プロローグ
「くそめんどくさいですわね……」
その日、わたしはあり得ないことに遭遇してしまった──。
目の前にいたのは、このイーズデイル王立貴族学院の中でも高位貴族の筆頭ウェイレット侯爵家の息女であり、第一王子の婚約者でもあるアデラインさま。
この王国の年頃の娘なら誰もが憧れる、淑女の鏡とも言われるあのアデラインさまが発したとは到底思えない言葉に、わたしリゼ・ヨークはあたりをゆっくりと見回した。
春先のあたたかな日差しが心地よくなってきた昼下がり、学院のひと気のない裏庭の一角には新緑の木々が生い茂り、どこからかシロバナの優しい甘い香りがそよ風にのって漂ってきている。
しかしわたしがどんなに見回しても、ここにはアデラインさましか見当たらなかった。
数秒の沈黙の末、
(うん、何かの聞き間違いだ──!)
わたしはすぐさまそう結論づけた。
そして無言のままくるりと回れ右をして、あくまで自然にその場を立ち去ろうとした、のだったが──。
ものすごい形相でにらんでいるアデラインさまとバッチリ目が合ってしまう。
(ああ、美人ってどんな表情をしてもきれいなんだな……)
わたしは思わず心の中で漏らす。
しかし次の瞬間、アデラインさまはにっこりと微笑んだ。誰もが見惚れる完璧な淑女の微笑みだ。
まるで何事もなかったかのようなその表情に、
「──ひぇっ!」
わたしはすっとんきょうな声を上げてしまう。背筋がぞくりとしたのは気のせいだろうか。
アデラインさまはゆっくりと体をこちらに向けると、
「──あなた、お名前は?」
わたしは逃げ出したい気持ちをなんとかこらえながら答える。
「……リゼ・ヨークです、アデラインさま」
「あら、わたくしのことをご存じなのね」
アデラインさまは優雅に口端を上げる。
(しまった、知らないふりしたほうがよかったの……⁉︎)
わたしは捕食者ににらまれた小型の草食動物のように、体をこわばらせる。
アデラインさまは形のよい唇に曲げた指先を軽く当て、考え込むしぐさをしながら、
「リゼ・ヨーク……、ああ、東部の端に領地を持つヨーク男爵家のご令嬢ね」
「ひぇ!」
わたしは再び声を上げる。
(な、な、なんで知ってるの?)
目の前に立つアデラインさまは、絶大な権力と財力を有するウェイレット侯爵家のご令嬢だ。
ウェイレット侯爵家特有の燃えるような赤髪は腰に届くほど長く、緩やかなウェーブがかかっている。猫の目のような目尻が少し上がった金色の大きな瞳と艶やかな唇。体全体からは隠しきれないほどの高貴さがにじみ出ている。
誰もが息を呑むほどの美人。このイーズデイル王国の貴族なら、知らぬ者はいないだろう。
それに比べて、我が家のヨーク男爵家はかろうじて貴族の末席に名を連ねている貧乏男爵家にすぎず、この学院の中でも自己紹介をするたびに家門を訊き返されるくらい知名度は低い。
そのうえ、わたしの容姿は自分で言うのも悲しいくらいだが、ありきたりなブルネットの髪にオリーブ色の瞳。顔立ちも取り立てて美人というわけでもなく、人混みにまぎれてしまえば探し出すのも難しいほど平凡そのものだ。
だからこそ、アデラインさまがわたしを知っていることにとてつもなく驚いた。
しかし、アデラインさまは心外とばかりに顔をわずかにしかめ、
「学院に在学している生徒の名前は全員、頭に入っているわ、当然でしょう?」
わたしは呆気にとられる。
アデラインさまの記憶力もさることながら、そもそもアデラインさまほどの立場であれば下位貴族、ましてや末端にすぎない男爵家のことなど頭に入れているほうがまれだ。名を尋ねられたうえに、貧乏なヨーク男爵家の家門まで把握しているとは思いもしなかった事態に、わたしは激しく動揺する。
(ど、どうする⁉︎ いっそ逃げる⁉︎ ああ、でも家門が知られている以上、無意味だ。はっ! まさか実家に何かするなんてことないよね⁉︎ だったら、ここはいっそ──)
わたしは腹をくくり、
「わ、わたしは何も聞いていません‼︎」
思いつくかぎりの最善策となる一言を放った。
わたしは何も聞いてないし、何も見ていない。だからアデラインさまに害を及ぼすことは一切ありません。
神に懇願するように、わたしはアデラインさまを一心に見つめる。
すると、アデラインさまは一瞬目を大きく見開いたものの、そのあとで優雅に微笑むと、
「──そうね、あなた明日からわたくしのそばにいなさい、いいこと?」
「……へ?」
わたしはわけがわからず、ぽかんと口を開けて、不躾なほどその美貌を見つめ返す。
(……そばに、いなさい? とは?)
しかし、アデラインさまは有無を言わさぬすごみを見せて、
「お返事は?」
「…………は、い」
わたしはなすすべもなく、絞り出すように答える。
アデラインさまは誰もが魅了されるような満足げな笑みを浮かべると、
「では、わたくしはこれで。ご機嫌よう」
そう言って、優雅に立ち去っていった。
わたしはそっと手を伸ばして、頬をつねってみる。
──うん、痛い。
ならば、白昼夢を見ていたわけでも、わたしの脳内が作り出した妄想でもない。じわじわと現実感が増す。
わたしは拳をぎゅっと握り、
「──誰か嘘だと言って‼︎」
盛大に叫んだのだった──。
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