━━━案件121 ベアートリクス号 ロナーシアへ帰還す━━━
ロナーシアの町が遠望できるようになったと聞いて、竜司郎とモリンは喜び勇んで船首楼へと駆け上がった。
船長から望遠鏡を借り、代わる代わるロナーシアの町を眺める一人と一匹。
望遠鏡の向こうには、濃いオレンジ色の屋根瓦と白壁の街並みが、まだぼんやりと浮かんでいた。その奥には、小高い山の上に建つアンセル伯爵の居城も見える。
大海蛇討伐に出航し、続けざまに海竜と遭遇して、ロナーシアへ戻るまで、わずか四日ほどの航海だった。
それなのにロナーシアの町は、竜司郎とモリンの心に、郷愁にも郷愁にも似た思いを呼び起こした。まだ暮らして二か月そこらだというのに……。
あるいは、異世界に来て初めて訪れた町だからこそ、竜司郎とモリンはロナーシアを特別な場所だと思いたかっただけなのかもしれない。
だが、例えば、ロナーシアの町が暗く、冷たく、澱んだ町であったなら、果たして竜司郎とモリンは、同じように郷愁を感じたであろうか。
そうはならなかったはずだ。
ロナーシアの町が、竜司郎とモリンの心に郷愁の風を吹かせたのは、町が活気に満ち、人々が二人を温かく迎えてくれたからではないだろうか。
そして、その町へと導いてくれた人々がいたからではないだろうか。
竜司郎に抱えられたモリンが、穏やかに笑っていた。
モリンも、もしかしたら竜司郎と同じような感慨を抱いているのかもしれない。
「竜司郎さん、私にも見せて!」
後ろから声がした。
よく通る、澄んだ声。竜司郎は振り返らずとも誰だか分かった。
マリーナ・ローズウッド。
竜司郎と、モリンを、あの懐かしいロナーシアへ導いてくれた少女だった。
振り返った竜司郎の前に立つマリーナは、救護活動の鬼気迫る表情ではなかった。
竜司郎が知る、年頃の少女の柔和さに、凜然とした雰囲気を纏わせた、いつものマリーナだった。
マリーナは、ごく自然に竜司郎の隣に並び、竜司郎と同じロナーシアの方角を向いた。一陣の海風が、竜司郎の黒髪と、マリーナの赤髪を軽やかに揺らす。
「……やっとロナーシアに帰って来たよ、マリーナさん」
竜司郎から渡された望遠鏡を、マリーナは笑顔で受け取った。望遠鏡でロナーシアの方角を見るマリーナも、感慨深げな面持ちだ。
「なんだか、何か月もロナーシアから離れてたみたい……。巡礼でもこんな気持ちになったことないのに……」
「本当に、命がけだったからね」
「うん……」
交わす言葉は少なかった。
それは、若い男女が船上で語らう甘いひと時ではなく、ともに激戦を潜り抜けて生還した、戦友同士の生存確認のようであった。
一陣の海風が、もう一度、竜司郎の黒髪と、マリーナの赤髪を軽やかに揺らした。
しばらく二人と一匹は船首楼に佇んでいたが、やがて竜司郎とマリーナは、どちらともなく船室へ戻ろうと振り返った。
その視線の先に────
「随分よい雰囲気ですわね、竜司郎さん、マリーナさん……」
腕を組んだセリーネ・メルクスが、形のよい眉を寄せ、口を尖らせて仁王立ちしていた。
「「セ、セリーネさん……!」」
見事にハモった竜司郎とマリーナの呼びかけに、セリーネはますます口を尖らせた。まったく、リルヴィアと帰港後の書類整理を一段落させて、一息つこうと甲板に出てみれば……。
「い、いつからそちらに……」
何故か申し訳なさそうに問いかける竜司郎。答えたのはセリーネではなくモリンであった。
「『……やっとロナーシアに帰って来たよ、マリーナさん』のあたりからッスよ御主人……」
「……!」
モリンがジト目で御主人竜司郎を見上げる。後ろを取られてまるで気づきもしないなんて、冒険者としてどうなんッスか、という表情だった。
……どうやらマリーナも気づいていなかったようで、モリンのジト目が自分にも向けられているように、もどかしそうな顔をしていた。
……マリーナさん、たしかディフォード戦闘術の使い手でしたよね?
