第24話 宮に残る過去
気づけば杏璃の足は芳蘭妃の私室へ向いていた。
秋宵宮はその主を失い、喪を表す旗は取り払われていたが、まだ薄っすらと死の匂いがする。
杏璃は周囲を見回して人気がないことを確認すると、芳蘭妃の私室に足を踏み入れた。
私室は雰囲気が全く変わっていた。
立派な家具も、月光に照らされ輝いていた絹飾りも取り払われ、ガランとした空虚な空間が広がっている。喪香はまだ焚かれているせいか、杏璃には灰色の霧がかった部屋に見えた。
応接間の隣には書斎があった。今はからの書棚に、火鉢がぽつんと置かれているだけだ。
もし、芳蘭妃が毒をもう一つ買ったのであれば、それはどこへいったのだろう。
たしか……、烏頭根の粉は媛の私室から見つかったはず。
家具は全て取り払われているという事は、宦官による徹底的に捜索もあったはずだ。私物は全て媛の実家に送り返され、あるいは――杏璃は秘宝殿に無造作に積まれた芳蘭妃ご自慢の茶器を思い出してゾッとした。
あれだけ高価なものでも、ここでは主を失えば蔵に放り込まれるのだ。
弦の様子では、どこからももう一つの毒は見つからなかったようだ。それであるならば、芳蘭妃はその毒をどこに隠したのだろう。
すうっと息を吐いて、集中して室内を見渡す。
なにか、あの時の残り香がないかと思っていたが、火鉢も書棚も、床も壁も梁も全て烟った灰色の香りに塗りつぶされ、他の色は灰色の奥に埋もれている。
しばらく目を凝らしていると、微かに若草色の清々しい香りが見えた。
それは、書斎の棚の一番上。よく見ると、若草色、乳白色の麦色、茶色の残り香が微かに漂っている。
お茶だろうか。僅かすぎて鼻では嗅ぎ分けることができない。
そして、壁の影に紛れるように黒い粒状の色も見えた。
烏頭根だ。
芳蘭妃はお茶入れの棚に毒を保管していたらしい。
後宮では煮炊きはご法度だが、高位の媛は私室の火鉢で湯が沸かせる。芳蘭妃はあの夜、台所から湯を持ってくるのではなく、私室の火鉢で湯を沸かし毒の茶を入れたのだろう。
どう目を凝らしてみても、紅い火花のようなもう一つの毒の気配は感じなかった。
あるいは……もう使った?
もしかして毒ではなく、本当に薬だったのかもしれない。後宮の宦医には相談しにくい、なにかの病にかかっていた? とか。
清夏宮にいた四妃嬪の一人は病に臥せり、国へ帰っていった。芳蘭妃も同じような病にかかり、自分で治そうとした……?
杏璃は首を傾げた。芳蘭妃が体調を崩しているという噂は聞いたことがなかったし、あの夜の芳蘭妃も心は狂気に駆られてはいたが、体は健康そうに見えた。
下女や宮女ならともかく、四妃嬪の誰が病に臥せったら噂はすぐ広まる。立ちくらみや手の震えでさえ噂になる世界なのだ。
杏璃のざわつきを覚えた。なんだろう、何かを見落としているような気がする。
もう一度室内を見回したその時、廊下の先の大きな扉が目に入ってギクリとした。この先は、秋宵宮の大広間だ。
杏璃が毒入りの茶を出された場所であり、芳蘭妃とその宮女達五十人あまりが命を落とした場所である。
ここは……止めておこう。
その時、杏璃の背後からがしゃりと陶器が砕ける音がした。
振り向くと、そこには青白い顔をした下位の宮女が立ち尽くしている。足元には、砕けた陶器の香炉が散らばっていた。
しまった、と杏璃は唇を噛んだ。喪香を替える役目の者が、ちょうど部屋に入ってきたのだろう。
宮女の足はガタガタと震えていた。迷い込んでしまった……と言い訳する前に、宮女の震える指先が杏璃を差し示す。
「あ、あ……おまえっ、死んだはずでしょっ」
悲鳴に近い声を上げて、宮女はその場にへたり込んだ。
「驚かせて申し訳ありません……」
続けようとしたその時、杏璃は宮女の顔を見て言葉を失った。
