第27話 迎えの朝
日が高く上がった頃、杏璃は隼星の執務室へ連れられた。
詰め所にある部屋にしては広く、凝った窓枠は豪奢だ。その割に置かれた家具はどれも厳しく、武官の部屋といった趣だった。
「杏姐!」
部屋に着くなり、雲華が勢いよく駆けてきた。
涙目の少女にぎゅっと抱きしめられ、杏璃はやっとどれだけの心配を人にかけたのかを理解した。
「良かったぁ! 良かったぁ、ご無事で! ひどい扱いはされていませんか?」
自分がいなくなれば、誰かが心配することさえ忘れていた。
こんな少女を二晩も心配させたのだ。杏璃は妹に良くしていたように、優しく雲華の頭を撫でた。
「心配かけてごめんなさい。雲華。わたしは大丈夫です」
「そんなぁ……ひどい傷です。まずは、お顔を洗ってくださいまし。それと……あっ! 浴堂のご用意と……お召し物も」
「悪いな、雲華。杏璃はまだ手続きがある。まだ帰すわけにはいかんのだ」
隼星の落ち着いた声に雲華は『まぁ』と声を上げ、そのまま隼星を睨みつけた。
「ひどいですわ、嵐将軍! 杏姐に咎はないと言ったじゃありませんか。それを牢に入れるなど、武官の誉れはありませんの?」
「雲華、元々わたしが芳蘭妃様の私室にまで入ったことが原因です。宦官様も隼星様もご自分の仕事をしているだけです」
杏璃の言葉に、隼星は口を開き、閉じた。顔に手を当ててため息をつく。
「今のは聞かなかった事にしておく。ただの形式的な手続きだ。とりあえず、顔くらいは洗えるから。鏡など気の利いたものは無いがな」
杏璃は部屋の隅に用意されていた簡素な洗面器で顔を洗った。血と涙の跡を洗い流すと、だいぶすっきりとした。
額の傷はもう出血は止まっていたが、触るとチクリと痛む。
寝癖とまぶたの腫れでひどい顔をしているのは間違いない。三日は何も口にしていないせいで、肌も髪も荒れていた。
「あの……白蛇様は?」
「白蛇様は白屋敷で待っております」
「白蛇のことは気にするな」
隼星は手を振って肩をすくめた。
杏璃は早く白蛇に謝りたかったが、隼星の口調はまるでいつもの事だと言いたげな様子だった。
「雲華、茶を用意してくれ。それと厨房に食べ物もあるから、適当に持ってきてくれ」
「嵐様。お優しくしてくださいね」
「いいから、早く行きなさい」
雲華が駆け足で出ていき、静まり返った部屋には二人だけが残された。
隼星に促され、杏璃は部屋に置かれた長椅子に腰を下ろした。彼は近くから小椅子を持ち出すと、杏璃の正面に座り込む。
隼星はしばらく無言で考え込んだ後、身を乗り出して真っ直ぐに杏璃の瞳を見つめた。
「隼星様……わたし――」
「君が捕まったと聞いた時は、心底動揺したし怒りを覚えた。同時に君の事を揺さぶってやりたい気分だったが――」
隼星の視線が杏璃の額の傷に移り、彼は眉をしかめた。
「――女人に乱暴はするのは趣味に合わん。ともかくな、君の顔を見てホッとした。本当に無事で良かった」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。白蛇様にも何と言ってよいか」
「君の事を思っている者がいる事を忘れるな」
杏璃の頬に涙が伝った。
小雪のことで頭がいっぱいだったのが恥ずかしくもある。人から心配される事など今までなかったので、どう返事をしてもいいものか分からない。
それに、最近涙もろくなっていたらしい。
袖で拭っていると、隼星は手巾を差し出してきた。
「後宮でのもめ事など、宦官に逮捕されてそのまま処されてもおかしくはなかったのだ。今回は君の手落ちでもなかったし、運が良かったな。それで、何があった?」
杏璃がすべてを話し終えるのを、隼星は真剣な面持ちで静かに聞き入っていた。
「なるほどな。確かに、女官名簿の載っていた死亡した女官は君の妹ではなかった。まだ生きている可能性は十分ある」
彼は机の上の陶器の杯に水を注ぎ、杏璃へと差し出す。
杏璃は冷たい水を一気に飲み干した。体に染み渡り、生き返った気がする。
「狐飛様に救われました。でも、なぜわたしを庇ってくれたのかはわかりません」
「その狐面の宦官は暗鬼だとか」
杏璃が小さく頷くと、隼星は腕を組んで苛立たしげに眉をしかめた。
「……太子の狗といえど、あの時の立場は宦官。事故で処理されたあの事件を嗅ぎ回っている人間がいると知られたら、困った立場になるはずだ。気に入らんが救われたな」
