━━━案件10 飛野竜司郎 樽を掴む━━━
「異世界だ……」
「異世界ッス……」
崖から飛び出した魔導バイクは、確かに数秒空を走った。その間、竜司郎と狸は、突如視界を支配したパノラマに心を奪われた。
つい先刻までゴブリンの集団の追われ、転生早々命の危機に晒されていた緊張感と絶望感が嘘のように霧散し、竜司郎と狸はある種のカタルシスに満たされていた。
初めて目の当たりにする異世界の雄大な景色は、一人と一匹を、異世界からの来訪者として歓迎しているとすら思えた。
だが、元現代人と狸は思い知る。異世界にも厳然と重力が存在することを。
「うおおおおおおおおっ!」
「わああああああああっ!」
魔導バイクは大河に向かって綺麗な放物線を描いた。視界は一転、圧倒的な大河で占められた。
……視界が大河に占められる直前、竜司郎は対岸に人影を見た気がしたが、再確認する余裕も時間もなかった。
「スすす水上バイク、変形──」
「間に合わないっ!」
崖から落下する、あの嫌な感覚に竜司郎は思わず目をつぶった。
盛大な水しぶきが川面に舞った。
……衝撃は思っていたよりはるかに軽い。それで竜司郎は動揺を一段落ち着かせることができた。
理由は二つあった。
一つは、魔導バイクの不可視のカウルが落下時の着水ダメージを軽減したためで、もう一つは、狸がギリギリで魔導バイクをオフロードバイクから水上バイクに変形を試み、そのスキル特性が働いためであった。
水上バイクの浮力が不完全ながらも機能して、その浮力が今、竜司郎と狸を水面へ誘っていた。
(顔が水に浸かってない……息ができる!?)
竜司郎はジェットヘルメットが魔法の被膜でおおわれているのを確認した。ヘルメット内の空気を吸い込み、竜司郎は酸素と冷静さを体の中に取り込んだ。
魔導バイクは水中で、今まさに形象化を解き姿を消そうとしている。閉じられたパーツがほどけ、魔力の光線で描かれた線画が逆再生されるように消えていくのだ。
竜司郎は魔導バイクの主を探そうとして、無意識のうちに狸を抱えているのに気づいた。
(御主人……私はもうダメです……)
狸が前カゴ収納スキル内のスマホから通話してきた。
通話内容はともかく、こういう時に収納スキルに収納したまま、スマホとタブレットを通してテレパシーのように会話できるのは実に便利だった。
狸のヘルメットにも竜司郎のヘルメットと同様に、魔法の被膜が発動して呼吸は可能なはずだったが、狸はすっかりその気になっていた。
魔導バイクが形象化を解きかけているのは、おそらく狸の集中と魔法制御が途切れてしまったからだろう。
(川に落ちたくらいで気分出してんじゃねーよ!)
竜司郎は狸を叱咤すると狸を肩に抱え、水上バイクの消えそうになる残り僅かな浮力に便乗しつつ水面へと足をばたつかせた。
マリンスポーツ経験者の竜司郎にとって、落ち着きさえすればこの程度の水難はどうと言うことは無かったのだ。
……セイやんとタカくんからマリンスポーツに誘われた時、竜司郎は正直乗り気ではなかった。最初のサーフィンは、誘ってくれた友人の顔を立てるのが動機だった。
竜司郎はバイク乗りとして、水上バイクには多少の興味はあったものの、サーフィンに関しては、チャラい男がナンパの口実のために嗜んでいるチャラい趣味、という偏見に満ちたイメージを抱いていたのだ。
最初のサーフィンは、確かひたちなかだったか大洗だったか……。
竜司郎が誘いに乗ってくれたのが嬉しかったのか、セイやんとタカくんは実にかいがいしくマリンスポーツのイロハを教えてくれたのが懐かしい。
……竜司郎は一度目のサーフィンで、あっさりとその魅力に陥落した。
