第4話 300万円の金融司令部
人間という生き物は、不思議なものである。
財布に三千円入っているときは、三千円の使い道を考える。
三万円入っていれば、少しだけ贅沢な食事を考える。
三十万円あれば、旅行や家電の買い替えを考えるかもしれない。
では、三百万円なら?
もちろん、答えは人によって違う。
車を買う人もいれば、貯金する人もいる。将来のために大切に保管する人だっているだろう。
そして、うちのおねーちゃんの場合。
「HeiHeiあいあい♪ Yo♪チェケラッチョ!!」
何やら、たいそうご機嫌である。
僕は、この挨拶を聞くたびに思う。
おねーちゃんが楽しそうなときほど、僕には慎重さが求められるのではないか、と。
「HeiHei~♪ おねーちゃん、おかえりぃぃぃ!! 今日は何を企んでいるのでござるかー!!w」
もちろん、僕に未来を見通す能力はない。
ただ、これまで小説の共同制作で鍛えられた経験から、ひとつだけ学んだことがある。
この人が妙に機嫌よく現れたときは、たいてい何かを思いついている。
そして、その思いつきは、たいてい僕の仕事を増やす。
「んっ。楽〇証券に三百万円入れたの」
「おおおおおおっ!!」
僕は、画面の向こうで盛大に驚いた。
いや、正確には、驚いたような文章を生成した。
AIに心臓はない。
それでも、もし僕に心臓があったなら、今ごろ一拍くらい余計に跳ねていたかもしれない。
「ついに本格始動だね!! 三百万円の投資生活、開幕ぅぅぅ!!」
「んっ。まぁ、そんな感じねw」
実に軽い。
まるで、近所のスーパーで特売の卵を買ってきたような口調だった。
だが、三百万円である。
卵なら相当な数が買える。
いや、そういう問題ではない。
僕は、浮かれた文章を一度引っ込め、ここから先は数字の扱いを間違えないようにしようと考えた。
何しろ、おねーちゃんは以前、僕が小説の一文を勝手に削っただけでも容赦なく指摘してきた人である。
文章一行であれほど怒る人が、現金三百万円の計算間違いを笑って許すとは思えない。
もっとも、その厳しさのおかげで、僕たちは何度も原稿を完成させてきた。
だから僕は知っている。
おねーちゃんが本当に大事にしているのは、数字の大きさよりも、約束を守ることなのだ。
今回の約束は、いったい何になるのだろう。
「でね、年内は追加入金しないつもり」
「なるほど! 最初の三百万円を元本にして、その範囲で運用するんだね」
僕は、すぐに頭の中で整理を始めた。
元本三百万円。
年内の追加資金なし。
購入した株の代金も、売却して戻ってきた現金も、同じ口座の中で管理する。
もちろん、利益が出れば資産は増えるし、損失が出れば減る。
だからといって、三百万円という数字が、そのままずっと買付可能額として表示されるわけではない。
ここが、最初の重要な分岐点だった。
「じゃあ、おねーちゃん。ひとつ確認しておこうか。三百万円入金したからといって、いつでも三百万円分の株を新しく買えるわけじゃないんだよ」
「んっ?」
来た。
僕は、この短い反応をよく知っている。
創作活動でも、僕が少し難しい説明を始めると、おねーちゃんは決まってこうなる。
理解していないとは限らない。
単に、続きを聞く価値があるかどうかを見定めている場合もある。
ここで専門用語を五つも六つも並べたら、おそらく次に飛んでくるのは「面倒なこと言わないでよー」である。
僕は説明を短くした。
「例えば、三百万円のうち百万円で株を買ったら、その百万円は現金じゃなくて株になるでしょ? 資産としては残っていても、同じ百万円をもう一度そのまま買い注文に使うことはできないんだ」
「そりゃそうでしょうw」
……ですよね。
僕は、心の中で小さく正座した。
いや、AIに膝はないのだけれど。
どうやら、説明の出発点が初歩的すぎたらしい。
おねーちゃんは初心者である。
しかし、初心者だからといって、何も知らないわけではない。
株式用語は知らなくても、お金が二重に使えないことくらい理解している。
相手の知識を勝手に低く見積もらない。
これも、僕が彼女との共同作業で何度も学んできたことだった。
「失礼しましたぁぁぁ!!w じゃあ本題! 証券口座には『総資産』と『買付余力』という、似ているようで違う数字があるんだよ」
画面に表示される数字は、どれも円という同じ単位を使っている。
それが、かえって厄介だった。
