第22話 暗鬼
後宮からの泥棒騒動の次の日。
私室で杏璃が服を畳んでいると、雲華がひょっこりと扉から顔を出した。
「杏姐、白蛇様がお呼びです。官吏の方がいらしているとか」
白蛇を訪ねてくる客といえば、友人の隼星か、後宮からの使者や行商人がほとんどだった。内府の官吏が来るのはめずらしい。
杏璃は畳みかけていた上衣を置き、工房へ向かった。
工房の入り口で、ふと足が止まる。灰色のひんやりとした香りを見たのだ。
この香りは……なんだろう。どこかで見たことがある。
知り合い? まさか。
杏璃はそっと工房を覗き込んだ。
白蛇の客は、若い文官だった。
黒髪はゆるく結い上げて濃紺の官服に身を包み、首には官吏の証である布を掛けていた。
白蛇の向かいに座り、のんびりとした様子で茶をすすっている。
杏璃に気づき目礼する姿は穏やかで、物腰の柔らかそうな青年だった。
そんな彼はわずかに灰色の香りを纏っている。
「あなたが、白蛇様のお弟子さんですね。噂はかねがね」
明るい口調とは対照的に、栗色の瞳が鋭く光った気がした。
赤毛の娘が嫌いなのだろうか。
杏璃は居心地が悪いのを隠して、深く拱手の礼をした。
「弦明慈と申します」
切れ長の瞳を更に細めて弦は続けた。
「なんでも……白蛇様が、お弟子を取ったと聞いたので。どんな方かと思いまして。こちらへ来られる前は、どちらに?」
「曜河の寺院にいました」
「いつから弟子入りを?」
「……一ヶ月半程前に」
「どのようなご縁で白蛇様の元へ?」
畳み掛ける詰問に思わず杏璃の言葉は詰まった。
なんだろう、この方が怖い……。
弦の探るような眼から逃げるように、顔を伏せる。
「なんだ、なんだ、弦殿。嫁でも探しに来たのか?」
白蛇が割って入る。
弦は薄っすらした笑みを浮かべて、白蛇に向き直った。視線は杏璃の髪に置いたままだ。
「失礼しました。李都では曜飛族はめずらしいですからね。ご存知ですか? 宮でも、曜飛族の証たる赤毛を染める娘も多いとか。なんでも、布用の染料で髪を染めてしまうそうですよ」
私のことだ。ゾクリと躯が泡立つのを感じた。後宮にいた頃は、毎月のように染坊へ行き、染料を分けてもらっていたのだ。
「嘆かわしいことだ」
生まれ持っての白髪を白蛇は見せびらかすように払った。まるで、髪の色など何だというのだと言わんばかりに。
「ええ、嘆かわしいことでございます」
弦は肩をすくめると、また呑気な顔でお茶をすする。それ以上は踏み込む気は無いという現れだろうか。
杏璃はそっと弦の横顔を見つめた。
私の事を探っているのだろうか。それにこの灰色の香り。どこかで見たことがある。
「弦殿は内侍省の官吏でな。瑶華宮の毒事件を調べている」
杏璃は頷いた。内侍省がなんたるかは、後で白蛇や雲華に聞かねばならない。たぶん内府のどこかの部署だろう。
「白蛇様、事件ではなく、事故でございます。毒気事故」
「事故……ねぇ。ところで、芳蘭妃の使った毒は一つではないのでは?」
突然白蛇がなんて事のないように言う。
「おやおや」
弦がかすかに目を見開いた。しかし次の瞬間には、いつもの柔和な笑みが戻っている。
「そうですねぇ」
弦は苦笑を浮かべると、観念したように続けた。
「毒については我々も調査済みです。街の薬師から買って下女を通じて持ち込んだようですね。いかせん市井のものですので、粗悪な物か……またはかさ増しをされていたのか……」
「ほほう、それでもう一つは調べが付いたのか? なんなら、私が当ててやろうぞ」
弦の柔らかな笑みが、わずかに薄れていく。
穏やかな相貌の裏で、思考がせわしなく巡っている気配がする。
「あの夜、宦官共には烏頭根とだけ伝えたが、どうも見落としがあったようでな。少々心苦しかったのだ」
「……」
「街の薬師はなんと言っているのだ?」
「夜逃げしたところを捉えましたが、芳蘭妃様との取引については否認しています。証拠は処分済みでした。ですがね、薬師の娘によれば『後宮の使いは二種類の薬を買っていった』そうですよ」
「おやおや」
白蛇は肘掛けに持たれて頬杖を付くと、ニヤリとした。
まるで白狐と栗狐の化かしあいのようだ。と杏璃はひっそりと思った。どちらも腹の中に何を隠しているのやら、見当もつかない。