「あの……美蓮様は――私と一緒にいた女官はどうなったのですか?」
「ああ、君の喧嘩相手か……同じく禁室送りになったと聞いている。宮女は宦官がケリをつけるのだろう」
その時、軽やかな足音とともに、雲華が良い匂いの立ち込める皿と急須を抱えて部屋に駆け込んできた。
差し出された皿の上には、ふっくらと白い湯気を立てる、拳大の包子が並んでいる。
「お待たせいたしました。包子ですよ。どうぞ、杏姐。沢山食べてくださいまし」
「こんなものあったかな?」
手を伸ばす隼星の手をぴしゃりと叩く。
「ここにはまともな食事はありませんわ。わたくしがご用意したものです」
杏璃は勧められた包子を手に取り、一口かじりついた。
三日ぶりの食事だった。
麦の甘みのあるふわふわの生地に、肉餡がたっぷり詰まっている。雲華が甲斐甲斐しくお茶を注ぎ足してくれる傍らで、杏璃は二個、三個と皿を空にしていった。
杏璃がすっかり満腹になった頃、一人の老人が執務室に現れた。
背中を少し丸めたその老人は、引き出しがいくつもついた巨大な木製の薬箱を重そうに抱えている。
「嵐将軍殿。参りましたぞ。急患がいるとか」
「医官だ」
隼星が席をあける。
老医官は杏璃の上から下までじっくりと見ると、笑みを浮かべた。
「おやおや、赤髪のお嬢さんか。こりゃ珍しい。派手にやりましたな」
老医官は杏璃の前髪をそっと押し上げた。
「血も止まっているし、縫う必要はないでしょう。跡は残るかもしれません」
「それは困ります」
雲華と隼星が同時に口を開いた。続けたのは雲華だった。
「医官様、なんとかなりませんの?」
「いいのよ、雲華。髪で隠れるだろうし」
「乙女のお顔ですのよ」
雲華はなおも食い下がる。
老医官は困ったように苦笑すると、引き出しがいくつもついた薬箱から、軟膏を取り出すと杏璃の額に塗りつけた。
軟膏はひんやりとした感触で、微かに硫黄の香りがする。
「かさぶたが無くなるまで、この軟膏を塗ることですな。分けてあげましょう」
老医官がそう言って、薬箱の別の引き出しを小さく開けた。その瞬間だった。
数多の薬草の香りが混ざり合う薬箱の奥から、紅い色が漏れ出てくるのに杏璃は気づいた。
思わず目を凝らし、薬箱を見つめる。
「あ、あの……医官様、このお薬はなんですか?」
震える手で一つの引き出しを指し示す。
「どうした?」
「これです。これが芳蘭妃様が買った、もう一つの薬です」
「これですかな? 鬼灯の根ですな」
老医官が箱の中から、紙に包まれた粉薬を取り出して広げた。黄味がかった粉の山から、紅い火花のような粒がキラキラと漂っている。
確かに、あの紅い香りだ。忘れもしない、毒茶に混じっていたもう一つの毒。
「これはね、解熱、去痰、咳止め」
「毒ではないのですか……」
「いやいや。薬はね、使い方によっては毒にも薬にもなりますよ。この薬はね、特にあなたのような若い女人には使えませんな」
「なぜですか?」
「腹の子をね、殺すのです」
しんと、部屋の空気が凍りついたように静まり返る。
無音の中で、杏璃の脳裏ではカチリと音がした。砕けた破片がぴったりと重なったような。星が一列に並んだような、全てのものが真っ直ぐに繋がる感覚があった。
杏璃は強張る体を抑えながら、独り言のように口を開く。
「隼星様、後宮で亡くなった宮女はどなただったのですか? どの方に仕えていましたか?」
「名前は調べないと分からん。玲華妃の宮女だとか」
頭の靄が一瞬で晴れ、全ての事柄が一つにまとまっていく感覚に杏璃は包まれた。
脳裏に、芳蘭妃の歪んだ笑みが浮かぶ。
長い睫毛の影が涙のように頬に落ちる血の気のない顔。
芳蘭妃が密かに買ったもう一つの薬。
毒茶。
死んだ宮女。
玲華妃。
「あ」
思わず声が漏れてしまう。
その時、扉の外から呑気な声が響いた。
「お~い」
場違いな程緊張感のない美声。今は懐かしく思うあの声は――白蛇だ。
「白蛇様」
「泣いてる娘の相手は苦手でなぁ。もう泣き止んだか?」
白蛇が中の様子を伺うように、ひょっこりと頭だけを覗かせる。
杏璃は挨拶も謝罪の言葉もすべて忘れ、白蛇の姿を真っ直ぐに見つめた。
「白蛇様。わたし、分かりました」
「何を?」
「芳蘭妃様がなぜ死んだのか分かりました」




