潜刃両路―二つの殺意が迫る
長江の霧は昼夜を問わず立ち込め、江岸一帯を淡く茫漠と覆っていた。
視界は数歩先までしか通じず、鉄条網の輪郭も靄に溶け、砲声も風音も、すべてが柔らかく濁って響く。湿った冷気が肌にまとわり、衣類の奥まで浸み込み、人の心まで重く澱ませる。戦場の熾烈さが一時的に隠されたこの静寂は、安らぎではなく、嵐の前の不穏な止まりだ。
馬宝玶は日々、この霧の中で時をうかがっていた。
彼は厳硯秋の掟を軽んじているわけではない。若き旅団長の矜持と、乱世に残そうとする僅かな人道を、心の隅で理解はしている。だが理解だけでは、積もり積もった血の恨みは癒えない。南京の街が炎に包まれ、肉親の絶叫が耳に残る記憶は、年月を経ても薄れることなく、彼の胸の奥で常に疼き続けている。
軍規は世の秩序を守るためのものだ。だが己の家族を奪われた者にとって、秩序はあまりにも遠く、あまりにも無力だ。
彼は毎夜、収容所の見回り態勢、哨兵の交代時間、木柵の緩んだ箇所を逐一確かめていた。霧が最も濃く、人声も物音も封じられる夜半、こそが唯一の好機だ。私刑の跡は靄と夜泥に埋もれ、戦場の混乱に紛れ、何事もなかったかのように消し去れる。
「ただ一人、森川雪だけでは足りない。」
霧の陰に立ち、腹心の兵士に低く囁く声は、感情を抑えきって冷めている。怒りの荒々しさはなく、ただ長年の苦しみが凝縮した、決定的な静けさが宿っている。
「この戦争で刀を抜いた者は、一人残らず報いを受けるべきだ。彼女はただの看護婦かもしれぬが、敵の身である以上、この血債から逃れることはできない。」
兵士たちは黙って頷く。誰もが戦禍をくぐり、誰もが喪失を抱えていた。彼らにとって、復讐は乱暴な妄執ではなく、生き残った者が背負わねばならぬ義務のように思えた。
馬宝玶の眼差しは、靄の奥に浮かぶ捕虜兵舎に釘付けになる。
あの少女は、いつも静かにうつむき、争いを避け、誰にも害を及ぼさない。その無防備な姿が、かえって彼の心を苛立たせる。無邪気さが戦争の罪を覆い隠すことなど許されない。どれほど穏やかに生きようとも、彼女はこの侵略戦争の一端を担ってしまったのだ。
一方、長江の西、霧に隠れた山林の奥では、別の刃が静かに迫っていた。
佐藤率いる五人の清算小隊が、草木の湿り気を浴びながら、敵陣の最深部へ潜入している。彼らは制式の軍服を捨て、地味な布衣をまとい、銃は防水布で包み、足音を完全に殺している。昭和の軍部が育て上げた殺戮の精鋭は、感情を一切持たず、任務だけを唯一の拠り所としている。
風の音、虫の音、遠くの水音以外、一切の雑音を立てない。
彼らの任務は、戦線で叛意を抱き、敵将と私的に交わった森川雪の抹殺だ。
軍の文書によれば、彼女は皇国の体面を汚し、聖戦の理念を裏切った異端者である。たとえ殺戮に手を染めずとも、心の叛きは死罪に値する。軍部にとって、戦場の敵よりも、自陣の中から生まれる清醒者のほうが、はるかに厄介な存在なのだ。
山林の露が草葉から滴り、彼らの肩に落ちる。冷たい水滴は肌を刺すが、誰も微動だにしない。
佐藤の瞳は靄の中で凪いでいる。憎しみも、憐れみも、ただ一切の情緒を排し、任務の遂行だけを見つめている。彼にとって、森川雪の生死は一個人の命の問題ではなく、軍の秩序、聖戦の絶対性を守るための儀式に過ぎない。
「収容所西側の土塀は雨で崩れ、隙間が生じている。」
佐藤が極低い声で指示を下す。言葉は短く、無機質で、人間の温もりがまったくない。
「夜半、霧が最も濃い刻に侵入。外部の警戒を封じ、内部で一撃必殺。痕跡は一切残すな。叛人の死は、無音のうちに完結させる。」
部下たちは無言で首肯する。
彼らは祖国のために殺すのではない。体制のために、嘘のために、真実を封じ込めるために刃を振るうのだ。
収容所の内側は、ただ静かに時が流れているように見えた。
森川雪は夕暮れの薄暗がりの中、壁際に座り、靄に埋もれた長江を眺めていた。故国のことを思っても、もう帰る場所はないような気がする。捕虜として敵地に囚われ、故国からは裏切り者の烙印を押され、両方の世界に居場所を失った。
風が兵舎の隙間から吹き込み、彼女の髪をそっとなでる。冷たい風は、未来のない絶望をそっと運んでくる。
厳硯秋は旅団の幕舎に立ち、窓から濃く立ち込める霧を眺めていた。
彼はすべての気配を感じ取っている。馬宝玶の胸に渦巻く復讐の暗澹、戦線の霧に紛れて迫る異質な殺気。二つの危機が、それぞれ別の場所から、同じ少女を標的に迫っていることを悟っていた。
彼の眉間の傷跡が、薄暗がりの中で白く浮かぶ。
守ろうとする秩序、抑えようとする憎しみ、救おうとする命。乱世の狭間で、一人の少年が背負うにはあまりに重い荷物だ。
霧はますます濃くなり、天地の境界を溶かしていく。
誰もが嵐の来ることを知っている。ただ、その破滅がいつ訪れるか、誰も知らない。
静寂は、もう長くは続かない。




