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【連載版】竜の器と囚われの贄姫  作者: 神崎右京
第七章

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第77話 竜と娘① (Side:アルヴィン)

 随分と長い間――純白の中に、溶けていた。


 雪なのか、岩なのか、それとも山そのものになってしまったのか——身体どころか、自我の境界すらどこかへ消え去って久しい。

 息をしているかどうかも、心臓が打っているかどうかも、もうよくわからない。

 ただ、無限に思える静寂の中、ゆっくりと瞳を閉じるだけだった。


 ――寒い、と頭の片隅に過る。しかしその寒さすら皮膚のずっと外側にあって、どこか他人事だった。


 弱々しい心臓の音が聞こえる。聞こえない。聞こえる——ひどく遠く、波のように、あるかないかのところで揺れている。


 やがていつものように強烈な睡魔に襲われ、意識すらも周囲の銀世界に飲み込まれ、白濁していく。

 静かで、眠くて——微睡に揺蕩う中で、現実と夢の縁を、今日もまた、そっと越える。


 ――その夢の中で、僕は"わたし"だった。


 ◆◆◆


 死のにおいがする、といつも思っていた。

 

 生き物が死ぬとき、何かが溢れ出す。目には見えないそれが、"わたし"には、なぜかはっきりとわかった。

 命の炎が消えるとき、その残滓が大地へと沈んでいく。生の気配とは違う――もっと重く、冷たく、腐ったようなにおいがするものが、地の底へ底へと流れ込んでいく。


 ――人はそれを「瘴気」と名付けた。


 生の気配は巡る。草が枯れれば土になり、土から草が育ち、草を獣が食べ、獣が死んでまた土に還る。

 だが瘴気は違う。ただ沈み、積もり、世界の底に、ゆっくりと澱んでいく。

 それが飽和すれば、溢れる。溢れたものは地上へ滲み出し、触れた命を蝕んだ。


 ――人はそれを「恐化」と呼んだ。


 恐化とは、命の核が、瘴気に塗り潰されてしまうこと。

 ――”わたし”はそれを、喰らうために生まれた。


 瘴気を体に取り込み、消化し、無に還せるのは、世界中を見渡しても、わたしだけだった。

 なぜそうなのかは知らない。生まれたときから、そうだった。

 ――わたしが生きている限り、地の底は飽和しない。恐化は起きない。


 世界の均衡を保つために生まれた、ただひとつの生命体――それが、わたしだった。


 だが、死を喰らい続けることはわたしを蝕む。大地の底に澱む死を体に取り込むたび、内側から何かが壊れていく感覚がした。

 生命本能を脅かされたわたしは、生きた命のエネルギーを喰らった。瑞々しい命の炎は、崩壊していくわたしの内側を均衡させた。

 だからわたしは瘴気と引き換えに生きた命を喰らい――恐怖に竦んだ愚かな人間は、自ら「贄」を捧げた。


 対価。祈り。守護への謝礼――「贄」に様々な意味を付けて、彼らはいつも同胞の命を送り出す。

 彼らは、竜が贄の命を受け取る代わりに、世界を守ってくれると、そう信じていた。


 長い年月の中で、そのことを問うたことはなかった。

 贄を受け取り、喰らうことに、感謝もなければ、後ろめたさもない。

 ただ必要だったから、そうであり続けた。


 ――そう思っていた。

 あの娘が来るまでは。


 ◆◆◆


 贄が来る日は、いつも同じだった。

 人間たちは、決まって夜明け前に山を登ってくる。松明の火が連なって蛇のように揺れ、太鼓と呪文が空気を揺らし、厳かな顔をした老人が先頭に立って祭壇まで贄を引いてくる。祭壇に括りつけ終わると、贄を残して老人らは去る。