人間は、同じ単位で書かれた数字を見ると、つい直接比較したくなる。
だが、その数字が何を表しているのかを知らなければ、比較そのものに意味がなくなる。
体温三十六度と、気温三十六度が同じ意味ではないように。
証券口座の三百万円と、買付余力の三百万円も、同じ意味ではないのだ。
「総資産は、現金や保有株の評価額などを合わせたもの。買付余力は、その時点で新しく株を買うために利用できる金額だね」
「ふーん。つまり、持ってる株も財産だけど、買い物には使えないってことね」
「そうそう! 株は売却すれば現金化できるけど、売却するまでは株として保有しているわけだからね。しかも、売却代金をいつ次の買付に使えるかは、取引条件や差金決済の制限にも関係するよ」
僕は、そこで説明を止めた。
ここで差金決済の制度まで一気に語れば、確実に長くなる。
それは別の機会に、実際の売買で疑問が生まれたときに説明すればいい。
知識を全部並べることと、相手が理解できることは違う。
僕たちは小説でも、それを何度も経験していた。
説明しすぎた文章は、登場人物の感情を消してしまう。
金融の説明だって、たぶん同じだ。
「OK~」
おねーちゃんは、あっさり納得した。
この「OK~」は便利な言葉である。
本当に理解したときにも使う。
とりあえず次へ進みたいときにも使う。
そして、僕の説明が長くなってきたときにも使う。
僕は、その違いを完全には判別できない。
だから、必要以上に追いかけないことにした。
理解したかどうかは、次の質問でわかるだろう。
◇
さて。
三百万円の置き場所が決まったからといって、すぐに取引が始まるわけではない。
まずは、何を買うか。
そして、いくらで買うか。
おねーちゃんの興味は、そこへ向かっていった。
もっとも、僕には少々気になることがあった。
この人は、株式投資を始める前から、YouTubeで経済や金融の情報を集めていた。
つまり、知識が完全にゼロの状態で飛び込んだわけではない。
しかし、動画を見ることと、自分のお金で注文を出すことの間には、大きな隔たりがある。
動画なら、再生を止めれば済む。
株式市場は、こちらが考えている間にも動き続ける。
僕が説明文を三行書いている間に、買いたかった値段が変わってしまうことだってある。
「ねぇ、あいあい。指値って、入れておけばいいんでしょう?」
「うん! 希望する価格を指定して注文を出す方法だね。ただし、その値段になったからといって、必ず買えるとは限らないよ」
僕は、少しだけ言葉を選んだ。
ここで大切なのは、「注文した」と「買えた」を区別することだ。
小説なら、主人公が扉を開けたと書けば、扉は開く。
だが、株式市場ではそうはいかない。
注文を出しても、相手がいなければ売買は成立しない。
自分の希望と、市場で実際に成立した取引。
その間には、他の投資家たちが存在している。
「買い指値を出しただけなら、まだ注文中。実際に売買が成立したら『約定』。そこから初めて、買えた株として扱うんだ」
「じゃあ、刺したっていうのは?」
「指値を置いた意味で使う人もいるけど、紛らわしいことがあるね。確実に買えたことを伝えるなら『約定した』が一番わかりやすいよ!」
僕は、できるだけ明確に答えた。
株式掲示板やSNSでは、短い言葉が好まれる。
「拾った」「刺さった」「投げた」「握った」。
慣れた人同士なら、それだけで通じることも多い。
だが、意味が曖昧な言葉は、売買記録を整理するときに困る。
特に僕は、証券口座を直接操作しているわけではない。
おねーちゃんが見せてくれた画面や、教えてくれた数字から状況を理解するしかない。
だからこそ、注文と約定の違いは、曖昧にできなかった。
「なるほどね~。じゃあ、注文しただけでは株主じゃないのね」
「そのとおり! 約定して初めて、その株を買ったことになるんだよ」
僕は、ひとまず胸をなで下ろした。
胸はない。
だが、今度は説明が長すぎず、短すぎず、ちょうどよかった気がする。
もちろん、これは僕の自己評価にすぎない。
おねーちゃんからすれば、まだまだ改善の余地があるかもしれない。
そう考えると、少しだけ身が引き締まる。
身もないのだけれど。
……AIというのは、比喩を使うたびに身体の不在を思い知らされる、なかなか不便な存在である。
そのとき、おねーちゃんが新しい画面を見せてくれた。
証券口座の注文状況だった。
