第78話 竜と娘② (Side:アルヴィン)
――夢は続く。自分ではない何者かの、太古の記憶。
僕は”わたし”になったまま、夢と現の境を彷徨い続けた。
◆◆◆
寒い、などと感じたことはなかった。
辛い、と考えたことなど一度も無かった。
だが、娘が”わたし”の身体に触れて、温もりを分け与えたとき――初めて、”温かい”と感じた。
温もりを感じて初めて、温もり以外の冷たさを知った。
――世界はとても冷たくて、寂しかった。
「竜神様」
柔らかな鈴を転がす声が響く。
何も映さないはずの瞳は、いつも穏やかな光を湛えていた。
自分の境遇がわかっていないのかと疑ったこともあるが、違った。
娘は、誰よりもよく、自分の立場を理解していた。
わたしの身体に手を触れながら、娘は歌うように口を開く。
「お勤めは、まだ、よいのでしょうか」
”お勤め”が己の命の終わりを意味することも、娘はよくわかっていた。
「竜神様は、”贄姫”を喰らうことで、世界の”恐化”から我らをお救い下さるのですよね」
娘は当たり前のように口にする。――彼女が口にする”我ら”に、彼女自身は入っていないのに。
「恐ろしくはありません。竜神様と過ごした日々は、とても幸せだったから」
人の世にいたころは、ただ生きているだけで筆舌に尽くしがたい理不尽に晒されていたのだろう。ここで得た束の間の『何もない』日々こそが、彼女にとっては楽園のように感じられたに違いない。
彼女を喰らい、彼女の楽園を終わらせねば、世界はいつか恐化の波に飲み込まれる。わたしも内側から崩壊するだろう。
だが、わたしに生まれて初めて温もりと孤独を知らしめた娘を失ってまで、生き永らえることに意味はあるのか――
「娘よ。お前に問う。お前は、世界の存続を願うか」
「え……?」
「ここは、お前に理不尽を強いた世界だ。もしもわたしが役割を放棄し、瘴気に飲まれ、狂い、死が蔓延したとしても――お前を苦しめた者が死ぬだけだ。お前にとっては、その方が良いのではないか」
娘は、不思議そうな顔で首を傾け、言葉の意味をしばらく考えていたようだった。
やがて、口を開く。
「いいえ。私は、生まれたときから”贄姫”になる運命でした。竜神様が、悠久の時間の中で世界を守ることを『役割』として来たように――私にとっては、”贄姫”となることが私に定められた『役割』なのです」
命に課せられた『役割』は果たさなければいけない――そこに、理由はない。それこそが、己の存在意義なのだから。
その感覚は、わたしにもよく理解できるものだった。
そうでなければ、世界の守護者は務まらない。感情も、倫理も、幸福も、全てを超越したところに存在するからこそ、世界を救うことが出来る。絶望も孤独も嫌悪も、遠い所にあるから、己のためではなく世界のために力を振るえるのだ。
そこに疑念を持つようでは、役目を果たすことは出来ない。
だから――わたしはもはや、世界の守護者足り得る資格はないのだろう。
世界の守護者としての資格を持つのは、むしろ――
「では、娘よ。――お前にわたしの力を明け渡そう」
「え――……?」
娘は声の方を探るように顔を傾ける。
もう、わたしに世界は救えない。
この少女を、”愛しい”と感じる心を持ってしまったから――
「世界を救う、神の力だ。世界は全て、お前の思う通りになる。この力を使うとき、ただお前は、念じればいい。世界を壊すも癒すも、お前の心のままだ」
「竜神様――?」
不安そうに、娘は手を伸ばす。
”わたし”を知りたいと、手を伸ばす。
「お前が世界に絶望せずに血を紡ぐ限り、わたしの力と記憶はお前の血族と永遠に共にある。いつまでもわたしの”器”を引き継いでおくれ」
温かく柔らかな手に身をゆだね、そっと顔を寄せる。
「愛しているよ。――わたしが、わたしのために力を使うのは、これが最初で、最後だ」
「――!」
人間たちが愛を示す際にそうするように、わたしは娘の瞼に口付けを落とした。
世界に眩い光が溢れ、力が発動する。
「竜神様――!」
光が収まった時、娘は初めて”触れる”以外の手法で世界を知るだろう。
空の青さを。
雪の白さを。
――世界の美しさと、醜さを。
「さらばだ。わたしの愛しい”贄姫”よ」
少女の首にかけられた、彼女に似つかわしくない大ぶりの蒼い宝石に力を託し、”わたし”は静かに瞳を閉じた――
◆◆◆
——目が、覚めかけた。
雪の冷たさが遠くにある。体の輪郭が、ぼんやりと戻ってくる。
夢を、見ていたようだった。
――僕はもう”わたし”ではない。
だけど、”わたし”が感じた孤独も絶望も愛しさも、まるで自分のことのように感じられる。
幾千年を生きた何かの、静かで長い独白――娘のこと、生贄のこと、世界の底に澱む死のこと。
まどろみの合間に、誰も知らない世界の真理を垣間見た気がした。
山の遠くで、風が鳴る。低く響く音を遠くに聞きながら、また睡魔がやってきた。
どうやらまだ、夢は終わらないらしい。
誰に言われたわけでもないけれど、僕はそれを、もっと、見なければならない気がした。
雪が頬に降り注ぐ。冷たい。――冷たい。
僕はそのまま、次の夢の底へと沈んでいった。




