第23話 招待状
数日後、杏璃は瑶華宮の瑾月妃の私室にいた。
後宮での香会の招待状を届けるためだ。
白蛇は後宮の呪いを祓う香りを、香会で披露することに決めたようだ。
香会は後宮での一大行事。位の高い四妃嬪には、白蛇自らが示した招待状で招くのが習わしらしい。
「よくやった!」
白蛇の文を見た瞬間、瑾月妃は弾けるように言った。
今日の瑾月妃も、ひときわ目を引く装いだった。鮮やかな空色の上衣が、彼女の白磁のような肌に映えてよく似合っている。帯は烏のような黒色で、艷やかな空に墨で一線を描いたように見えた。
「やはり、妾が見込んだだけあるな。白蛇殿の香会、楽しみだな!」
杏璃は招待状を差し出した手を止めた。白蛇の使者として招待状を届けに来たはいいが、香会がなんたるかを実は杏璃自身もよく分かっていない。
白蛇は秘香に夢中で全く教えてくれなかったのだ。
「ええと……」
「なんだ、お主。香会を知らぬのか?」
「恥ずかしながら。不勉強ゆえ、詳細は……」
「なに、気にするな。王宮のただの行事じゃ」
瑾月妃は明るく手を振った。この少女は傲慢で率直だが、気心の優しい所がある。
「年に一度、冬の時期に巨大な庭火を仕立てて、宴をするのじゃ。瑶華宮でも二年前に一度やったがな。去年は清夏宮の君が病に臥せったり、芳蘭妃の事もあったしで延期になっておった。年も開けたし、春の前に呪いも祓う。一石二鳥、良い考えじゃ」
後宮に下女として入宮した頃、一度香会が開催されたことは杏璃もうっすらと覚えていた。ただ、雑役の洗衣女でしかなかった杏璃は屋敷の遠くから聞こえる音楽とざわめき、微かに華やかな香りが漂っていた事を知るだけだ。
考えてみれば、あの時、あの場所に白蛇がいたことを不思議に思う。
「庭火には香木を入れて香りも楽しむのだ。次の朝は、燃え残った薪を集めて茶会をする。薪の香りと、香木の残り香、茶の香りが冬の朝によく合ってな、早起きもなかなか良いもんだぞ」
朝露に濡れる凍えるように寒い中庭で、宴の後を眺めながら温かい茶を飲む。
貴人らしい風習である。
「そうだな、後は竹簡を燃して占いなどもするな」
「占い、ですか」
「昔は吉兆や豊作を占っていたらしいが、最近だとそこまではしないな。縁起物や吉兆色を占う。朝の茶会でそれを持ち寄ったり、身に着けて参加するのが習わしじゃ」
「素晴らしい風習です」
「だろう、だろう、最近は暗い事が多かったからな。久々によい報せじゃ。なぁ、群青が吉兆色にならんかの。新しく仕立てた上衣があるのじゃ」
それは……占いなのでなんとも……。
「媛様、お弟子さんが困っているではありませんか」
杏璃が困ったように下を向くと、隣の老宮女がたしなめるように口を開く。
「今度の香会も宇峻様はご出席なさるでしょう。瑾月妃様が目に止まる良い機会でございます。もちろん、次期正妃として他の妃嬪方と親睦を深められるのも、大切な勤め」
老宮女のなかでは、瑾月妃が正妃となるのは確定事項のようだった。杏璃も当然という顔を貼り付けて黙っていた方がいいだろう。
一方、瑾月妃は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「四妃嬪といえど、今は妾と玲華妃の二人だけだからのぅ。あの御方とは気が合うようには思えんが。芳蘭妃のように機嫌でも取ってみるか」
「媛様!」
老宮女のうめき声のような叱咤が響く。
気位が高く溌剌した少女と、同じく高慢で気まぐれな媛。水と油のようだろう。杏璃には二人が仲睦まじく語り合う姿など想像できなかった。
しかし、同じく傲慢で高飛車なあの芳蘭妃が、他の媛ご機嫌取りをするようにも思えなかった。
「芳蘭妃様はお優しい方だったのですか?」思わず口に出てしまう。下女以外にはお優しい方だったのだろうか。
「ん? そうだな、優しくはないな。着飾りたがりで高飛車な田舎の媛よ」
老宮女の非難の咳払いを瑾月妃は無視した。
仮にも北の名門出の媛にひどい言い草である。
「芳蘭妃にはよく茶葉をもらったな」
瑾月妃は思い出すように目を細めた。
「あの方は茶好きでな。珍しい茶が手に入ると、たまに分けてくれたのじゃ。ご自慢の茶壷に入れてな」
