第18話 軽率なる妙案
瑶華宮の北端――昼下がりの薄曇りの空の下、そこはまるで宮中から切り離されたかのように静まり返っていた。
どの殿舎からも遠く離れたこの一角は人影もなく、風の音さえひどく大きく聞こえる。
杏璃は足を止め、眼前にそびえる秘宝殿を見上げた。
二年前に新設された瑶華宮の中で、ここだけは異質な存在だった。華やかな後宮の屋敷とは対象的に、古く重々しい石造りの建物は、長い時を経て黒ずみ、昼でも薄暗い影をまとっている。
その名の通り、秘宝が納められた蔵にもかかわらず、皇城の秘宝殿のような厳重な警備はなく、門番の宦官すら見かけない。
日陰にはまだ溶け切らない雪が薄く氷りつき、かすかな光を鈍く反射していた。
杏璃は冷たい空気を吸い込み、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。これから自分は、この秘宝殿に忍び込み宝を持ち帰ろうとしている。
――そう、盗みを働くのだ。
◇◇◇◇
話は一日前にさかのぼる。
昨日と一変し、白蛇は朝から妙にご機嫌だった。普段から微笑みを絶やさない人ではあるが、今日は鼻歌まで歌い香を練っている。
杏璃は話しかけるべきか否かを一瞬だけ躊躇した後、白蛇の横に座り挨拶した。
こういった時、白蛇は話しかけて欲しい種類の人だと思ったからだ。知らぬ顔をすると臍を曲げる類の人間だ。
「白蛇様、おはようございます。……その、なにか良いことがありましたか?」
白蛇はニンマリとしてふふふと言っている。
「聞きたいか」
杏璃の胸のうちに、嫌な予感が湧き上がる。白蛇との生活は一ヶ月にも満たないが、なんだか彼女が妙な事を考えていそうというのはボンヤリと想像できた。
ただ、下女生活が長かったので顔に出す杏璃ではない。
「はい。よろしければお話ください」
「よろしければとは何だ、お前は私の弟子だろう。師の言葉は一つ残らず聞き出すべきだ」
「……仰るとおりです」
本気で怒っている訳ではないと分かってはいたが、杏璃は神妙な顔を貼り付けて頭を下げた。
答えは思ってもみない言葉だった。
「呪いを祓う香を作るぞ」
「え」
突然の展開に、困惑が顔に出てしまう。白蛇は上機嫌に続けた。
「六合四海を治める天子のおわす天鷹宮で呪いが蔓延るとは由々しき事態。ここは、帝より直々に叙任賜わりし御香司白蛇の出番よ」
「はあ……」
「御香司の名は伊達ではない。天才の名に恥じぬ働きを、お目にかけようじゃないか」
白蛇は得意げに乳鉢を掲げる。
「——白蛇様、昨日は呪いなど信じないと言っていたではないですか」
白蛇は素知らぬ顔で垂れた前髪を指先で払っている。
「香では呪いは祓えないと言い切ったはずです」
杏璃の声に思わず呆れが滲んだ。昨日、確かにこの人はそう断言していたはずだ。
しかし白蛇は、まるで小娘の抗議など取るに足らぬと言わんばかりに、ふんと鼻を鳴らした。およそ貴人らしからぬ仕草だ。
「私が信じていようといまいと、どうでもいいだろう。私は呪い祓いの香を見つけたのだ」
「見つ……けた?あるのですか?呪いを祓う香が」
「ある、これを見よ」
眼の前に突きつけられたのは、古い竹簡だった。書でも巻物でもない、竹片をまとめた古い竹簡になにやら文字が書かれている。
古語だった。薄墨の文字が蛇のようにうねるように連なり、学のない杏璃にはちんぷんかんぷんだ。
「白蛇様……はずかしながら読めません」
「ん?お前は文字は読めるのではなかったか?」
白蛇は竹簡を掲げて、白い指で指し示した。
「五百年、時の皇帝・清寧帝は先の戦争で呪われてな。不作が続き、都では病が流行った。そこで国中の調香師が集められ作られたのが『鳴塵香』よ。その香は『一度焚けば、呪は鳴り響く塵となりて現れ、たちまちのうちに祓われる。』とある。瑞鷹の秘香の一つだ」
「秘香……って一つではないのですか?」
随分前に聞いた事がある。白蛇は秘香研究家であり、古文書から秘香の再現を目指しているのだと。
てっきり1つだけだと思い込んでいた。秘香といえば、唯一無二の伝説の香。
