第26話 薄墨の石牢
杏璃の身元は後宮を司る宦官から、王宮の警備を担当する衛司へと引き渡された。
人目を忍ぶようにして、杏璃は薄暗い後宮の裏口から連れ出される。引き渡しが行われたのは、月のないひどく冷え込む夜だった。
杏璃は兵とともに衛司の詰め所へ行くと、待ち構えていたのは隼星であった。
お馴染みの位を表す黒い外套姿で、何時にも増して険しい表情で立っている。
青ざめた杏璃の顔を見た瞬間、隼星の顔が更に歪んだように見えた。松明の揺らぎだろうか。
「杏璃、無事か」
厳しい顔とは対照的に口調はとても優しかった。彼はすぐに背後の部下へ鋭く命じる。
「おい、医官を呼べ」
杏璃は無意識のうちに深く頭を下げた。
二晩は一睡もしておらず、頭の中は小雪の死のことで一杯で、いまは誰の言葉も受け取る余裕がない。
「隼星様、お気遣いは結構です。独りにしていただけませんか」
隼星は一瞬躊躇したが、すぐに何かを察したように頷くと杏璃の肩に毛布をかけた。ずっしりと重く温かい毛布であった。
「安心しろ、君には罪はない」
罪はない、と言われても、今の杏璃には喜ぶ気力さえ湧かなかった。隼星は一段と声を低くした。
「だが、手続きの関係で、明日までは牢に入ってもらうことになる。悪いが我慢してくれ」
連れて行かれたのは、かつて杏璃が後宮の怪死事件の犯人として捕らえられていた、あの暗い石牢だった。あの夜とは違い、冷え切った室内にポツンと火鉢が置かれている。
杏璃は何も言わずに、石床に膝をついた。全身がぐったりとだるく、こめかみがひどく痛む。美蓮と狐飛の言葉が何度も頭の中をこだまし、何も考えられない。体力も、気力も限界であった。
鉄扉が閉まり、完全に一人になった瞬間、堰を切ったように涙が頬を伝った。
喉がつまり、呼吸が浅くなる。どうしようもない激情に飲まれ、激しい震えが全身に広がっていく。
「うっ……うぅ……小雪」
口から漏れる嗚咽はやがて、慟哭へと変わった。鳴き声とも呻き声ともつかない悲痛な叫びだけが石牢に響く。
死んでしまった。ただ一人の妹だった。まだ十三歳だったのに。……手が器用で、人懐っこくて、優しくて……わたしのたった一人の家族……
――貴女は御香司白蛇様の弟子、杏璃殿。よろしいですね――
違う、わたしは暁雨、小雪の姉だ。と叫べば良かった。あの最後の問いに、なぜ肯定してしまったのだろう。命などもう惜しくはないと思っていたのに。
溢れ出すのは、妹を失った絶望だけではない。手放してしまった自分自身への、身が引きちぎられるような激しい罪悪感と嫌悪だった。
杏璃はただ、幼子のように声を上げて泣きじゃくった。泣いて、泣いて、涙が枯れ果てる頃、いつの間にか硬い床の上で泥のように眠りについていた。
◇◇◇
パチリ、と何かが弾ける音で杏璃は目覚めた。
見知らぬ部屋の床で眠りこけている事に気づき、思わず目を見張る。
――ここは……石牢……。
頭上にある小さな窓からは、白々しい朝日が微かに差していた。見ると火鉢の炭はもう消えそうで、最後の火花を微かに放っている。
硬い石床から、強ばった身体を起こして袖で顔を拭った。目の上が痛く腫れぼったい。昨晩散々泣いたせいだ。
肌に残る乾いた血と涙の跡で、きっと今はひどい顔をしているだろう。
杏璃は凍えた身体を抱きしめるように座り直すと鼻をすすった。
石牢は岩と枯れ葉と雪の香りが充満しており、それが朝日に反射して薄墨の海に沈んでいるかのように感じる。
何もかも吐露するように泣きじゃくったおかげか、今は不思議なほど頭が冴えている。
冷静になって振り返れば、あの取り調べはどこかおかしかった。
狐飛様は私を問い詰めていたのではない。むしろ、後宮から無事に出すための筋書きを作ってくれていた。私が暁雨だという事も隠してくれた。
なぜだろう。
それに、あの方は最後まで小雪の名を出すのを厳しく諌めていた。
――小雪という下女などおりません――
その言葉が妙に胸に引っかかる。杏璃は膝を抱えて、石の壁を睨みつけた。
狐飛様は、どうしてあんな言い方をしたのだろう。しかも、自分にしか聞こえない声で。
小雪が本当に死んだのなら、他の宦官に隠す必要などないはずだ。わざわざ私にだけ聞こえるように告げたのはなぜだろう。
何かを見逃している気がする。
考えろ、考えろ、杏璃。軽く頭痛のする頭を振って息を吐く。
――……そうだ、内府の女官名簿だ。隼星が妹の行方を探している時に、見つけてきてくれた名簿があった。後宮の宮女の配置が書かれたそれには――
――あの事件以前に、瑶華宮で亡くなった宮女は一人だけだ。君の妹と名前が違うから大丈夫――
そうだ。以前、隼星が調べた名簿には小雪の死は記されていなかった。あれはいつ頃の話だったか……。少なくとも、一ヶ月は前だ。
杏璃は唇を噛んだ。
名簿が全て正しい保証などない。
一ヶ月前に生きていたとしても、今も生きている保証などどこにもない。
後宮では人が死ぬ。病で死ぬ者もいれば、事故で死ぬ者もいる。下女なら死の記録が遅れることなど珍しくはない。
――あの娘ならとっくに死んだ――
美蓮の言葉がまたよみがえる。
そうかもしれない。自分は何かに縋りたくて、都合の良い可能性ばかり拾い集めているだけかもしれない。
杏璃は目を閉じた。
それでも……狐飛様もまた、小雪は死んだとは一言も言わなかった。少なくとも、美蓮の言葉だけで妹の死を信じるわけにはいかない。
杏璃はゆっくりと息を吐いた。
妹が死んだと決まったわけではない。
そう思うだけで、胸を厚く覆っていた絶望がほんの少しだけ薄らいだ。
だから今は、目の前のことをやるしかない。