青白い頬と切れ長の瞳。薄い唇。歪む細い眉。眼の前にいる宮女の顔は見覚えがあった。杏璃が奴隷として買われ、働いた商家の一人娘。――共に入宮した商家の娘、美蓮だった。
お、お嬢様……。
杏璃は息を呑み、咄嗟に顔を伏せた。あまりの衝撃に頭が回らない。
「あの……わたし、迷ってしまって……」
手の震えに気づかれぬよう、キツく手を握りしめる。
死んだ事になっているのだ、ここで生きていると知られてしまえば、大変なことになる。
「し、死んだはずよ……暁雨」
以前の名前で鋭く呼ばれて、杏璃の身体がびくりと跳ねた。動揺した顔を見せまいと、強張った顔を更に伏せる。
美蓮は真っ青な顔のまま、杏璃の姿を頭のてっぺんから爪先までまじまじと見つめていた。
震える声を必死に抑え、杏璃はなんとか言葉を繋いだ。
「な、――何のことでしょうか」
「その不吉な赤毛……暁雨だろう。なんでこんな所に!」
相手が幽霊ではないと悟った瞬間、美蓮の表情がぐにゃりと歪んだ。恐怖が、みるみる別のものに塗り替えられていく。かつての商家で杏璃に浴びせていた、あの冷酷な視線だ。
突進してきた彼女に肩を突き飛ばされ、杏璃は思わず床に膝をついた。そのまま襟元を掴み上げられ、息が詰まる。
振り払おうにも体は強張り力が入らない。
「……なんで……下賤な者が、なんで媛の部屋にいるんだ」
「……人違いです」
声が震え、自分でも情けないほど細い音しか出なかった。
「こんな良い服を着て、盗んだのだな」
「ち、違います」
次の瞬間、物凄い力で突き飛ばされ、硬い壁に叩きつけられた。衝撃で視界が一瞬歪む。
「――卑しい女め。死んだくせに後宮にまた戻ってくるとは。さては太子様に取り入るつもりか?」
「何のことだか分かりません!」
杏璃は叫ぶように言った。しかし、美蓮の瞳に宿る怒りはさらに激しく、嫉妬と侮蔑で支離滅裂に膨れ上がっていく。
杏璃は彼女の瞳に、かつて後宮の華やかな夢を見た少女の影を見た。
「太子様などお前のことなど見向きもしない。お前のような下賤な女には。いい服を着ていい気になるなっ。媛方にお渡りもしていない太子様がお前ごときが見初められるとでも思っているのか?」
襟元を締め上げられ、杏璃の視界が歪む。
「は、離してください……わたしは……」
「死んだっ! お前は死んだはずなんだ! なにを今更、姉妹そろって愚図なようねっ」
杏璃はハッとして息を止めた。――彼女は小雪を知っている。
商家のお嬢様が、宮女としてどこに配属されていたかは杏璃は知らない。だが、下女の杏璃より自由であるはず。妹の居場所を知っていてもおかしくはない。
「小雪を、あの娘を知っているのですね!」
杏璃は思わず美蓮の腕を掴んだ。
「触るなっ! 汚らわしい」
必死に縋り付いた杏璃に美蓮は容赦なく平手を打った。鈍い音が響き、口中に鉄の味が広がる。それでも杏璃は、震える両手を伸ばした。
「あの娘ならとっくに死んだ」
「そ……そんな事はありません! 教えてください、小雪はどこにいるのですか」
「黙れ。死んだ、死んだ、死んだ! お前も死んでしまえばよかったのに!」
美蓮が床に散らばる香炉の欠片を掴み、杏璃の額へ振り下ろす。
額に焼けるような痛みが走った。じわりと温かい液体が視界を赤く染めていくが、それでも、杏璃の叫びは止まらない。
「そんなはずはないのです!」
その時、廊下の向こうから、騒ぎを聞きつけた大勢の足音が波のように押し寄せてきた。
「――何事だ! 誰かいるのか?!」
「宦官様! この女! 泥棒がいます! 暁雨です!」
美蓮の手が、骨が軋むほどの力で杏璃の手首を掴む。
開かれた扉の先で、大勢の宮女や宦官が杏璃と美蓮の惨状を見て、一斉に息を呑む。杏璃は涙で濡れた顔を上げ、すがるように叫び続けた。
「そんなはずはない!」




