━━━案件119 逃げるが勝ちの相手は確かに存在する━━━
「竜司郎さん!」
「竜司郎さま!」
駆け寄ったマリーナとセリーネは、竜司郎の左手から伸びるラッシングベルトを見て、そろって目を見開いた。
ベルトの先には、全身ボロボロのルークがぶら下がっていた。ルークはモリンと海竜の角を抱え、竜司郎の左掌から伸びたベルトに胴体を支えられている。
ルークは覗き込むマリーナとセリーネに、無理やり笑顔を作った。
「へへっ……リュウのやつがな、この拘束魔法でちゃっかり角を回収していたのさ。まったく抜け目のないやつだよ……」
そう言ってルークは自らの身体に視線を落とした。ガッチリと絡まったラッシングベルトは、竜司郎の采配なのか、ルークの身体に可能な限り無理のない巻き付き方で、彼の大きな身体を支えていた。
「ごめん、救助、頼む……。ラッシングの『軽量』効果でも、ルークとモリンと、海竜の角は結構重いんだ……」
竜司郎は、素直に弱音を吐いた。
海竜に吹き飛ばされ、泳いでベアートリクス号に近づこうとしたら、海竜がもんどりうって倒れ、そこをようやくモリンの水上バイクが駆け付け、ルークの太い腕で引き上げられた、というわけだった。
状況が状況で、海竜の反撃が予想されるゆえに、船のクレーンを使った水上バイクの回収もできなかった。
竜司郎は、とりあえずとばかりにルークをラッシングベルトで拘束し、モリンと海竜の角を預け、ベアートリクス号に文字通り自らを紐付けることで、九死に一生を得たのである。
モリンはともかく大柄なルークと長大な海竜の角は、いくら魔法の効果があっても竜司郎には重荷であった。
早速、護衛団の何人かが駆け寄り、竜司郎と、モリンと、ルークを引き上げた。そして竜司郎とルークが、尻もちをついたまま、海竜の角をトロフィーのように掲げたことで、士気と歓声は最高潮に達した。
竜司郎が回収し、ルークが持ち帰った海竜の角は、ただの戦利品ではない。
海竜を退けた事実の物証であり、件の海竜の詳細を知る重要な手がかりでもあるのだ。
これを持ち帰り、調査し、ロナーシアのギルド総出で対策を練らねばならない。事態の推移によっては、伯爵に要請して軍を派遣してもらう必要さえ生じるだろう。
「負傷者の救護! 索具の張り替え急げ! 船体の補修は航行に支障がない範囲で後回しだ!」
船長が足を引きずりながら、拡音石[かくおんせき]で命令を下す。
竜の息吹で吹き飛ばされた者、破壊された船の木片を食らった者、転倒し打ち付けられた者。船員たちの多くは身を引きずりながらも、それでも持ち場へと戻っていった。
彼らを突き動かす一番大きい動機は、たぶん海竜に対する恐怖心であろう。そして、その恐怖を心から少しずつ追いやっているのが、討伐隊総出で掴んだ僅かな希望。
それは、竜司郎とモリンとルークの帰還によって、ベアートリクス号の乗員に、一層強く沸き起こった。
その希望を手繰ってロナーシアへ帰る。生きて、ロナーシアへ帰るのだ。
引き上げられる竜司郎とモリン、そしてルークを横目に、ヴェスタは矢を番えた。
爆炎弾。これが当たれば、逃走のための時間を少しでも稼げる。
手負いの相手に、さらに一撃を加える。だが、ヴェスタに逡巡はなかった。
元傭兵として数多の戦場を渡り歩いてきたヴェスタは、敵への無用な情けが、自分や仲間の命を奪うことを知っていた。しかも、相手はあの海竜である。ヴェスタはためらわず鏃を海竜に向けた。
海竜の動き、距離、風、船の揺れ、そして自らの技量。わずかの時間に全てを見極め、ヴェスタは『爆炎弾』を放った。
『爆炎弾』は、のたうつ海竜の頭部に見事命中した。炎と衝撃に打たれ、海竜の巨体が海面へ叩きつけられる。
