第19話 香泥棒
「杏璃さん下がっていただける?」
八仙の言葉で杏璃は我に返った。
ずいぶんぼんやりと秘宝殿を見上げていたらしい。
彼女の後ろから、ひょっこりと狐面の宦官、狐飛が現れた。手には古びた紐飾りがついた鍵束を持っている。
その中から一本を選び出すと、慣れぬ手つきで巨大な錠前と格闘している。
「あの、この秘宝殿には見張りの兵はいないのですか?」
「そうねぇ。聞いたこと無いですね。秘宝殿といっても、まぁ、なんというか、物置のようなものですから」
なるほど、白蛇が言っていたのは本当だったのだ。
皇城の秘宝殿の警備の厳重さと比べると天と地の差である。
「上の御方は、不用品を放り込んでいるようですねぇ」
八仙がのんびりと言う。
同時にガチャリとあっけない音が響く。秘宝殿の錠は解かれ、巨大な鉄扉が鈍い音を立てて開いた。
「さて、開きました。いってらっしゃいませ」
狐飛は丁重な礼をすると、脇に避けた。
どうやら彼は中まで付き添うつもりはなく、外で待っているらしい。
杏璃はホッと息をついた。狐飛が着いてくるのではないかと、内心ヒヤヒヤしていたのだ。
狐飛という男は、どこか得体が知れない。
あの、どこを見ているかわからない狐の面の奥から全てを見透かし、貴重品を懐に持ち込もうとすると、ソッと後ろから咎められそうな気がする。
そんな想像を振り払い、杏璃は秘宝殿へ足を踏み入れた。
秘宝殿の中は、外から見た印象そのままに古びていた。
薄暗い巨大な空間には天井まで届く棚が並び、空気はよどんでいる。天井近くの小さな窓から差し込む光の中で、埃がちらちらと舞っていた。
杏璃にも馴染みのある、商家の倉庫のような趣だ。
ただ、倉庫よりは雑多で、棚には木箱やむき出しの陶器の壺、書物が山のように詰め込まれている。
虫除けの香草の香り、ホコリ、古びた紙の香りが漂って、杏璃には淡い落ち葉色の霧の中にいるように感じた。
白蛇や八仙の言う通り、東宮へ入宮した媛君たちが実家から持ち込んだものの、使い道に困った品々を押し込んでいるのだろう。
まさに物置である。
杏璃のような庶民からすれば、どれも売れば大金になりそうなものばかりだ。だが、媛たちの衣装や私室の調度品のように、思わず目を奪われる輝きは乏しかった。
「思ったより地味でしょう」
杏璃がポカンと周囲を見渡しているのに気づいたのか、八仙が笑いながら言った。
「どんな金銀財宝があると思っていた?」
「……はい。その、ちょっと拍子抜けしています」
八仙はふふふと笑いながら、奥に進む。
白蛇の話では、四十年ほど前、後の太子妃様である玉璇様が入宮する際、生家の家宝だった紅鱗香を二つ王宮へ持ち込んだらしい。
後の太子妃といえば、のちの皇后であり、今の国母様である。
話が大きくなってきた。
持ち込んだ紅鱗香のうち、一つは皇帝陛下への献上品として尚香院へ、もう一つがこの後宮の秘宝殿にあるという。
尚香院は王宮全体の香を扱う部署である。ただ、白蛇は嫌われているとのことなので、香料を分けてもらうことはできないらしい。
杏璃は白蛇の言葉を思い出した。
「どうも玉璇様は特上の香料を持ってきたはいいが持て余したらしい。皇后殿下として後宮に移動された際の目録には記されていなかったから、調べてみたら大当たり。太子妃時代に秘宝殿に放り込んだようだ」
……本当でしょうか、白蛇様。
杏璃としては、四十年前のものがまだあるとはとても思えなかったが、来てしまった以上はしょうがない。探すだけだ。
前を歩く八仙に恐る恐る声をかける。
「あの……八仙様……」
「あなたが何を探しているかは聞きませんよ」
八仙が振り向きもせずに言った。
「まぁ、秘宝殿に入れてくれだなんて、よっぽどらしいですが」
まさか、盗みを働くから見逃してくれとは言えない。
白蛇は杏璃が八仙と知り合った時に、後々秘宝殿に入れる可能性に気づいたのだろう。白蛇は最初からそのつもりだったのだ。彼女は高貴な身分のようだが、さすがに後宮には手が出せない。
今回の呪い云々の騒動で紅鱗香の存在を思い出し、私を使う事を思いついたのだ。
とはいえ、こんな無茶に人を巻き込むなんて悪い人だ。
「白蛇様が無理を言ったのではないですか?」
「いいえ、丁重にお願いいただきましたよ。わたくしもココに用があったので」
八仙はくすりと笑った。
「わたくしは次の画題に古い図案集が必要なのです。古本の棚にいますから、杏璃さんは自分の仕事をしてください」
八仙は朗らかな笑みを浮かべると奥へ進んでいき、杏璃は一人広間に取り残された。
