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後宮の調香師 ~白蛇様の、愛弟子のいい仕事~  作者: 相良徹生
後宮の呪

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第20話 紅い烏頭根

 転がり出るように後宮を飛び出した杏璃は、足元の一点だけを見て早足で歩いた。顔を上げるのが怖かった。宦官に呼び止められ、盗みの罪を問われたらどうしようもない。

 胸元に隠した紅鱗香こうりんこうは素晴らしく香り、この娘は盗人だと叫んでいるように感じられた。

 そして、秘宝殿で見た、芳蘭妃の茶器が頭から離れなかった。

 あの夜、白蛇が用意した杏璃を試す三つの茶には烏頭根トリカブトの香りだけがあった。

 だが、芳蘭妃の茶は違った。今ならはっきりと分かる。

 同じ烏頭根トリカブトなのに、ほんのわずかに別の香りが混じっていた。


 白蛇様が茶器に入れた毒は……黒い霞が漂っていた

 一方で、芳蘭妃の茶器からは……黒い霞に混じって赤い何かが……


 あれは何だろう。どこかで見たものだろうか? 

 それが喉元に引っかかる骨のように、どうにも気になってしょうがない。

 考えが絡まりかけた、その瞬間だった。


「よう、戻ったか」


 なんとものんびりとした気の抜けるような声が降ってくる。

 白蛇の声だった。

 いつの間にか顰めていた眉根を緩め、ふぅっと息をつくと同時にどっと汗が吹き出した。そうとう緊張していたらしい。

 後宮門前の木陰に、白蛇と共に隼星も立っている。

 並ぶ二人は奇妙なほど対照的だった。

 隼星は帯刀し、黒毛皮の外套を羽織った武官姿。一方の白蛇は銀糸の雲文様を織り込んだ上衣に、水色の花刺繍を散らした華やかな装いだった。普段は簡素な簪しか挿さないのに、今日は羽を模した銀細工の髪飾りまで付けている。宴にでも出席するかのような出で立ちで、いつも以上に目立っていた。

 杏璃は二人に駆け寄ると、深々と礼をした。


「ただいま戻りました。白蛇様」


「うむ」


 白蛇は口元に笑みを浮かべ、長い髪を払った。重ねた絹の上衣が夕日で輝く。


「あの……お二人とも、どうかなさいました?」


 杏璃は隼星に視線を向けた。武官の彼に、今まさに後宮から盗みを働いたとバレるのは不味い。

 隼星は杏璃の気まずい視線を勘違いしたようで、言い訳をするように口を開いた。


「俺は白蛇の護衛だ」


「ご、護衛?」


「なに、お前を待っていたのだが、こやつ、私が一人でぶらついているのを見つけて、警護すると譲らぬのだ」


 白蛇が貴人らしからぬ仕草で肩をすくめる。


「女人がふらふらと出歩くのは剣呑だろう。君を待っているにしてはめかしこんでいるしな。なにか企んでいたのだろう」


 さすが、鋭い方だ。

 杏璃は視線が泳ぐのをこらえて、じっと地面を見つめた。澄ました顔で黙り込むのは、奴隷時代からの得意技だった。

 それに、白蛇も素知らぬ顔をするのは得意だった。


「どうだった」


「滞りなく」


 杏璃は静かに頷いて言う。まさか、宮の武官の前で盗みが成功したなど言うことになるとは思わなかった。


「よし、帰るぞ」バサリと袖を振ると、白蛇が歩き出す。


「隼星、君も来たまえ。美女二人を従えるとは、武官の誉だぞ」


 杏璃は慌てて後を追った。

 宮路みやじはひっそりと静まり返っていた。

 空の端が淡い橙色に染まりはじめ、王宮の高壁が長い影を石畳の上に引いている。

 点々と灯り始めた松明が石畳を照らし、衛士が無言で立っているのを横目に、三人は連れ立って歩いた。

 後宮から遠ざかるとともに、杏璃の足取りは少しずつ軽くなっていく。胸元の紅鱗香の香りはまだ漂っているが、今はもう後ろめたさは感じない。


「白蛇様。その……芳蘭妃様の茶器を見つけました」


 先を行く白蛇が首を傾げた。続けろという意味だろう。

 横をゆっくりと歩く隼星が訝しげに杏璃を覗き込む。その瞳には、気遣いがあった。


「君、どうも顔色が悪いぞ。後宮で何かあったのか?」


 白蛇の髪飾りが風で揺れ、触れ合う音がやけに大きく聞こえる。

 杏璃は一度息を整え、言葉を選んだ。


「白蛇様、あの夜、わたしに三つの茶杯を並べましたね。あの茶に混ぜられた毒は、芳蘭妃が使った毒と違うように思います」


 今度は白蛇も振り返り、二人は訝しげに顔を見合わせた。


「いえ、同じ毒なのですが、何かが違うのです。なんだか、それが妙に気になってしまって……その……。芳蘭妃様の茶には、烏頭根トリカブトの他になにか別の香りが混じっていました」


「別の香り?」


 隼星が眉をひそめる。


「知っている香りか?」


「紅い火花のような粒が見えました」


 杏璃は強く目を閉じて、記憶をさぐった。

 柘榴石のように輝き、それでいて禍々しい血の結晶のようなあの香り。

 古今東西、あらゆる香料のそろった白蛇の工房でも見たことがないということは、薬だろうか。


「ふむ……なんだろう。私が用意した烏頭根トリカブトは王宮の薬師を叩き起こして用意させたものだったからな。アレは混ぜ物のない特上品のはずだ。そういえば、芳蘭妃はどうやって烏頭根トリカブトを用意したのだ? 薬師仕事をするような御方ではなさそうだが」


「毒の入手は官吏が調査していたはずだ。確か、街市場の薬屋から買ったとか。芳蘭妃が直接文を書いて、宮女を通じて手引きしたらしい」


「芳蘭妃様が自ら毒を用意したのですね……」思わず声を上げてしまう。


「それなら、なおさら分かりません」


 隼星は驚いた顔で杏璃を見つめた。


「芳蘭妃様が自ら用意したのであれば、なぜわざわざ烏頭根トリカブトに別のものを混ぜたのでしょうか」


「なぜって……」


「杏璃はそのことについては一家言あるようだな」


 白蛇はニヤリと笑って、隼星を肘で突いた。


「杏璃はな、犯人探しには興味がない」


 それきり三人は黙って歩いた。

 王宮の端へ向かうにつれ、石畳は途切れ、足元は固く踏み固められた土の道になる。松明の間隔も広くなり、夕闇がじわじわと足元から這い上がってくるようだった。

 やがて、見慣れた林が見えてきた。

 白蛇が門をくぐりながら、独り言のように呟く。


「こやつが知りたいのは、芳蘭妃がなぜ死を選んだかだ」


 門の向こうから、雲華の「お帰りなさいませ!」という明るい声が飛んできた。

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