━━━案件117 突撃する海竜 突撃する竜司郎━━━
対峙するベアートリクス号と海竜。
いや、対峙という表現は相応しくない。ベアートリクス号は海竜と対峙などするつもりはなく、今も逃走のために動いていたし、海竜は小癪な人間どもを対等な対決者とはみなしていなかった。
海竜は、メインマストのふもとにいる、赤い髪と青黒い髪の人間に狙いを定めていた。これは海竜にとっては戦闘ではなく、狩りである。
そして、その二人の人間を排除するのは、海竜にとって、狩りを効率的に行うための一手でしかなかった。
ヴェスタは矢筒から爆炎矢を取り出した。爆炎矢はあと三本。
先ほどまで使っていた銛は、強化一段の攻撃でも海竜にはまるで通用しなかった。今や、爆炎矢こそがヴェスタの頼みの綱である。
爆炎矢は、鏃の代わりに爆炎弾を取り付けた特殊な矢だ。火薬を魔法的にコーティングした小さな筒の先端には、火の精霊力を宿した宝石がはめ込まれている。
希少で、高価で、使用には認可が必要な兵装。
傭兵隊長時代からこつこつと買い集めてきた、ヴェスタにとっては取って置きの武器だった。だが、それもこの戦いですでに四本を消費していた。
爆炎矢サイズの爆炎弾なら、直撃すれば、まず致命傷である。そうでなくても爆風と火炎の相乗効果で無傷ではいられない。そう、人間サイズの生物なら。
それがせいぜい牽制程度にしか通用しないとは、海竜の規格外さにもほどがある。
ヴェスタは、幾多の戦場において、命の危険にさらされた事は両手の指でも数えきれない。それらと比べても、この一戦は最上級の危機として殿堂入りを果たす戦であろう。
……それも、あの海竜から生還できればの話である。さて、コイツを使い切るまでに逃げ切れるか……。
「ヴェスタ……」
「大丈夫です、お嬢様。今も船は動いております。この膠着はむしろ逃げる時間を稼ぐ好機です」
ヴェスタはセリーネを激励するのに努力を要した。セリーネは言い知れぬ不安を隠し切れなかった。
「違いますのヴェスタ。あの海竜……私たちを見ていますわ……」
セリーネはメインマストに片手を添えるマリーナを見た。
ハッとして海竜に視線を移すヴェスタ。海竜は泰然と鎌首をもたげたままだ。
優れた精霊術師のセリーネに、海竜が身に纏う精霊力の波動が伝わったのだろうか。漠然とした不安と、奇妙な確信をもって、セリーネは言葉に出したのだ。
「……どういうことですか、セリーネさん?」
マリーナも不安げだ。
『護障壁』のおかげで、大波の飛沫は甲板に届いていないはずなのに、マリーナは立て続けの魔法行使で汗びっしょりだった。
マリーナに支給されていたこぶし大の魔石も、『護障壁』の展開と度重なる修復で、組み紐の間からこぼれ落ちそうなほど小さくなっていた。
「……もしかしたら、魔法でこの船を護る私たちに、狙いを定めたのかもしれません」
セリーネの言葉が聞こえたマリーナ、ヴェスタ、船長、そして船員たちは、一斉に緊張と焦燥にとらわれた。その時────
「海竜が来ますっ!!」
見張りの大声に、ベアートリクス号の乗員たちが海竜に視線を移した。
海竜は鎌首からゆらりと水面に頭と体を落とした。水面から浮上した硬化した尾部”海竜の鉾”が飛沫を上げた。
ベアートリクス号に、水面を真っすぐ滑るように近づいてくる。圧倒的な速度と圧力は、人間どもの逃走など決して許さない海竜の意志を表していた。
「取舵っ!」
船長が叫ぶ。
もしセリーネお嬢様の発言が真実なら、海竜はあの速度のままベアートリクス号の右舷から、セリーネとマリーナを狙うであろう。
