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後宮の調香師 ~白蛇様の、愛弟子のいい仕事~  作者: 相良徹生
残されたものたち

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第25話 禁室

 杏璃は禁室に繋がれた。

 後宮の北、宝物殿のさらに物陰にその禁室はある。朱塗りの立派な殿だが、騒ぎを起こしたり、咎を働いた下女や宮女が閉じ込められる、暗い牢室である。

 あれから幾刻がすぎたのか。杏璃は冷たい板の間に正座し、虚ろな瞳で木造りの柵を眺めていた。


――あの娘ならとっくに死んだ――


 美蓮メイレンの言葉が脳裏をかすめる。

 その言葉は暗闇の中で杏璃の心を何度も傷つけ、やがて抗う気力も奪っていった。妹に会いたい。ただそれだけのためにここまできたのだ。それが叶わないのなら、もう――。


――死んだ、死んだ、死んだ! お前も死んでしまえばよかったのに!――


 そんな事はないと、叫びだしたかった。胸の奥からせり上がる衝動を抑え込むように、爪が食い込むほど拳を握りしめる。

 叫びだしたら次は泣き叫んでしまうだろう。泣いたら終わり。妹の死を受け入れてしまうかもしれない。

 美蓮メイレンに正体を見破られてしまったが、それすらも今の杏璃にはどうでもいいことのように思えた。

 白蛇の弟子としての生活も、隼星の優しい眼差しも、後宮の呪いも、いまではもう遠い世界の出来事のようだった。

 唯一ある窓から西日が差し込み、杏璃は力なく顔を上げた。

 いつの間にか二日は過ぎていたらしい。手や顔に垂れた血はすっかり乾き、ジャリジャリとした手触りが厭わしかった。

 やがて、禁室の重い扉が軋んだ音を立てて開く。

 現れたのは狐面の宦官、狐飛フーヘイであった。その背後に二名の宦官が控えている。

 鼻梁から顔半分を覆う青白い狐面。狐飛フーヘイの表情は、相変わらず全く窺うことができなかった。


「杏璃殿」


 静まり返った禁室に、冷たい呼びかけが響く。

 杏璃は虚ろな顔で、狐飛フーヘイを見つめ返した。言い訳も、命乞いも、なにもかも無駄だと思える。

 喉がつまり、声がでない。杏璃は目をふせたまま頭を下げた。


「傷の手当だけでも。させていただけませんか?」


 杏璃は首を振った。


「それでは、御香司ごこうしの弟子、杏璃殿。取り調べを行います」


 淡々と、事務的に呼びかける声。杏璃は目を閉じた。狐飛フーヘイが、手元の書状を繰る音が聞こえる。


「貴女には、秋宵宮しゅうしょうきゅうへの侵入と窃盗の容疑がかけられています。香を取り替えに行った宮女が、貴女が秋宵宮しゅうしょうきゅうで盗みを働いている所を見たと」


「……ぬ、盗みなどしておりません」


 少なくともこれは本当のことだ。

 例え死ぬことになったとしても、盗みの濡れ衣を着せられる辱めは嫌だ。杏璃は絞り出すような声で言った。


「ええ、そうでしょうとも」


 狐飛フーヘイは小さく頷いた。


「宮女の話では、太子様の気を引こうとしたとか」


 杏璃は頭を振った。

 まさか、そんな事はありえない。


「……あの娘、後宮での夢物語を信じていたのでしょうね」


 狐飛フーヘイの淡々とした呟きと共に、筆がさらさらと書面を滑る音が響いた。

 お嬢様は大切に育てられ、何でも一番でなければ気が済まない高慢な少女だった。瑞鷹ずいおう一の華やかな宮でいつか太子様に見初められ、栄華を極める――。彼女にとって地味な下級宮女としての現実は、とうてい我慢ならなかったのかもしれない。


「さて、でしたらなぜ貴女は秋宵宮しゅうしょうきゅうへ入ったのか……。喪旗もないので、迷い込んでしまいましたかな?」


「――わたし」


「杏璃殿」

 狐飛フーヘイの鋭い声が、杏璃の言葉を遮った。

 杏璃は初めて彼の仮面の奥をまっすぐと見つめた。覗く栗色の瞳は鋭く、有無を言わせぬ迫力があった。


「迷い込んでしまわれたのですね?」


 その答え以外を一切望んでいないことだけは、痛いほど分かった。

 杏璃は力なく頷いた。


「よろしい」


「あの宮女は、あなたが後宮の下女である暁雨シャオユウであると言っています」


 杏璃の身体が、一瞬で凍りついた。死んだと思われていた女が生きていたと知られたら、どういった罪になるのだろう。

 後宮から逃亡した下女は例外無く死罪である。覚悟していたはずの結末が、急に現実味を帯びて迫ってくる。


「さてはて、なにを言ってるやら……。お恥ずかしい限りですな」


 狐飛フーヘイの声は一転して優しい声色になった。


「貴女は御香司ごこうし白蛇様の弟子、杏璃殿。相違ありませんね」


「……」


「杏璃殿。答えてください」


狐飛フーヘイ様……小雪シャオシュエという娘をご存知ありませんか? 繍坊しゅうぼうで下女をしておりました」


 気づいたら口から言葉が流れ出ていた。

 小雪シャオシュエの名を出せば、自分が暁雨シャオユウだと気づかれてもおかしくない。

 怖いのは、妹の行方も知らずにのうのうと生き延びていくことだ。もし小雪シャオシュエが本当に死んだのなら、自分は何のために生きているのだろう。

 そう思うと、言葉は止まらなかった。


「杏璃殿」


曜飛ようひ族の娘です……わたし――」


「杏璃殿。今は白蛇様の事だけを考えなさい」


「まだ十三歳です……手が器用で、人懐っこくて、優しくて……わたしのたった一人の――」


「杏璃殿!」


 狐飛フーヘイの鋭い声が牢に響く。

 杏璃が息を呑んだ瞬間、狐飛は木造りの柵越しにぐっと身を乗り出し、その狐面を寄せた。

 仮面の奥に冷たい栗色の瞳が見える。狐飛フーヘイは杏璃だけに聞こえる声で呟くように言った。


小雪シャオシュエなどという下女はおりません」


 杏璃の視界が真っ黒になった。地面にぽっかりと穴が開いて、飲み込まれていくようだった。


「そんな……はずは……」


 喉から漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 ――あの娘ならとっくに死んだ――あの言葉だけが頭の中で何度も反響する。


「貴女は御香司ごこうし白蛇様の弟子、杏璃殿。よろしいですね」


 杏璃はがっくりと項垂れた。返事をしてしまえば、小雪シャオシュエ暁雨シャオユウも、本当に消えてしまう気がした。

 狐飛フーヘイの視線が痛いほど突き刺さる。


「よろしいか」

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