そんな事をする方とは思えなかったが。
杏璃の疑うような視線に、瑾月妃はニヤリと笑った。彼女も白蛇と同じく、貴人らしからぬ振る舞いをすることがある。
「芳蘭妃のご実家である江家は窯元が多く、陶器が有名だろう。あの方は妹の玲華妃より、良くしてもらっていたようだな。よく実家から茶器を取り寄せておったわ。ご自慢の品を玲華妃や妾に気風よく振る舞って、悦に入るのじゃよ」
その毒舌ぶりに、隣の老宮女が再び顔をしかめる。
「ここだけの話、ご自慢の茶壺も妾には少々野暮ったく見えたな。もう少し洗練された物が好みだったが」
「媛様!」
老宮女の悲鳴がこだました。
瑾月妃の私室を辞した杏璃は、続いて玲華妃の元を訪れた。
はしゃぐ瑾月妃とは対象的に、玲華妃の反応は薄かった。喜ぶわけでもなく、かといって眉をしかめるわけでもない。
今日の、玲華妃は紅の上衣に透ける白絹を重ね、桃色の雲のように輝いていた。花の蕾を模した金の簪はチラチラと揺れ、華やかさはさらに磨きがかかっている。
ただ、文を読む瞳は虚ろであった。
「煙いし寒いのに」
独り言のようにつぶやくと、そのまま帯に手をやった。どうやら、香会には興味がないようだ。
退屈そうに杏璃を見つめる眼差しは暗く冷たいものであった。
「香会はあなたじゃなくて、白蛇様が取り仕切るのでしょうね?」
「もちろんでございます」
どうやら、かなり機嫌が悪いらしい。
杏璃は目を伏せると退席する口実を探し始めた。お付きの老宮女もむっつりと黙り込み、部屋には重苦しい沈黙が落ちる。
先に沈黙に耐えきれなくなったのは杏璃の方だった。
「太子殿下も御臨席の香会です。お出ましいただければ、場が一段と華やぐこと間違いございません」
「そうね、宇峻様もいらっしゃるのでしたら、一足早く春を感じられる装いで行きましょうかしら」
太子の名前を出したのは正解だったようだ。玲華妃は満足した様子で、目を細めた。
「それにしても、せっかくの四妃嬪が二人だけとは寂しいものですわ。瑾月妃様も、張り合う相手がわたしくだけとはご不憫だこと」
部屋の空気が一段下がり、冷え冷えとした空気に支配されてく。芳蘭妃もずいぶんと高慢だったが、この媛もなかなか負けていない。血だろうか?
老宮女の一睨み。杏璃はそれを退出の許可と受け取って、これ幸いとばかりに私室を後にする。扉の先へ一歩踏み出したその時だった。
「待ちなさい」
背後からかけられた声に、杏璃は足先を凍らせた。
玲華妃の声だ。
高貴な方が自ら人を呼び止めるとは珍しい。たいていは側仕えを通して用を伝えるものだ。こういった時、内密の話である時が多い。下女時代からの経験で、身分の違う者同士の秘密話は、大抵ろくでもないと杏璃は知っていた。
杏璃は一歩引き、顔を伏せたまま玲華妃の言葉を注意深く待った。
媛の茉莉花と伽羅の香りが漂ってくる。
「貴女。白蛇様のお弟子でしょ。香会にはどんな香を焚かれるの?」
想定外の問いかけだった。
杏璃はどう答えようかと、一瞬躊躇した。呪いを祓う香というべきだろうか? 彼女は後宮の呪いなど信じていないように見える。
「瑶華宮の安寧の願う、秘伝の香りだそうです」
「そうではなくて、香の効能よ」
「効能?」
「ほら、香にはこの身に障るものもあるでしょう」
そう言うと、玲華妃はそっと腹部に手をやった。
桃色の唇は薄っすらと歪み、瞳には潤みを帯びて底知れぬ陶酔を浮かべている。その表情はあまりにも幸福そうで、杏璃にはかえって薄ら寒く思えた。
茉莉花と伽羅の華やかな香りに、灰色の喪香が混じり合う。杏璃の視界は濁った霧に包まれるようだった
「次期正妃になにかあっては事ですから」
杏璃は息を呑んだ。
玲華妃の手の意味を、初めて理解したからだ。
「それは……その、おめでとうございます」
しどろもどろに杏璃は言うと、今度こそ逃げるようにして廊下に飛び出した。
玲華妃は懐妊している? 後宮の一大事のはずなのに、なぜか胸の奥に小骨が刺さったような違和感が残った。
もっとも。今の杏璃には妃嬪同士の争いより優先すべきことがある。
芳蘭妃の死である。




