鏡中の罪―自らを問う人間性への思索
雨は幾日も続いたが、やがて細やかな霧に変わった。
長江の岸一面が白靄に包まれ、遠くの戦線の砲声も靄に吸い込まれるように、ぼんやりと遠くなる。収容所の泥地は乾ききらず、一歩踏めば靴底に重い土がまとわりつく。鉄条網には無数の雫が吊り、風が通るたび、しずかに落ちて地面に小さな輪を描く。
森川雪は朝の労働の合間、木柵に寄りかかって靄の向こうの川面を眺めていた。掌の傷はだいぶ癒え、包帯を外すと淡い薄皮が残っている。だが心の傷は、一向に塞がらない。同じ捕虜たちの冷たい視線は日に日に鋭くなり、陰で囁かれる「裏切り者」の言葉が、靄の隙間からいつも耳に届く。
彼女はもう、軍が教えた大義を信じられなくなっていた。
故郷の畑を思い出すたび、遠くの土地で火が燃え、民衆が泣き崩れる光景が重なる。戦争のために引き離され、殺し合いを強いられる。どちらが勝っても、失うものばかりだ。この思いを誰に話すこともできない。同じ国の兵士に話せば非難され、敵陣の者に語るには隔たりが大きすぎる。
兵舎の隅にいる老いた歩兵が、ある朝雪に話しかけた。
「お前は考えすぎだ。皇国のために戦うのが、我らの務めだ。」
雪は首を振らなかった。ただ靄に霞む長江を見つめ、静かに呟いた。
「戦うことで、何を得るのでしょう。」
老歩兵は顔を曇らせ、それ以上口を開かずに立ち去った。その背中にも、戦争に擦り減らされた疲れが滲んでいた。
一方、馬宝玶は靄の日を好んだ。
霧が人の姿を隠し、物音を和らげる。私的な報復を行うには、まさに好都合な天候だ。彼は腹心を呼び、夜の行動計画を少しずつ練り上げていく。厳硯秋の監視の目をかいくぐり、捕虜の兵舎の裏から忍び込む。標的は森川雪だけではない。南京の恨みを晴らすため、数名の日本兵をまとめて始末し、すべて夜の暴動として偽装するつもりだ。
「旅団長は規則に拘りすぎる。」馬宝玶は低い声でつぶやき、拳を固めた。「だが南京の血を見た者には、紙の規則など通用しない。」
腹心の兵士は黙って頷く。靄の中で、復讐の念が濃く澱んでいく。
厳硯秋は馬宝玶の動きを察知し、内心で苦悩していた。
軍規を守らねばならない。捕虜に対する私刑は軍法に違反する。だが馬宝玶たちの胸には、南京の惨禍という消せない傷がある。怒りを抑えることの難しさも、彼にはわかる。
夜になると悪夢が襲ってくる。焼けた街、道に横たわる無数の遺体、泣き叫ぶ民。あの地獄が、今も彼の眠りを奪い続けている。だからこそ、憎しみの連鎖をここで繰り返したくない。
昼過ぎ、靄が少し薄れた時、厳硯秋は雪を呼び止めた。
木柵の近く、誰にも聞かれない場所で足を止める。
「馬宝玶たちは動こうとしている。お前たち捕虜を狙っている。」
雪の肩がわずかに震えた。
「私が、何をしたというのです。」
「お前が何をしたかではない。彼らにとって、お前は敵であり、南京の恨みの象徴になってしまった。」厳硯秋の瞳に疲れが滲む。「私は規則で守ろうとする。だが私の力にも限界がある。」
雪は黙ってうつむいた。
自分は戦争に巻き込まれただけの農家の娘。殺意など持っていない。だが戦場という巨大な流れの中で、個人の意思など簡単に踏みつぶされる。罪も無罪も、敵味方の色に塗り替えられてしまう。
遠く、日本軍の前線陣地では、別の動きが始まっていた。
司令部から密命を受けた小隊が、霧に紛れて敵地内へ潜入する。任務は、収容所にいる森川雪を始末すること。軍の記録には「叛人」と刻まれた彼女を生かしておけば、軍の体面に傷がつく。祖国側からも、死を待つ烙印が押されていた。
この潜入部隊の存在を、収容所の誰も知らない。霧に包まれた戦線の裏で、もう一つの刃が静かに収容所に向かって進んでいる。
夕暮れ、靄が紫がかって濃くなる。
収容所の灯りがかすかに点り、人影が靄の中でぼんやり揺れる。
雪は兵舎に戻り、板の上に座って、故郷の麦畑を思い浮かべた。もう二度と帰れないかもしれない。敵の収容所で、故国からも裏切り者として追われる身。どこにも逃げ場がない。
風が靄を運び、鉄条網から雫が落ちる音だけが静かに響いた。
二つの危機が、霧の向こうから迫ってきている。