 泣き叫ぶ者もいた。失神する者もいた。諦めたように虚ろな目をしている者もいた。要求したわけでもないのに、贄は何故か、女が多かった。

 だが、どれも同じだった。わたしにとっては、贄は命を繋ぎ世界の均衡を保つために必要な生命エネルギーでしかない。

 贄は皆、死を前にして様々なものを発露する。——希望、抵抗、誇り、感情。

 だがそのどれも、わたしの心にさざ波一つ立てることすらなかった。


 だからその日も、同じはずだった。

 ただ一つ違ったのは、先頭に立つ老人が娘の腕を引く力が、いつもより強かったことだ。見れば、足を悪くしているのか、娘は杖とも呼べぬ木の棒を手によろめいていた。

 いつものように祭壇に縛り付けられた娘は、痩せこけて、健康体とは思えなかった。

 人間たちは仕上げとばかりに、祭壇に放置されていた大ぶりの蒼い宝石がついた首飾りを乱暴に娘の首にかける。――贄に選ばれた者に施される、形だけのいつもの装飾。

 前の贄が残した、わたしの”食い残し”だ。


「此度の”贄姫”でございます。どうぞ、お納めくださいませ」


 しゃがれた声で定型句を告げた老人は、一瞬たりともここに居たくないと言わんばかりに踵を返した。蛇のように連なる火が、あっという間に山を下りていく。


 大人しく祭壇で自由を奪われたままの娘は、泣かなかった。

 虚ろでも、恐怖で強張っているわけでも、諦めで弛んでいるわけでもなかった。命乞いの一つもせず、ただ静かに、真っ直ぐ前を向いていた。


 ――妙な贄だ。


 そう考えたが、命を喰らう結末に変わりはない。いつも通り近づいて――初めて気が付く。

 女は、前を向いていたのではなかった。

 彼女の双眸は、何も映していなかった。瞼は開いているのに、焦点が合わない。最初から、何も見えていない目だった。

 畏怖の象徴とされる禍々しい巨躯を近づけても、娘の表情は変わらなかった。

 影が差しても、地面が震えても、娘は動じることなく、首を僅かに傾けた。


「あなたは……大きい、のですね」


 娘が口を開いた。――声は、微塵も震えていなかった。

 思わず、動きを止める。


 贄が言葉を発することは珍しくない。命乞いも、罵倒も、神への祈りも、様々な言葉を聞いてきた。

 だがこの娘の声には、そのどれも混じっていなかった。


「音で、わかります。呼吸が、ずいぶん遠くから聞こえるから」


 娘は言いながら、縛られた両手を、ゆっくりと前に伸ばした。

 届くはずがない距離だった。それでも娘は手を伸ばし続けた。細い指先が、虚空を探るように、かすかに動く。

 彼女の瞳が、一筋の光も映していないことは、それだけで十分察せられた。


「贄の務めを果たす前に――あなたに触れても、いいですか」

「――……」


 娘の言葉に、一瞬、惑う。

 答える必要などない。贄が何を言おうと、これからこの娘の命を喰らう結末は変わらない。


 伸ばされる手には、無数の傷跡。栄養が行き届いているとは思えぬこけた頬。盲いた瞳と、老人からの扱い――娘が、人間社会の中で虐げられ、体のいい口減らしでここへ連れて来られたことはすぐに察せられた。

 

 そうした贄は初めてではない。むしろ、よくあることだ。その境遇に、憐憫など湧いては来ない。

 境遇がどうであれ、娘が生のエネルギーを持っていることに変わりはない。恨まれようが、嘆かれようが、わたしの知ったことではなかったからだ。


 だが――触れたい、と言われたのは初めてだった。


 瘴気を喰らって世界の穢れを一身に引き受ける呪われた異形に手を触れるなど、常軌を逸している。 

 興が湧いたわたしは、試しに首を低く傾けた。

 空気の動きで察したのだろう。娘の指先が、おずおずと鱗に触れた。


 娘はわずかに目を見開く。


「……冷たいのですね」


 それから、確かめるように、ゆっくりと手のひらを押し当てた。

 娘の表情は、今まで見て来た贄たちのどれとも違い、わたしにはうまく読み解けなかった。

 ただ娘は、長い時間をかけて、鱗の凹凸を指先でなぞっていた。

 

 まるで――世界を知るのに、それしか方法がなかったように。


「硬い。これは、大きな……鱗、でしょうか。初めて触れました」


 当然だ。他者に触れられたことなど、これまでの生涯で、ただの一度もなかった。この鱗の固さも、大きさも、知る者などいなかったはずだ。


 この娘には、空の青さも、雪の白さも、知る術がないのだろう。彼女が世界を知るには、手で触れる以外の手法がない。

 形を確かめ、温もりを感じ、初めて概念を記憶する。

 娘は今、初めて、”竜”の存在を知ったのだ。


「……わたしが、恐ろしいか」


 遠慮なく撫でまわされる手に、問いかける。娘は驚いたようだった。

 人間の声帯とは異なる造りから発せられるくぐもった低い声は、わたしが恐ろしい神と崇められる存在だと印象付けただろう。


「驚きました。お話が出来るのですね」


 こちらの予想とは異なるところに驚いたらしい娘は、なおも遠慮なく手を伸ばす。

 ”わたし”を正しく知りたい――そんな無垢な好奇心と共に。


「はじめまして、竜神様」


 命の灯をかき消す直前とは思えない、柔らかな微笑とともに、娘の手のひらの温もりが、体表を滑っていく。

 何百年と積み重ねてきた時間の果てで――その温もりが消えることを、わたしは初めて、惜しいと思った。


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