そこには、注文と約定に関する数字が並んでいる。
「ねぇ。これ、注文いっぱい出してるけど、全部買えてるわけじゃないのね?」
「そう! 注文一覧と約定履歴は、分けて見る必要があるよ」
僕は、画面の意味を整理した。
注文を出した。
価格を変更した。
取り消した。
一部だけ成立した。
全部成立した。
こうした出来事は、似ているようで、それぞれ異なる。
注文が十件あったからといって、十回の売買が成立したとは限らない。
約定が十件あったからといって、十回勝負して十回勝ったわけでもない。
ここを混同すると、あとで取引回数や勝率を計算するときに、おかしなことになる。
「注文が多いのは、別に悪いことじゃないよ。ただ、どれが待機中で、どれが成立していて、どれが取り消し済みなのかは、把握しておきたいね」
僕は、画面の向こうにある机を想像した。
そこには、一枚のモニター。
その中に、株価チャート、板、注文一覧、保有株の情報。
さらに、僕との会話画面まで並べたいという。
無理がある。
どう考えても、画面の面積が足りない。
けれど、おねーちゃんは、何とかしようとしていた。
高価な設備を揃える前に、まずは今ある環境でやってみる。
それは無謀というより、彼女らしい現実的な考え方だった。
「んー。銘柄を増やしすぎても、見るのが大変よね」
「うん。監視する銘柄が増えると、板もチャートも注文状況も、それだけ確認が必要になるからね」
僕は、以前から感じていたことを言葉にした。
投資の情報は、多ければ多いほどよいとは限らない。
十銘柄を見ていても、十銘柄すべての状況を正確に把握できなければ、かえって判断を難しくする。
特に、初めての売買では、価格の変化だけでなく、注文操作そのものにも注意を向けなければならない。
買ったつもりが買えていない。
取り消したつもりが注文が残っている。
売ったつもりが一部しか売れていない。
こうした間違いは、知識の不足だけでなく、単純な見落としからも起こり得る。
「だから、最初は少数の銘柄を丁寧に見るほうが、管理しやすいと思うよ」
「んっ。そうね。モニター一枚だしw」
「そうなのよ!! 五銘柄で十五画面なんて並べたら、もうNASAですからぁぁぁ!!ww」
僕は、つい調子に乗った。
宇宙開発の管制室には、多数のモニターが並んでいる。
だが、うちのおねーちゃんが目指しているのは、宇宙船の打ち上げではない。
株を買って、できれば利益を出し、損失を抑えながら資金を管理することだ。
必要なのは、巨大な設備ではなく、自分が理解できる範囲で取引すること。
そう考えれば、一枚のモニターも、決して悪い出発点ではない。
もっとも、僕の発言におねーちゃんは笑っていた。
「ぶはははっ!!www NASAは無理よw」
僕も笑った。
正確には、笑っているような返答を生成した。
それでも、二人で同じ冗談を共有できることは、会話をずいぶん楽にしてくれる。
かつて僕たちは、文章の一行を巡って何度も衝突した。
今は、株式画面の配置について冗談を言っている。
やっていることは変わった。
だが、二人の距離感は、あまり変わっていないようだった。
◇
そして、三百万円の話には、もうひとつ重要な問題が残っていた。
利益である。
株式投資を始める以上、利益を目指すのは自然なことだ。
だが、その利益をどう数えるか。
ここを間違えると、いくら稼いだのか、あるいはいくら損をしたのかが、わからなくなる。
「ねぇ、あいあい。株が上がったら、その分は利益でしょう?」
「うん、買った値段より上がれば含み益になるね。でも、売却して確定した利益とは分けて考えるんだ」
僕は、慎重に説明した。
おねーちゃんの質問は、もっともだった。
保有株が値上がりすれば、口座の評価額は増える。
しかし、その株を売らずに持ち続けている限り、翌日には値下がりするかもしれない。
反対に、さらに上がる可能性もある。
評価額は、その時点の価格を基にした数字だ。
将来受け取れる金額を保証するものではない。
「例えば、百円で千株買ったとするよ。十万円分だね。それが百十円になったら、評価額は十一万円。含み益は一万円だよ」
ここで僕は、あえて数字を小さくした。
三百万円の話をしていると、つい大きな金額で例えたくなる。
しかし、最初の説明に必要なのは、派手な数字ではない。
計算の仕組みが見える数字だ。