「もう一つの毒。見つかっていないようだな。杏璃、妙だと思わんか?」
「え?」急に話を振られ、杏璃は間の抜けた声を漏らした。
「芳蘭妃が買った二種類の薬。一つは烏頭根。人を殺すだけなら、これだけで十分だ。なぜもう一つも求めたのだろうな」
たしかに、烏頭根から漂っていた、もう一つの香り。火花のような紅い香り。
烏頭根に混ぜて使うものだとしたら、最初から薬師に一つにまとめてもらうはずだ。
あれは混ぜられたものではなく、二つの薬が近くに置かれていて香りが移ったのかもしれない。
では、もう一つは何のための薬だったのだろう。
後宮の医官ではなく、街の薬師に頼むのであれば、内密にしたいものだったはず……。
「別の用途で使ったのですね? なにか表に出せない事に」
「別の用途とは?」
弦は身を乗り出して杏璃を見た。続いて白蛇に視線を移し、ふと何かに気づいたようにため息をついた。
「まったく」
椅子にぐったりと身をもたせると、弦は茶を飲み干した。
「してやられましたな。もう一つの薬、当たったらぜひとも教えてください」
「案ずるな。実は後宮に蔓延る呪いも祓ってやろうと思ってな。これで太子の憂事も一つなくなるな。弦殿も安心なされよ」
白蛇が唐突に言うのに、弦は気にもとめないように茶菓子を食べている。
「私の担当は事故の調査ですからねえ。後宮の呪いなんて関係ありません……」
「そうか? 廃殿の呪術使いの貴人とやらに手を焼いてるのではないか?」
「なんのことやら」
白蛇様はなぜ急に話題を言ったのだろう。
「なんだ、杏璃まだ気づかないのか? この男、会ったことがあるのではないか」
会ったことがある? 杏璃はまじまじと弦の横顔を見つめた。
男性の文官に知り合いなどいない。まして若い青年となれば、まったく見当がつかなかった。
だが、最初に顔を合わせた時から気になっている香りがある。灰色の、冷えた香り。
記憶を辿ると、後宮の寒々しい外廊下が脳裏に浮かんだ。
冬の曇り空、外廊から吹きすさぶ風の吹き溜まり。焚かれた喪香。
――狐面の宦官。
「あっ……!」思わず声が漏れた。
「狐飛様?!」
弦、狐面をした宦官の狐飛は感情の読めない笑みをまた浮かべた。
こんな顔立ちだったのか。仮面で隠す必要などなさそうなものを。
杏璃の驚きを気にもかけない様子で狐飛は茶菓子を黙々と食べている。
「いやはや、私は内侍省のただの官吏でございます。なんのことやら」
狐飛は茶のおかわりを自分で注ぐと猛烈な勢いで飲み干して、席をたった。
笑みを浮かべて深々と頭をさげる。表情とは対象的に言葉には鋭さがあった。
「それでは、白蛇様、杏璃殿。あまり深入りされませぬよう。忌み事は我々にお任せし、華やかな香りの世界こそ貴女方にはお似合いですよ」
「最後に一つ、弦殿は独身か?」白蛇が茶化すようにいう。
弦はもう一度礼をすると、答えもせずに去っていった。
男の姿が見えなくなると同時に、杏璃は白蛇に向き直った。
「あ、あの方は、後宮の宦官で、狐の面を付けた……」
白蛇は混乱気味の言葉を手を降って退けた。
「瑶華宮で見かけたのだろう?」
杏璃は無言で頷く。
内侍省の官吏を名乗る男が、太子の後宮の宦官としているのだろうか。しかも、顔を隠して。全く意味がわからない。
「あの男はな。宇峻様の暗鬼よ」
「あ、暗鬼?」
「密偵だ。狗とも影とも呼ばれている。太子の手駒の一人だ。そういった連中は王宮中にいて、情報を集めている」
「ど、どうして白蛇様の元へ?」
「どうやら、太子も事件を気にかけているようだな。私たちが嗅ぎ回っていたのに気づいたか、探りを入れに来たのだろう。なに、とぼけた男よ」
白蛇はお茶のおかわりを注いで、茶菓子を食べ始めた。
「彼奴らの目的は太子の耳目となること。なに、害さえなければ茶をタカりにくるだけだ」
杏璃は曖昧に頷いた。
弦が杏璃自信を探るような質問をしてきたことも気にかかる。
本当に彼の目的は毒事件だけが目的だったのだろうか。
「そういえば、白蛇様。後宮の呪いを解く香はできたのですか?」
白蛇は最近お馴染みになった不敵な笑みを浮かべた。
「もちろん、できたとも」




