握り込む。
宗家と分家の関係を考えれば、あり得ない行為だ。エルドは最初、驚いたようだったが、おずおずと手を握り返してくれた。
『いい子ね』
ふと、耳の奥に、懐かしい声が響いた気がした。
炎の中で、母が最期に遺した言葉だった。
あの言葉に応えるように生きてきたわけではない。だけど、心の隅にずっと根を張る言葉だった。
壊滅する一族を目の当たりにしながら、忠臣と袂を分かった今の私は――母が望んだ『いい子』の姿なのか、わからない。
「……さて、エルド。これから、どこへ行きましょうか。どこか遠く――私たちのことを誰も知らない、誰も気に掛けないようなところがいいわ」
ダリウスが置いていった地図に目を落とす。
印が付いたところには行きたくない。私のことを「竜神様」などと呼ぶ者がいるところには、もう二度と。
冷たいと思われてもいい。悪い子だったとしてもいい。
「そうね……ここはどうかしら。――通称”流浪の民の土地”ですって。今の私たちに、ピッタリじゃないかしら」
「どこへでも――ドロテア様の、お心のままに」
エルドは静かに頭を下げる。苦笑して私は、地図を畳み、心の中で決意する。
――ここで、終わりにしよう。
初代の”贄姫”から代々続いてきた、この呪いのような役目を。
◆◆◆
風が唸り、白い渦が巻き起こる。ぼんやりと瞼を開けると、夢に落ちる前と変わらぬ白銀の世界だった。
ドロテア。竜。名もなき贄姫たち――いくつもの”私”が重なり、溶けていく。
皆が世界の均衡を保つという『お役目』のために、己の命を、幸せを、全てを犠牲にしながら生きていた。
皆、囚われていた。
『お役目』に。
一族に。
身勝手な人間の振る舞いに。
――”愛”そのものに。
太古の竜が一人の女を愛したことから始まった物語は、最後の”贄姫”ドロテアによって、終止符が打たれた。
打たれた、はずだった。
それは、世界を見捨てる選択だった。『お役目』を放棄し、神器の秘密も竜神の真実も全てを継承しないで、フロスト家の初代女当主として生きた。
それで将来、世界が滅んでもいいと、ドロテアは考えた。
ただ一人の人間を犠牲にして成り立つ世界の均衡に、何の価値があるのだろう。
――誰かが感謝してくれるわけでも、ないというのに。
それはきっと、太古の竜から続く、全ての竜神がうっすらと抱いてきた共通認識だった。
そして――例にもれず、僕もまた――……




