第21話 太子の手紙
玄関前で隼星を見送ると、雲華のお茶の誘いも断って杏璃と白蛇は工房に籠った。
しんと静まり返った工房では、火鉢から炭の弾ける音が響いている。
「さて、と」
白蛇が長く垂れた帯を無造作に払い、床に胡座をかく。
「見せてみなさい」
杏璃は下着の中から薬袋を引っ張り出すと、紅鱗香を差し出した。親指大の石ころにしか見えない塊から、香りが溢れ工房が翡翠色の香りで包まれる。
「ほほう、素晴らしい。これがあの……」
白蛇は満月色の瞳を輝かせ吐息を漏らした。
上衣を荒々しく脱ぎ捨てて紅鱗香を恭しく受け取ると、宝物でも見つめるような眼差しで没頭しはじめる。
「白蛇様、せっかくのお召し物が皺になりますよ」
杏璃は慌てて床に放り出された上衣を拾い上げた。
触れた先からとろけるような絹の感触と、銀糸で施された繊細な刺繍が手に馴染む。後宮でも滅多に見かけない、豪奢な衣だった。
「今日はどうしてこんなに着飾っているのです?」
返事には期待していなかったが、意外にも白蛇はポツリと答えてくれた。
「なに、盗みに入るお前を迎えに行くからな。少しは粋な格好をした方がいいだろう」
意味がわからない。
聞き出したい、とも思うが今は紅鱗香に夢中になっている様子。
杏璃が黙って上衣を衣紋掛けに垂らしていると、白蛇は紅鱗香から目を離し、懐へ手を入れた。
「これを使うと思っていたのだ」
懐から一通の文を取り出す。
薄桃色の便箋には金粉が散らされ、表面には複雑な凹凸が刻まれていた。
杏璃が見たこともない上等な紙だ。下女の一年分の給金を積んでも買えそうにない。
「読んでみろ」
恐る恐る便箋を受け取り開くと、文には美しい筆跡であっけないほど簡潔な文が書かれていた。
『余が有する品のうち、汝の願う一つを選び取ること、これを許す。』
流暢な文字に添えられた大きな印は、杏璃が見たこともないものだ。
立派だということはわかる。
「どちら様からのお手紙です?」
「これはな、私が太子からいただいた手紙だ」
「た、太子?」
「よく見ろ。これは宇峻様の私印よ」
よく見ろと言われても、貴族ましてや皇族には縁がない杏璃には。印のことなど全くわからない。
次代の皇帝となる太子・宇峻様からのお手紙? なぜ白蛇が……
「太子殿下とお手紙をやり取りする仲なのですか?」
白蛇のことだ。太子殿下の寵愛を受けていると言われても驚かない。後宮の媛君たちをも凌ぐ、この世ならざる絶世の美女なのだ。
杏璃は覚悟を決めて答えを待った。
「お前……何を考えているのやら」
白蛇が見透かしたように続ける。
「これをいただいたのはな、私が十四歳の時だ。ちなみに当時、私はそれはそれは見目麗しく愛らしい少女でな」
たしかに、今の圧倒的な美女ぶりを思えば、少女時代もさぞ名高い美少女だっただろう。
杏璃は真っ白な衣をまとった、満月色の瞳の少女を思い浮かべた。白銀の子狐だ。
「お祖父様に連れられ、王宮の御前調香会に列席した時だ。試合の余興で、私と太子の宇峻様の香比べが行われることになってな」
「香比べとは?」
「香りを当てる遊びのようなものだ」白蛇が続ける。「香木や香料を焚き、その種類や違いを聞き分ける。貴人の遊びだな」
「白蛇様は得意そうです」
「その通り。太子を散々に負かしてやった」
白蛇は愉快そうに笑った。
「あまりの圧勝具合に、尚香院や列席した貴族連中が眉をひそめるほどだった。まぁ、当然私はイカサマなんぞせずに勝ったがな」
当時の様子が目に浮かぶ。
今のように、自信たっぷりの笑みを浮かべ、列席した貴族たちの視線を受け流していたのだろう。
「そこで、皇帝陛下が自ら恩賞を賜ると仰せになってな」
杏璃は思わず息を呑んだ。
皇帝陛下自らが望みを聞く。武勲を立てた将軍ならともかく、十四の少女に与えられるには過ぎた栄誉だった。少女に見せた気まぐれとはいえ、とんでもない話だ。
「何を望まれたのですか?」
「二年後の御前調香会に、女人も参加できるように頼んだ」
あっけらかんと白蛇は言った。
「当時は男子しか参加できなかったからな。そうすれば、次回は私も参加できるだろう」
「許されたのですか?」
白蛇はニヤリと笑った。
「許されたとも。だから今、皇帝陛下の調香師をやっている」
そう言って帯に飾られた印牌を指先で弾く。
銀の印牌は御前調香会の首席たる御香司の証だ。
「だが、それに物申したのが宇峻様よ。『そんな形のない願いでは、わたしの負け甲斐がないではないか。金でも玉でも絹でも、お主がほしい物を望め』とたいそうお怒りでな」
「それで……」
「ああ、今にも泣き出しそうな顔をしていてな」
白蛇は肩をすくめた。
「さすがの私も胸を痛めた。本当は笑い出しそうになるのをこらえていたが」
「……」
「かといって、別段ほしいものもなかったのでな。そこで願いは後日に回し、その証として一筆もらい受けたのだ。つまり、あの御方は私の望むものを一つ与えると約したのだ。まだ頼んだことは無いけどな」
「はぁ……」
なんだか、とんでもない話を聞かされたような気がする。
皇帝陛下からの恩賞に、太子との因縁。自分とは住む世界の違う方だとは思っていたが、今の白蛇の話はそれ以上に現実離れしている。
「で、でしたら、そのお手紙を使えばよかったじゃないですか! 後宮から紅鱗香を盗み出すことなどしなくとも、望めば叶ったのでは?」
思わず口に出してしまう。あれだけ緊張して罪を犯した自分が馬鹿みたいだ。
「なに、ただで手に入る機会があるというのに、せっかくの手紙を使うのは勿体ないではないか」
何という言い草!
「後宮からの盗みは死罪ですよ」
「だから言ったろう。『捕まったら助けてやる』って」
白蛇は平然と言ってのけた。
――安心しろ、捕まったら助けてやる。
朝の白屋敷でかけられた言葉を思い出す。あの時はただの気休めだとばかり思っていたが……。
「……本気だったのですね」
「当たり前だ。私は薄情ではないぞ。この文はな、お前のために今日持っていったのだ」
なんだか、毒気が抜けてしまった。
本気なのか冗談なのか、この人はいつも常軌を逸している。凡人たる自分では理解できない倫理で動いているのだ。
付き合わされるこちらの身にもなってほしいものだ。
「それで……結局着飾る理由はなんなのですか?」
「うむ。ただし、子供の頃にもらった手紙一枚で本当に話が通るかは怪しい」
白蛇は丁重に文を折りたたむと、棚の奥へ収めた。
確かに……。相手は内府である。紙切れ一枚の効力など時の経過とともに薄れていてもおかしくはない。
「下手に揉めれば逮捕だからな。どうせなら可憐な美女が縄を打たれる方が見世物としては上等だろう」
白蛇は得意げに言うと、また紅鱗香に向き直った。
杏璃はため息とも笑いともつかない息を吐く。
そして、お茶をもらうべく、雲華を呼ぶことにした。