どうやらそうでもないらしい。
「当たり前だ。秘香が秘香たる理由がわかるか?」
杏璃は素直に首を振った。
「秘香が現代では再び作られることのない理由は三つの理由からなる。
一つは——そもそも材料そのものが伝わっていないこと。
二つ目——材料は判明していても、すでにこの世から失われ、手に入らぬこと。
そして三つ目——材料は存在するが、極めて稀少で、容易には入手できぬことだ」
「鳴塵香は作れるのでしょうか?」
ニヤリと白蛇は笑った。
「鳴塵香は『材料は存在するが、極めて稀少』だな。貴重な香料、紅鱗香が手に入らない」
「金露木のように、貴重なのですね」
金露木は皇帝と太子のみがまとう事をゆるされた香に使われる香料の一つだ。その香木は皇城の秘宝殿で厳重に保管されている。
「だが私は見つけたのだ。紅鱗香の在処を」
……昨日の今日で?と言いかけて、杏璃は言葉を飲み込んだ。なんだか話が怪しくなってきた。
白蛇は一睡もしていないような、妙に興奮した様子で続けた。目が爛々と輝いている。
「これを見ろ」
今度はばさりと書簡を突きつけられる。古い文字だが、杏璃もなんとか読み解けた。几帳面な文字でズラズラと家具名やら楽器名が連なっている。商店の目録のように見える。それにしても、並んでいるものがやけに高貴だ。
「東宮の秘宝殿の目録だ。長年姫君達が溜め込んだ嫁入り道具がしまい込まれている」
東宮ということは、太子の後宮のことだ。
杏璃は慎重に続きを待った。
「現存する紅鱗香は東宮の秘宝殿にある。なので、杏璃。お前は瑶華宮の秘宝殿へ行き、紅鱗香を持って来い」
「……」
杏璃は絶句し、沈黙が工房内に満ちた。香炉から立ち上る煙だけが、ゆらゆらと揺れている。
先に正気に戻ったのは杏璃だった。
「あの……白蛇様。瑶華宮は二年前に太子の後宮として新設された後宮です」
「そうだが?」
「その目録は……何年前のかは存じませんが昔のものかと思われます」
「三十年前のものかな」
「今の瑶華宮には無いのでは?」
「いや、同じだ。太子の後宮は東宮というだろ?王宮の東にあるから東宮と呼ばれているのだ。場所は百年前から変わらんよ。瑶華宮は前の後宮跡地に建てられている。秘宝殿はそのままだ」
「瑶華宮の秘宝殿に三十年前のものがまだあると?」
「なに、東宮の秘宝殿は秘宝殿と名ばかりで、物置と変わらんよ。本当に価値のある物だったら皇帝陛下の後宮に持って行くだろう」
確かに。と杏璃は頷きそうになるのをこらえた。
白蛇の言葉はもっともらしく聞こえる。そして、実際にその通りなのだろう。
「……」
「なに、安心しろ。怪しまれぬよう、八仙殿に案内を頼んだ」
「え?」
杏璃は眉を潜めた。
「八仙殿に調香しただろう。私が一筆したためたあの手紙だ。お前を後宮の秘宝殿に案内しろとな」
「なんてことを!」
「八仙殿は快諾したぞ。杏璃、行って来い」
白蛇はまるで、ちょっとした使いでも頼むようにあっさりと言った。その声色には一片の迷いもなく、罪の重さを意に介していないように聞こえる。
その時、杏璃は理解した。胸の中でいくつもの記憶が折り重なっていく。
あの雪の日、白蛇に命を救われた夜の言葉が思い出される。
——お前の力も興味深い。私の下で……奉公でもして役に立て。
——なるほど、役に立つとはこういう事か……。
すとん、と今までの待遇が腑に落ちた。
「安心しろ、捕まったら助けてやる」
白蛇様、できない事は約束するべきではありません。と杏璃は思ったが、口には出さなかった。
さすがの白蛇とあっても、後宮で盗みを働いた者を庇うのは無理がある。しかも、弟子とはいえ身分の低い杏璃のような後ろ盾もない女となればなおさらだ。
――それでも
杏璃は唇を噛んだ。
後宮から物を盗むなど大罪だ。犯罪など望むところではないし、捕まれば問答無用で死罪だろう。今度は白蛇であろうと助けられないはずだ。
だが、妹の行方を探すのであれば、白蛇の元を離れるのは得策ではない。
杏璃の手は震えながらも、迷いなく拳を握り締めていた。
白蛇の目が細くなる。
「わかりました。行ってまいります」