ほどなく竜司郎とマリーナは、降参の体で縮こまった。その姿に、セリーネもふっと表情をほころばせた。
「……まぁいいですわ。マリーナさんには、ウチの船員たちを助けていただきましたし、今回は大目に見るとしましょう」
努めて鷹揚に応えて、セリーネは腕をほどいて胸を張った。
ベアートリクス号は、無事にロナーシアへ帰還を果たした。
ベアートリクス号が、ロナーシアの港に手旗信号を送ってから、一時間も経っていない。なのに港には、竜司郎が知っている顔がズラリと並んでいた。
マシウス先生、ボンゴスファミリー、ゴードン隊長……。フィーズ教会のご近所さんや、知り合いになった冒険者たちも、何人か迎えに来ていた。
港の信号所がベアートリクス号の帰還を確認すると、知らせは瞬く間に町へと広まったらしい。
竜司郎とモリンは、改めて、ロナーシアが彼らの故郷となりつつあるのを知ったのであった。
「お父さま!」
セリーネは真っ先にバイテンに抱きついた。涙目になりながら再会を喜ぶセリーネとバイテン。
マリーナとルークも、マシウスの手を取り、帰還の喜びを報告していた。
竜司郎もモリンも目頭が熱くなった。
「よかったッスねえ……」
「うん……。本当によかった……」
奇跡と言ってよかった。
海の覇者たる海竜と一戦交え、人も船も欠けることなく帰還したのである。
だが、その奇跡は、ただ幸運に恵まれた結果ではなかった。
西風団が、ベアートリクス号の乗員が、竜司郎が、モリンが、一丸となって奮戦したからこそ、辿り着けた結末でもあった。
カイロン、アイラ、そしてメルクス商会の主だった幹部たちとも抱擁を交わすと、一転、セリーネは真剣な所作と表情で、西風団の方を向いた。西風団の面々も表情を引き締める。
無事ロナーシアへとたどり着いた大海蛇討伐隊の一行は、再会の喜びもそこそこに、討伐任務中に遭遇した海竜の存在を披歴したのである。
港に集まった人々は、騒然となった。
海竜遭遇の報は、瞬く間にロナーシアの町を席巻した。
一大事である。
ロナーシアは、ミューラ半島の西岸と東岸を船で結ぶ拠点。陸路、航路双方において重要な位置を占める。
その航路のすぐそばに、海竜の存在が確認されことで、一部の船は出航を見合わせた。
物流ギルドは陸運部と海運部の連携を密にして、ロナーシアへの物資の流れを滞らせぬよう腐心する必要に迫られた。
魔術師ギルドは、西風団が持ち帰った海竜の角の鑑定に、しかるべき導師を派遣するとともに、魔鏡通信でロナーシアと通じる都市へ、海竜の存在と、出航計画の変更を要請した。
魔鏡通信は魔術師ギルドの専売特許ともいえる通信技術で、国家が掌握するマナネットを除けば、遠方へ最も早く、正確に情報を伝達する手段だった。
通信手段となる魔鏡は高価で、消費魔力も大きく、気軽に利用できる通信手段ではなかった。それでも魔術師ギルドの導師たちは即決で利用を認可し、各都市に情報を伝達したのだった。
セリーネとリルヴィアが作成し、船長とルークが確認した報告書は、アンセル伯爵、各ギルド、教会に届けられた。これを受け、緊急会議が開催されることとなった。
ベアートリクス号の乗員は揃って療養と休暇を取るよう、バイテン商会長から”厳命”が下った。総代理のボルトンが早速に動き出す。
同じく西風団一行にも、十分な休養を取ってから緊急会議に出席するよう、冒険者ギルド副マスタ―”大剣のファリソン”から直々に通達されたのである。
緊急会議の議場は、アンセル伯爵城の裾野、官庁施設が立ち並ぶ区画にある多目的ホールに決まった。