船員をフォローする護衛団たちが、声を上げ、口笛を鳴らす。ヴェスタが『爆炎弾』の二本目を手に取ろうとした傍から、別の、一本の矢が差し出された。
「ヴェスタ兄さん、あたしからも置き土産、お願い!」
チャコが一本の矢をヴェスタに差し出した。それはチャコの『阻遮符』を全部括りつけた矢で、スマホや携帯電話に、これでもかと飾られたストラップのようでもあった。
「これを海竜の周りにばらまくだけで、一秒でも、二秒でも、あいつの魔力感知を乱せると思う」
「いいアイデアだな、チャコさん。我々にとって、海竜相手の一秒は千金に値する」
ヴェスタはチャコから矢をもらうと、すぐに矢を番えた。『阻遮符』の束に、ややもたつきながら。
仕留めるための矢ではないし、そもそも『強化』すらしていない矢では、かの竜鱗に傷一つ負わせられない。が、本命はチャコの『阻遮符』である。
『阻遮符』を束ねた矢は、通常よりも重い。ヴェスタはその分だけ仰角を付け、矢を放った。
矢は、海面でのたうつ海竜に、見事に命中した。『阻遮符』が鱗に跳ね返り、海に小さく散開するのが見えた。一本でも、竜鱗に引っかからないか。
流石に海竜もそこまで甘くなかった。海竜が纏う精霊力の被膜に弾かれて、『阻遮符』は全て海に落ちてしまった。
しかし、万全の海竜ならともかく、角を折られ間もない海竜が相手なら、周辺にばらまかれた『阻遮符』でも相応の効果を発揮するのではないか。
チャコは祈るように、『阻遮符』の『強化』のために使用して、こぶし大から半分ほどになった魔石を握りしめた。
船員たちの奮闘で、ややいびつな形ながら、メインマストの帆が張り直される。セリーネが風の精霊を呼び寄せた。
海竜の姿が、次第に遠く、小さくなっていった。
リルヴィアは船尾楼から魔法紋の帯を垂らし、魔力を伝達していた。『水流操踊』で船体の左右に水流を作るためである。
メルクス商会から支給された魔石は、すでに使い切っていた。あれだけ立て続けに『水流操踊』を使っていれば当然である。今は自らの魔力を振り絞り、力の限り水流を作り続けていた。
そこへマーカスがやってきた。リルヴィアに、わずかに残った自分の魔石と、マーカスが魔術師として常備している魔石の布袋を渡す。
リルヴィアは、片手で魔法紋の帯を海へ垂らしたまま、片手で受け取るのを申し訳なさそうにして、それを受け取った。
「合宿で教えていただいた『水流操踊』の御礼です。本当に、助かりましたよリルヴィアさん」
「精霊術師が船に乗るなら『水流操踊』は必須だからね。凪の海でも航行できるし……あ、魔石ありがとう。遠慮はしないわよ」
「ええ、遠慮しないのは、分かってますよ”リルヴィア姐さん”」
爽やかな笑顔で投げかけられたマーカスの不意打ちに、リルヴィアは一瞬だけ驚いてジト目を向ける。
「……マーカスさん、どこでそれを?」
マーカスはすぐには応えず、船尾楼から、海竜の方へ視線を向けた。
「貴重な情報の取得には、相応の代価を伴うものだと心得ています」
マーカスは海竜へ向けた視線はそのままに、少しだけ気を緩めて、リルヴィアの隣に並んだ。
「たぶん、虎口は……いえ、竜口は脱しました。このまま無事にロナーシアに生還できれば、情報の出どころにも、見当がつくというものです。……そう思いませんか、リルヴィア記者長?」
「……そうね。帰ったら、ジェフトをとっちめてやらなきゃ!」
そう。無事にロナーシアへ帰って、お喋りなジェフトをとっちめてやるのだ。そこから今回の一件を記事にして、いつもより多めに刷って刷って売りさばいて売りさばいて……。
リルヴィアは表情と意識を、精霊術師から、情報誌記者へと変更した。
海竜は、肉眼では見失いそうなほど遠ざかっていた。