さて、この巨大な蔵から紅鱗香を見つけ出さないといけない。
「——しっかり、杏璃」
すぅっと息を吐いて集中する。
白蛇は秘宝殿の中にあるはずだと言っていたが、棚の位置まではわからない。
それも当然だった。ここには何十年、あるいは何百年にもわたって持ち込まれた媛君たちの品々が雑然と押し込まれているのだ。
杏璃は、なぜ白蛇が紅鱗香を取りに行かせるのに自分を選んだのか、完全に理解していた。香りが色で見えるからだ。
微かでも香りを感じられれば、色として見えるはず。
白蛇の工房で見た竜涎香の色を思い出して、室内を凝視する。
紅鱗香とは、表面に赤いウロコ模様が浮き出た、めったに無い竜涎香なのだそうだ。
色々な香りが混じり合い靄がかかって見える中、棚を一つずつ見て回る。
古びた香炉。ひび割れた玉器。錆びた簪。なにかの楽器。
どれも高価そうだが、求める香りはしない。
二階へ上がり、さらに奥へ進む。
木箱を開けては首を振り、布に包まれた壺を覗いてはため息をついた。
気づけば、かなりの時間が過ぎていた。
やがて一つだけ、どこか見覚えのある色が視界をかすめる。
頭を振って顔を上げた。
――たしか……翡翠のような青碧色だった……
杏璃は霧の中をじっと探った。
2階の奥。
棚の陰に、ひときわ立派な箪笥が置かれていた。
黒檀だろうか。年月を経ても艶を失わぬ黒い木肌に、金細工の金具が絡みつくように施されている。
他の品々が忘れ去られた荷物に見える中、その箪笥だけはかつての持ち主の誇りを今も抱え込んでいるようだった。
そっと扉を開く。
古びた紙、埃、虫よけの香草の奥にどっしりと重い甘く土のような香りが現れた。
陶器の器の隙間から、青碧色の香りが溢れている。
杏璃は息を呑んだ。
間違いない。
翡翠色の煙の中を踊るように舞い、細かい銀の塵がキラキラと輝いている。
果実の爽やかな甘さでもなく、花の花粉のようにこもった甘さでもない。不思議と心が落ち着く、濁りのない高貴な香りだ。
白蛇の工房で嗅がせてもらった竜涎香と似てはいるが、それよりもなお深く、どこまでも澄んでいる。
慎重に器を取り出すと横の机に置いて、そっと包み紙を開けた。
両手にすっぽりと収まる岩のようだった。鼠色のザラザラとした岩肌に、たしかに赤い鱗を思わせる模様が浮き上がっている。
そっと触れると、カラリと欠片がこぼれた。親指ほどの大きさで、見た目は石ころのようだ。
杏璃は欠片を手ぬぐいで丁寧に包むと、そのまま薬袋にいれ下着の下にねじこんだ。
万が一見つかっても、薬だと言えば見逃されるかもしれない。
胸元からかすかな甘い香りが漂う。それだけで妙に落ち着かず、どきどきしてしまう。
泥棒になってしまった。
杏璃は胸元を押さえながら、足早に階段へ向かった。
早くここを出よう。
そんなことを考えた、その時だった。
ふいに、ギクリと身体が強張った。心の臓が大きく跳ね、手が冷たく固くなる。
「……な、なに?」
ぎこちなく周囲を見回すと、枯葉色の霧の間に赤い煙が見えた。
――あれは……?
――赤い煙。あれはどこかで……
震える手をこすり合わせ、少し息を吐いた。
目を閉じて十秒ほど数えてから、杏璃はゆっくりと目を開けた。
間違いない、あれは……白茶に混じっていた毒だ。
――芳蘭妃の毒!
目を凝らすと、赤い煙は通路の奥の木棚から漂っていた。
杏璃は詰めていた息を吐き出すと、ゆっくりと色の源に近づいた。
木棚には無数の茶杯が無造作に置かれていた。白地に鮮やかな花草と鳥が焼き付けられ、金泥で蝶が描かれている。蝶は芳蘭妃の文様である。
あの夜、杏璃たちに配られた茶杯だった。
入宮の際に一式用意された、芳蘭妃の実家である江家の特注品だろう。主が死んだ今は、故郷にも帰れず蔵の片隅に積まれている。
かすかな白茶の香りと……あの毒の香りがまだかすかに残っている。
――なに?
なにかがおかしい。艶やかな茶杯に残る、白茶と毒の香り。
私が飲むふりをしたこの毒……なにか、なにか違っているような?
ぎゅっと目をつむり、あの夜の事を思い出す。
きらびやかで熱気にあふれた媛の私室。眼の前に置かれた媛の茶杯。そこから漂う毒の煙。凍えるように冷たい、暗く雪の香りに満ちた石牢。満月のように輝く白蛇。
眼の前に置かれた3つの杯。そこから漂う、毒の煙。
杏璃はハッと目を開けた。
「え……?」
「杏璃さん?用は済みました?」
八仙の声に我に帰った杏璃は、逃げるように宝物殿から飛び出すと、足早に後宮を後にした。




