第70話 条件 (Side:シャロン)
弦楽の最初の一音が、シャンデリアの灯りごと空気を震わせた。
最高の楽団が奏でる三拍子の旋律に導かれるまま、磨き上げられた大理石の床を滑る。
一歩、二歩と踏み出すたび、裾が静かに広がり、フロアにドレスの花が咲く。淡青のドレスに縫い留められた金糸が、燭台の光を受けて柔らかくきらめいた。
何も知らなかったあの頃、幸せの絶頂の中で、何度もカルロと練習した曲だ。目をつぶっていたって踊れる自信がある。
腰に添えられた手のひらの温かさ。ほんの半歩、近づけば触れてしまいそうな距離。
そのすべてが懐かしくて――息が止まりそうなほど、切なくて。
貴族の微笑みは浮かべない。少しでも笑いかけたりしようものなら、明日から格好のゴシップネタとして社交界が騒がしくなることは容易に想像がついた。
落ちぶれたフロスト家の令嬢が、大貴族レーヴ家にすり寄るために、プライドを捨てて、既に相手がいる元婚約者の平民に縋る――なんて滑稽な話題だろう。光よりも速く噂は広まり、私は社交界の爪弾きものになる。良縁など、望めるはずもない。
鉄の仮面を被ったように、無表情で冷ややかにやり過ごすしかない。
視線だって合わせない。会話だって、冷たくあしらい最小限のやり取りだけで、もう貴方に未練など欠片もないと態度で示さなければ――
「……?」
考えて、ふと疑問がよぎる。
確か、カルロは「話がしたい」と強引にここへ連れ出したはずなのに――いつまで経っても、彼が口火を切る様子はない。
まさか、このまま無言でダンスを踊るだけとは思えない。私への風評が厳しくなるのは当然だ――正式な婚約者を放置して元婚約者にダンスを申し込んだなどという醜聞は、これから輝かしい未来が待っているはずの彼にとっても、何の利もないはずだ。
カルロは貴族社会に疎いことは事実だが、頭が悪いわけではない。その程度のことは理解しているだろう。
怪訝に思って、ゆっくりと視線を上げると、赤い瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
私が見上げるとは思っていなかったのだろうか。視線が絡むと、カルロはわかりやすく驚いた顔をして、パッと顔を背ける。
「……あの……?」
「いや、悪い……何でもない」
不可解な行動に怪訝な声を出すと、カルロはまごまごと口の中で何か言い訳をした。
「話がしたいとおっしゃったのは、貴方ではないのですか」
「それはそうなんだが――」
呆れたように冷ややかに問いかけると、カルロはしどろもどろになり、ぎゅっと私の手を強く握った。
「すまない。改めて近くで見たら、あまりに綺麗で――見惚れてた」
「ぇ――」
虚を突かれて、目を瞬く。
――綺麗……?
見惚れる――?
……カルロ、が?
「……あぁ……そうですか。本当に貴方は、罪深い――」
「ぁん?」
漏れ出た声に滲んだのは、落胆。
彼の口からいとも簡単に紡がれた、私への賛辞。
婚約中、ずっとずっと、焦がれるほどに欲した言葉を贈られて、喜びよりも、喪失感が強く押し寄せた。
もう私は、『婚約者』でもなければ、『ビジネスの関係』ですらない。
街角ですれ違う女性と変わらない、『赤の他人』のカテゴリに分類されたのだと、否応なしに思い知らされた。
「旅の途中、何度か苦言を呈しましたが。……貴方にとっては日常の挨拶と変わらなくても、この国では通用しません。まして貴族社会であれば、なおのこと」
本気じゃない。社交辞令。挨拶みたいなもの――
街の女性を口説くカルロに私が苦言を呈すたびに、彼が口にした反論が、今になって胸に刺さる。
なんて滑稽な女なのだろう。
こんな無意味なものを、馬鹿みたいに焦がれて、欲しがっていたなんて――
「ちょ――待て、待て、身から出た錆だとは自覚してるが、なんかすごい誤解が生じてる気がするぞ……!?」
これ以上惨めな気持ちになりたくなくて、何やら焦るカルロから顔を背ける。
「どうでもいい話はここまで。早く本題に入ってください」
「どっ……どうでもよくはなくないか!?」
「どうでもいいことです。……叙爵されたそうですね。おめでとうございます。ファレス卿」
無理矢理話題を変えると、カルロはぐっと言葉に詰まった。
「そうだ。レーヴ家が後ろ盾になってくれた」
「存じております。貴族名鑑も一晩で暗記して、社交にも精を出されているとか。既に社交界で貴方は有名人です。これからの貴方の人生には、もはや一抹の不安もないでしょう」
「あぁ、だから――」
「貴族社会など興味がないとおっしゃっていた貴方が、レーヴ家の後ろ盾を得た途端、急に社交に精を出したのは――我がフロスト家のためでしょうか」
彼の『本題』に当たりを付けて踏み込むと、カルロが緊張で一瞬身体を硬直させたのが気配で分かった。
図星だったようだ。
私は静かに瞼を伏せる。
彼が、己の立場まで危うくさせてでも、私に接触を図って来た理由があるとしたら、それくらいしか思いつかない。
「社交で話を聞くうち、竜神教とつながっている貴族や、事件の黒幕につながりそうな情報を得たのでしょうか」
「……は……?」
「愚かな人。……もう、私たちのことは忘れて、己の人生のことだけを考えて歩めばいいと、何度も伝えたと言うのに――」
カルロが優しいことなど百も承知だが、どんな理由があれどこんなふうに元婚約者と接触されては、ベアトリス嬢の立場がない。周囲もいいように噂をするだろう。
自分の”利”にならない相手は、さっさと斬り捨てればよいのだ。
彼ももはや、この権謀術数渦巻く貴族社会に組み込まれたのだから――
「いや。……いやいやいや。ちょっとまて。話が根本からかみ合ってないぞ……!?」
「ぇ……?」
カルロの焦った声に、きょとんと目を瞬いて顔を上げる。
本気で困惑している声だった。
「違うのですか……?」
「当たり前だろ!」
間髪入れずに言い返されて、驚く。
ぽかんとする私に、カルロは思い通りにならない苛立ちを覚えたようだった。
「おまっ……まさか本気で、俺がアルヴィンを助けるためだけに、これまで死ぬ気で色々やってきたと思ってんのか!?」
「え――」
……違うのだろうか。
兄とカルロは親友だと聞いていた。カルロと一緒にいるときの兄は、私たち家族の前とも雰囲気が違って、気安い関係で心を許していることが手に取るように分かった。
だから、優しいカルロは、親友を助けるために尽力してくれているのだと――
「そりゃ、アルヴィンを助けることは考えちゃいるが――急いで叙爵の話を進めたり、社交界に顔を出したりしたのは、アルヴィンのためじゃない」
「ぇっ……じゃあ……何故――?」
本当にわからなくて首をかしげると、カルロは信じられないものを見るような目で私を見た後、顔を覆って盛大なため息を吐いた。
「マジか……そこからか……」
「カル――ふぁ、ファレス卿……?」
「あーもうっ……!」
ガシガシと頭を掻いた後、カルロは苛立ち紛れに口を開いた。
「身分も、人脈も――全部お前が、将来の夫に求める条件として挙げたからだろうが――!」
「――へ……?」
ぽかん……
音にすればそんな音が出そうなほど間抜けな顔で、私は背の高いカルロの顔を見上げたのだった。




