第80話 ドロテア① (Side:アルヴィン)
次の夢は、”赤”だった。
その日の夜は、いつもと同じように静かに始まったはずだった。星の瞬きに耳を澄ませるようにして眠りについた――はずだったのに。
――目が覚めたとき、暗闇は赤に変わっていた。
窓の外、いつもなら星が見える場所に、火があった。まるで昼間のように煌々と明るい室内に、本能的な恐怖が湧き起こる。
屋敷中から、変な音がする。ぱちぱち、ごう、と何かが爆ぜるような音。それから――悲鳴。何度も、何度も、あちこちから――
「っ……!」
”私”は、寝台の上で動けなかった。何が起きているかわからなくて、悲鳴すら喉の奥で縮こまった。
扉の向こうの廊下も、もう火に包まれていた。
逃げなくては――と頭の片隅には過るのに、身体が動かない。
眼前に広がる火の海を、茫然と眺める”私”には――初めて、名前があった。
「ドロテア!!!」
灼熱を切り裂く鋭い叫び声に、振り返る。
火の壁を割って、見慣れた女が飛び込んで来た。
長い髪が、炎を背に揺れている。この人のようになりたいと、幼いながらに背伸びをした。同じように髪を伸ばして、口調を真似て、全てに憧れた大好きな人。
一族の頂点に座する、当代の”竜神様”。
「ドロテア! 無事だったのね――!」
竜神様の顔が泣きそうに歪んで、ぎゅっと硬直していた私の身体を抱きしめる。
その瞬間、何かが決壊した。
「ぉ……お母様! お母様、お母様、お母様――!」
”贄姫”に選ばれてからは一度も呼ばなくなった呼称が、堰き止められることなくあふれ出す。
ぼろぼろと涙があふれる。久しぶりに抱きしめられた大好きな母の腕の中は、昔と何一つ変わらなかった。
いつもと何も変わらない、安心する温もりと匂い。
「大丈夫。大丈夫よ、ドロテア」
泣きじゃくる私に言い聞かせるように、ぽんぽんと背中を叩く。その温かい掌に、私はもっと涙をあふれさせた。
「竜神様っ……急がないと、火の手が――!」
従者の声がして、母は私から身体を離す。
母は私の涙を優しく拭った後、従者に私の身体を預けた。母に幼いころから付き従う従者は、慣れた手つきで私を抱えた。
逞しい従者の身体に抱えられた私を見て、安心したように母は微笑むと、己の首から宝石を取り出す。
一族が代々守り、継承してきた秘宝――”神器”だった。
「ダリウス、お願い。この子を連れて逃げて」
「お母様!?」
涙交じりの声で叫ぶが、母は構うことなく私の首に神器を掛けた。
「私は、一族の皆を助け、敵を少しでも減らすため――ここに残ります。だから、ドロテア。今日から貴女が、”竜神”よ」
首にかかった宝飾は、ぞっとするほど重たく、冷たかった。
「っ――嫌だ!」
「ドロテア様」
間髪入れず叫び、抱えられた腕から逃れようともがきながら、愛する母へ手を伸ばす。
「嫌! 嫌、絶対に嫌! お母様! お母様も一緒に――!」
「ドロテア」
お母様は私の頬を両手で包んで、笑った。
”竜神様”ではない――大好きな”お母様”の優しい微笑み。
「いい子ね」
その言葉が、最後だった。
従者――ダリウスが私を抱えたまま、炎の反対側へと走り出す。
「嫌ぁああああっ! お母様――! お母様――!」
涙が溢れ、ぼやける視界の中で、母の姿は、炎と煙にまぎれて消えていく。幼い腕は短くて、どれだけ懸命に伸ばしても炎の中の母には届かない。
みしみしと屋敷が崩れていく音が聞こえた。
私の部屋。みんなで囲んだ食卓。お母様の優しい子守唄。すべてが、灼熱の炎の中に取り残されていく。
これまでの日常、平穏、優しい思い出――全部、全部、何もかもが、業火の中へ消えていく。
「お母様ぁあああああ――!!」
炎に照らされ、朱と金に染まった夜空に、絶望に濡れた私の声が響き続けていた。




