━━━案件107 竜司郎とモリン 初めての帆船航海━━━
「おおぉぉ……! はっやー!」
「もうロナーシアがあんなに遠いッスよ!」
帆船が初めての竜司郎とモリンは、ベアートリクス号の艫から遠ざかるロナーシアの町を見つめていた。見送りの人々に手を振ってから見えなくなるまで、竜司郎とモリンの予想よりずっと速い。
船は帆をいっぱいに張り、ミューラ半島への海風を斜めに捉え、外洋へ向かう海流に乗っている。そのうえ、メインマストの見張り台でリルヴィアが風の精霊に働きかけて、海風の流れを調整しているからである。
風の精霊力に働きかける、といっても、船に対して完全な追い風に制御できるわけではない。
風の精霊力に魔力を与えて風力を補ったり、風向きをほんの数度だけ偏向させたりと、せいぜい3度から6度ほど、航行に有利な方向へ調整する程度である。
それでも、本来の帆船の航行能力と船員たちの連携が合致すれば、通常よりも速く、しかも風や海流を無駄なく利用した、正確な航路をトレースして航行することができるのである。
過日、ヴィクトーリア号が大海蛇の襲撃からからくも逃走できたのは、セリーネが精霊術師の本領を発揮して、風の精霊と、水の精霊に適時働きかけて、航行をサポートしたからであった。
古の大精霊術師や、古代アーク文明の精霊制御の魔導具を使えば、風向きや水流を自在に操り、帆船ではありえない挙動もなしえるそうである。
が、現在のアイル・グレスト皇国で、そのような挙動が可能な魔導具と強度を併せ持つ帆船は、皇家所持の御座艦を筆頭に、ほんの数隻である。
精霊術師を同乗させている船も貴重で、その点で言えば、メルクス一家の娘で一流の精霊術師というセリーネは、まさに商船を扱う商会としてはこの上ない人材といえた。
「ベアートリクス号は、ヴィクトーリア号の姉妹船で、妹にあたる船ですわ」
竜司郎とモリンの背後から、セリーネがやってきた。フリルこそついていないが、真っ白いシャツと、動きやすそうな男性的な意匠の立ち襟ショートジャケット。
そして革製のサッシュベルトにズボンとロングブーツのいで立ちは、ひょっとして意図してのファッションだろうか。これにどくろマークの三角帽子でもかぶっていれば、先代船長の後を継いだ海賊娘である。
どくろマークの三角帽子の代わりに、綺麗にまとめられた深青色の髪には、かんざしに似た髪留めがあしらわれていた。
「やあ、セリーネさん。さっきはちょっともらい泣きしてしまいましたよ」
「ふふふ……。父も兄も、本当は私を海に出すのは反対なんですよ」
「それはそうでしょうね」
さっき、というのは出航前のことだ。
メルクス一家は、家族だけでなく、総代理のボルトンや番頭らしき者たちまでセリーネと抱き合いながら、無事に帰還することを約束していた。
天候、モンスター、海賊、傷病……。海の困難は枚挙にいとまがない。それだけ海は危険な場所なのだ。
それでもセリーネは船に乗る。
メルクス家の娘として商会の役に立ち、一流の精霊術師として航行を支え、そして何より、自分自身の意志で船上に立つ。
一家の役に立つためだけではない。自分が必要とされる場所で、自分の力を使う。それはセリーネにとって、商人として、精霊術師として、そしてメルクス家の一員としての誇りでもあるのだ。
「……御立派な心掛けでいらっしゃいます。人の上に立つ心構えを、俺もセリーネさんから学びたいですね」
実際に竜司郎が「人の上に立って」仕事をした案件は、それほど多くない。大森建設に入社して三年目あたりから、数百万円から数千万円規模の案件を、課長や部長に監督……ケツ持ちしてもらいながらどうにか、といった程度だ。
本当なら五年目あたりから本格的に部下をつけて現場を、となるところだったのが、常務と部長の相次ぐ戦線離脱でそれどころではなくなったのだ。
つまり、竜司郎にとって、セリーネは若くして陣頭に立って現場を仕切る「人の上に立つ者」の先達でもあるのだった。
「相変わらず真面目な方ですわね竜司郎さまは」
セリーネはさりげなく、竜司郎の隣に並ぶ。マリーナは西風団とともに、船内で船長たちと打ち合わせ中である。この機会は、逃さない。
「私は、必ず帰りますわ。今回の航海も、その次の航海も、そしてその次の航海も……」
「お手伝いしますよ、セリーネさん」
セリーネの方を向いた竜司郎に合わせるように、セリーネも竜司郎に顔を向けた。
「まあ! では次の航海も、その次の航海も、ご一緒くださるというのですか?」
陽光きらめく海面を背景にしたセリーネの笑顔が眩しい。
「あ、いや、そういうわけではなくてですね……」
主語を言い忘れた竜司郎に、ここぞとばかりに迫るセリーネ。置いてけぼりのモリン。そこへ──。
「セリーネさーーん! 船上ロマンスもいいですけどーー! そろそろ交代の時間だと思うんですけどーー!」
見張り台から大きな声がした。リルヴィアである。セリーネとリルヴィアは、風の精霊力の制御を二交代制で担当することになっている。交代の時間には少し早いが。
「あら、野暮なお方。まあいいですわ。竜司郎さまは逃げませんし、ね」
「まあ、この海の上じゃ、俺も逃げようがありませんから」
竜司郎のどこかズレた返答に、モリンがジト目になる。
「そういうとこッスよ御主人!」
モリンのジト目ツッコミに、セリーネはクスクスと笑った。
「お嬢、魔導ブイ、見えました!」
セリーネと一緒に見張り台にいる若手が、望遠鏡をのぞき込んだまま、声を上げた。
セリーネお嬢と見張り台で二人っきりになれる見張り担当は、若手の船員の間で厳正なるくじ引きによって決められた担当である。海の神の恩寵に与った若手の声は若干上ずっていた。
「何番?」
「第十八標識です。予定より相当早いっすね」
「上出来ですわ」
セリーネは望遠鏡を向けた若手の方角に、会心の笑みを浮かべた。
魔導ブイ。正式には魔導浮標という。
この世界の近海において、安全な航海の指標として海上に浮かべられた魔導具、いや魔導構造物である。
防腐、防蝕処理された木材と軽石で作られており、頂部には光の精霊力を集積する魔法紋を施した鏡が備え付けられていた。
魔導ブイは、色と頂部の目印でいくつかの種類に分けられる。
今回若手が発見したのは、頂部の目印に数字が記された、安全航路の右側を示す青の部位である。安全航路の左側は白のブイで、第十八標識のもう少し向こうに浮かんでいるはずである。
「このまま進むと目標の海域に到着するのが夜になってしまいます。よってこの海域で一晩を明かすことを提案します」
見張り台から降りて来たセリーネは、西風団、メルクス商会護衛団、船長など主だった人員を集めて宣言した。
敢えて不利な時間帯で勝負をかける必要はない。
夜間の見張りはメルクス商会護衛団が担当し、主戦力の西風団に十分休息を取らせる。それだけでも勝率はさらに高まるはずである。
「いい判断ですお嬢。夜の見張りは若い者に任せてください」
船長が一番に賛同し、それに一同が続いた。