そうなったら、木造の船を覆う『護障壁』も『構造強化』も消失してしまう。下手をすればメインマストもへし折られるだろう。そうなっては、もう……。
角度を変える船に、海竜も突入角度を変えた。こちらの意図を読んでいるのか。やはり、小賢しい。
このまま船の動きを予測した角度で突撃する。あの魔法防御壁は船体の側面と底面にしか展開されていないのは、二度の海底からの突撃で確認済みだ。
ならば、障壁の展開されていない上方から狙う。それで小癪な人間どもを、マストごと噛み砕いてやれる。
船の周囲を動く二艇の小舟を、海竜は無視した。
先ほどの二度にわたる突撃でも、あの小舟どもは有効な反撃を仕掛けられずにいた。今度の正面からの突撃を防ぐ手立てなどあるまい。
船さえ沈めてしまえば、ヤツらは帰る所を失う。後でいかようにも料理できるではないか。
海竜は、跳躍のため、僅かに身体を水面下に沈めた。
ヴェスタはやや上方に爆炎矢をつがえた。セリーネの、精霊術師としての言葉を彼は信じることにしたのだ。だとすれば、海竜は『護障壁』を飛び越えてくるはずだ。
セリーネはマリーナを護るように、マリーナと海竜の間に立った。
(どうする……? 『水流操踊』で物理的な障壁を作る? でも、あの巨大さと、水の精霊力を支配する海竜に、そんなものが通用するとは思えない)
いつでも魔法を展開できるよう、魔力を両掌に集積したまま、セリーネは迷っていた。圧倒的な力の前には、少々の小細工など無きに等しい。それでも、何か、手はないのか。
「……水上バイクのみんなは、まだ無事です、セリーネさん」
マリーナは汗びっしょりの顔に笑顔すら浮かべていた。
そうだ。戦っているのは船上の我々だけではない。竜司郎も、モリンも、ルークも、マーカスも、ただ手をこまねいているだけではないはずだ。彼らの反撃を待つ。同時に……。
「そうでしたわね、マリーナさん。なら、私たちは、皆さんが帰る場所を護らないといけませんわね」
「ええ。頑張りましょうセリーネさ────」
「わあああっ!! 海竜が……」
マリーナの言葉をかき消すように、見張りが絶叫を上げた。海竜が海面から飛び上がり、放物線を描いてベアートリクス号に迫る。スローモーションのように顎を開く海竜。
ヴェスタが爆炎矢を放つ。狙いは正確。海竜の口内を捉えていた。
体表には、ヴェスタの強化銛すら通じない鉄壁の鱗がある。だが、体内の防御はどうだ。
轟っ! っという風圧。
海竜は、竜の息吹[ドラゴンブレス]を吐きかけた。
風圧に霧のような水の微粒子が混じったブレスが、爆炎矢の軌道を逸らす。矢は海竜の口内に届くことなく、爆発すらしないまま海へと消えていった。。
取って置きの武器は、ヴェスタだけではなかった。
成熟した成体の竜の息吹には及ばない。が、若い海竜のブレスでも、こうして使いどころを見極めれば、人間の賢しらな攻撃など十分無力化できるのだ。
船長と船員の何人かが、甲板にしたたかに打ち付けられた。
ヴェスタは辛うじて踏みとどまったが、そこまでだった。『身体強化』を施した肉体でも、竜の息吹の前には、その場に踏みとどまることが精いっぱいだった。
セリーネは風の精霊力を周囲に展開した。
不意打ちのブレスに、自分とマリーナの周囲に風の精霊力を展開できただけでも、上出来といえた。
だがそれは海竜にとって、人間二人とマストとを同時に噛み潰せる好機となった。
大きく開かれる海竜の顎。
大きく見開かれる、マリーナとセリーネの瞳。
「させるかあああぁっ!!」
波を蹴って飛び上がった竜司郎の水上バイクが、海竜を正面に捉えた。




