━━━案件115 大海蛇討伐隊 海竜と遭遇す━━━
海竜。
それは大洋において、絶対の捕食者を意味する言葉である。
人間が遠洋航海をためらう理由であり、離島の資源を採掘できない理由であり、南洋諸島へ島伝いに航海しなければならない理由である。
海竜は、普段は遠洋の海溝に生息し、海溝に溜まった濃厚な魔素を糧にする。人がその姿を目にすることはめったにない。
海上に浮上するのは、縄張りの定期巡回とも、魔素以外の栄養分を摂取するためとも、太陽の神と月の神に祈りをささげるためとも言われている。だが、いずれも伝承の域を出ない。
そんな海の覇者が、何故海上に現れたのか。縄張りの上で騒ぐ闖入者を始末するためか。珍客を歓迎するためか。
「……海竜……」
船長が呻くように呟いてよろよろと下がった。船員の何人かは、甲板で腰を抜かしている。人間たちは揃って言葉を失っていた。
ルークですら、剛槍を身構えることを忘れ、屹立する海の主を凝視していた。
海竜が、ギロリとベアートリクス号に視線向ける。その動きで、海流の口の端に引っかかっていた大海蛇の胴体が、ぼたりと海に落下した。
(…………!)
竜司郎は、大海蛇の胴体が海面に落下したのをきっかけに、非現実的な光景が現実のものであることを再認識した。
脳が大急ぎで情報処理を再開する。その過程で、竜司郎はある考えに至り、背筋を凍らせた。
あの大海蛇は、我が身を犠牲にすることで、人間たちの前に海竜を呼び寄せたのではないか。同胞を殺され、自らをも殺そうと追いすがる人間たちに、自らを犠牲にした逆襲に出たのではないか。
チャコの阻遮符を貼り付けられた後も、大海蛇は矢を、弩を、銛を、なおも相当数回避していた。魔法感知は減殺されてはいたが、全く使い物にならなかったわけではないのだ。
その大海蛇が、海竜という圧倒的上位者のテリトリーに、逃げ惑ったあげくに迷い込むだろうか。
大海蛇の執念は、同胞に人間どもの情報を共有するだけにとどまらなかったのかもしれない。海の覇者、海竜の生贄となることで、人間どもも地獄へ道連れにしようというのか。
海竜がゆるりと首を振る。わずかに喉が動いた。
人間があれほど手こずった大海蛇を一噛みで殺し、無造作に嚥下する。
そして海竜は、ベアートリクス号へと頭を向けると、ゆっくりと海中へ沈み始めた。その巨体が海へ没していく。
次の瞬間、海中へ沈みゆく海竜の背が、ベアートリクス号へ向けて急速に速度を上げた。
「くるぞっ!」
竜司郎が叫ぶ。水上バイクを旋回させた。船が、危ない。竜司郎は直感的にそう感じた。
あの巨体で、大海蛇のような体当たりをされたら、ひとたまりもないのではないか。マリーナの護障壁は、耐えられるのか? 耐えられなかったら? 仲間が海へ投げ出されたら?
ぐるぐると不吉な未来が思い浮かぶ。歯の根が、合わない。震えが、止まらない。
竜司郎は水上バイクをベアートリクス号へと向けた。何か作戦を思いついたわけではない。じっとしていられなかったのだ。
モリンの水上バイク操作は遅れた。
ルークが視線を下ろすと、サブコックピットのモリンは、全身が文字取り総毛だっている。海竜の放つ問答無用の力と、モリンの動物としての本能が、聖獣の加護すら圧倒してしまっていた。
無理もない。ルーク自身、これまでの研鑽と経験を総動員しなければ、ある感情に飲み込まれてしまいそうだったのだ。
「モリンっ!」
自分自身をも叱咤するように、ルークが叫んだ。
モリンはハッとして水上バイクを加速させ、旋回を開始した。旋回しつつ、強張った顔をルークに向けた。
「も……申し訳ないッス、ルークさん……ちょいと武者震いが……」
「へへっ……そうかモリンお前もか。俺もさっきから震えがとまらねえぜ……」
ルークは左手の震えを抑えながら、総毛だったモリンの背中を撫でてやった。
「なんとか……なりますよね……?」
「おう……なんとか……なんとかしてみるか!」
ルークは震えを止めるように剛槍を握りしめた。
「『護障壁』!『強化二段』!」
ベアートリクス号の乗組員で、真っ先に動いたのはマリーナであった。メインマストに右手を添え、左手に組み紐で編まれた魔石を携えている。
魔法を二段も強化する場面など、めったにない。消費魔力は強化段階ごとに倍増するのに対し、効果や威力は一段ごとに一定の割合でしか増加しないのだ。
それでも、マリーナは強化を二段施した。ほとんど無意識だった。海竜はそうせざるを得ないほどの存在だった。
護障壁のハニカム構造が展開してゆく。こぶし大だった魔石が、目に見えて小さくなっていった。
「『構造強化』!『強化一段』!」
一呼吸遅れてセリーネがベアートリクス号に強化の魔法を施した。片膝立ちで、甲板からベアートリクス号に魔力を行き渡らせる。
『強化一段』なのは、セリーネがマリーナに劣っているわけではない。木造のベアートリクス号では、一段階の強化で精一杯なのだ。それ以上は材質がもたない。
マリーナの護障壁と相乗効果で、防御力は格段に上がったはずだ。セリーネは魔石を胸に、祈るように強化を展開しつづけた。
「船長っ! 右からくるよっ!」
チャコが叫ぶ。
驚いたことに、大海蛇に貼り付けた『阻遮符』が、海竜の体内で魔力を発し、感度を落としながらもチャコに海竜の動きを伝えているのだ。それにいち早く気付いたチャコの集中力も、並ではない。
銀級冒険者にふさわしい集中力というべきか。それとも、生き延びようとする本能が、チャコの感覚を研ぎ澄ませたというべきか。
「取舵ーーっっ!!」
船長が絶叫した直後────
烈震。
マリーナの二段強化した護障壁が、丁度展開を終えた右舷の中央部。先刻の間欠泉のように、海竜がその姿を現した。
猛烈な勢いで天へと駆け上がる竜の胴体が、右舷の護障壁に激突する。魔力の火花が、凄まじい閃光を放った。
「『水流操踊』!」
船尾楼のリルヴィアが船の周囲に魔力を放った。水の流れを作り、ベアートリクス号を、1センチでも、1ミリでも、海竜から引き離すためだ。
やがて、魔力の火花が消えた。海竜とベアートリクス号が引き離されたのだ。だがそこに────
再び、烈震。
海竜の尾部。通称”海竜の鉾”と呼ばれる硬化した尻尾の先端が、置き土産とばかりに、弱り切った護障壁に一撃を喰らわせたのだ。右舷中央部の護障壁は、崩壊した。
大粒の汗にも構わず、マリーナはすぐさま『護障壁』の修復に魔力を注ぐ。持ちこたえられる、のか……。
ベアートリクス号に近づく竜司郎とマーカスの水上バイク。
放物線を描いて海中へ戻る海竜に、マーカスは片眼鏡をギラりと光らせた。
マーカスの記憶にある海竜の知識。脳内に展開したその情報に、マーカスは細い細い、一筋の光芒を見出した。