以来、サーフィンと水上バイクは、竜司郎の夏の趣味となった。
サーフィンの技術向上に伴い、水泳のスキルも上達し、水上バイクのスキルは地上バイクの運転スキルにもフィードバックされた。
ついには、海辺で知り合った女性たちとマリンスポーツを楽しむに至り、竜司郎は過去の偏見を顧みて赤面したものだった。
(まさか異世界で水泳経験が役に立つなんて、なんでも経験しておくもんだな……)
マリンスポーツに誘ってくれた、もう会うことができないセイやんとタカくんに、竜司郎は心から感謝した。
「ほら、お前のスキルのおかげで無事に浮かべたぞ?」
無事水面に顔を出した竜司郎は、立ち泳ぎの状態で、両手で狸を掲げて新鮮な空気を浴びせてやった。
「ごしゅじ~ん……」
竜司郎は泣きそうな狸をねぎらいつつ肩車し、岸辺を探して視線を四方に散らす。そこへ……
「っせえぇぇぇいっ!」
遠くから女性の声が聞こえた。
遠くから発せられたにもかかわらず、よく通る澄んだ声と、気合の入った掛け声のアンバランスさが、竜司郎の注意を引き付けたのだ。
直後、近くでバシャンと水しぶきが上がり、竜司郎の近くに樽が投げ込まれていた。掛け声を上げた女性が投げたのか……?
「そこの方ーーーーっ!樽に掴まりなさーーーーい!」
言葉が、分かる。
声の方向には崖とは対を成すゆるやかな岸辺。
そこには二人の男女。遠目にも鮮やかな赤い髪が印象的な女性と、そして同じく遠目にも大柄だと分かる男性。
「人だ……こんどこそ人だ!」
「人ッスよ……人ッスよ御主人!」
ゴブリンたちに失望させられ命を狙われた後に出会った人、という情緒的な反動もあったかもしれない。
だが、それよりも、誰かが自分のために手を差し伸べてくれた事が、竜司郎の心の底から力を湧きあがらせ、狸の心に希望を灯したのだ。
狸が沈まないように、竜司郎はなるべく頭を上げたまま平泳ぎで進み、すぐに樽を掴まえた。岸辺の男女に手を振る。岸辺の二人も揃って手を振り返してきた。
「岸まで泳ぐぞ。しっかり掴まってろ!」
「はいッサー御主人!」
竜司郎は小ぶりな樽をビート板の要領で両手で保持すると、男女が見守る岸辺に向かって泳ぎ出した。
足がつく浅瀬まで辿り着いた竜司郎は、小ぶりな樽を大事に抱えながら、よろよろと歩き、陸と川の際で両膝をついた。
ゴブリンからの必死の逃避行、高所からの転落、と、立て続けの難局を経ての水泳は、いかにマリンスポーツ経験がある竜司郎でも堪えた。
狸も這う這うの体、といった様子で竜司郎の体を伝って降りると、竜司郎のそばにペタンとへたりこんだ。
駆け寄ってくる男女に、竜司郎は疲れ果てた腕の力を振り絞ってヘルメットを脱いで頭を下げた。竜司郎が抱えている樽と、あの声は、体力的にも精神的にも、本当に心強い一手だった。
「おかげで……助かりました。本当にありがとうございます」
満腔の感謝を込めて、竜司郎は肺の空気全てを使って謝意を述べた。狸は魔力を使い果たしたためか、へたりこんだまま竜司郎に合わせてコクコクと何度も頭を動かして謝意を示した。
「無事でよかった……」
「御無事で何よりでしたな。岸までたどり着けそうになければ、泳いで助けようかと相談していたところです」
女性の声色は家族を心配するように優しく、男性の声色は年長者の落ち着いた貫禄で、二人の声は、竜司郎と狸にようやく安堵と平穏をもたらした。
「手を貸します。こちらへどうぞ」
女性が座り込んでいる竜司郎に近寄ろうと歩を進めた時……
「ちょっと待ったぁ!」
男女の後方から荒々しい馬蹄の音と、男性の鋭い声が聞こえてきた。竜司郎と狸の安堵と平穏に、不安と不穏な波紋が広がっていった。