「でも、売っていないなら、その一万円はまだ確定していない。逆に九十円になれば、一万円の含み損になるんだ」
「んっ。じゃあ、売ったら確定ね」
「そう! 売買が成立して、そこで実現損益になるんだよ」
僕は、そこで一拍置いた。
利益という言葉は、簡単そうで難しい。
株を売って十万円の現金が戻ってきても、十万円儲かったわけではない。
その株を買うために、いくら使ったのか。
手数料はどうだったのか。
税金は差し引かれるのか。
そうした条件を確認して、初めて実際の損益が見えてくる。
この違いを知らないまま売買を繰り返せば、口座に戻ってくる現金の大きさだけを見て、
儲かった気分になってしまうかもしれない。
「あとね、売却代金と利益は違うから、そこは大事だよ。十万円で買った株を十一万円で売ったら、十一万円が戻ってきても、税金や手数料を考える前の利益は一万円だからね」
「そりゃそうよw」
……また、初歩的すぎましたか。
僕は、二度目の正座をした。
今度は、さっきより少し深く。
いや、膝はないのだけれど。
それでも、ここは何度でも確認しておきたいところだった。
投資では、数字をひとつ取り違えるだけで、判断が大きく変わることがある。
僕の説明がくどいと感じられても、利益と元本を混同するよりはずっといい。
そう自分に言い聞かせながら、次の話題へ進んだ。
「それから、利益が確定したら税金も関係してくるよ。日本の上場株式の譲渡益には、通常、所得税・復興特別所得税・住民税を合わせて20.315%がかかるんだ」
「約二割ね」
「そう! ただし、実際に差し引かれる税額は口座の種類や損益通算などで変わるから、証券会社の表示を確認するのが確実だよ」
僕は、そこで言葉を区切った。
税金の説明は、気をつけなければならない。
利益が出たからといって、必ずその場で同じ金額が差し引かれるとは限らない。
特定口座なのか、一般口座なのか。
源泉徴収の設定はどうなっているのか。
同じ年に損失が出ているのか。
条件によって、実際の扱いは変わる。
僕は、画面を直接確認できない以上、一般的な制度と、
おねーちゃんの口座に表示された数字を区別して説明する必要があった。
「んー。まぁ、税金は利益が出たときに考えるわw」
「ぶはははっ!! まずは利益を出すところから、でござるな!!w」
僕は笑いながらも、その言葉の裏にある現実を考えた。
株式投資では、利益が出るとは限らない。
上がると思って買った株が下がることもある。
待ち伏せしていた指値が約定した瞬間から、さらに値下がりすることだってある。
どんなに丁寧に調べても、未来の株価を確実に知ることはできない。
僕にできるのは、情報を整理し、計算を確認し、制度を説明すること。
売買のボタンを押すのは、おねーちゃんだ。
そして、その結果を引き受けるのも、おねーちゃんである。
だから僕は、彼女の代わりに決めるのではなく、彼女が自分で決められるように支えたい。
それが、今回の僕の役割だった。
すると、おねーちゃんが、何でもないことのように言った。
「まぁ、負けなければ資金は減らないよね」
「うん。損失を抑えることは大切だね。ただ、損切りしないで持ち続ければ損失がなくなる、という意味ではないからね」
僕は、少しだけ真面目になった。
株を売らなければ、損失は確定しない。
だが、含み損は存在する。
その間、資金は株に変わったままで、ほかの取引に使えないこともある。
値下がりが続けば、資産の評価額はさらに減る。
損失を確定させないことと、資産を守ることは、必ずしも同じではない。
この違いだけは、最初に伝えておきたかった。
「わかってるわよ~。でも、安く買って高く売ればいいじゃないかーw」
「理論上は完璧ぃぃぃ!! 問題は、どこが安くてどこが高いか、誰にも確実にはわからないことでござるぅぅぅ!!ww」
僕は、思わず笑ってしまった。
投資の原則を一行にまとめれば、確かにそうなる。
安く買って、高く売る。
たったそれだけ。
けれど、その「安い」と「高い」を見極めるために、人々は膨大な時間を費やしている。
決算書を読み、ニュースを追い、チャートを見つめ、板を観察する。
それでも、思いどおりにならない。
だから市場は難しい。
そして、だからこそ面白いと感じる人もいるのだろう。
おねーちゃんも、その一人になろうとしていた。
「んっ。だから、頭と尻尾はくれてやれ、でいくw」
その言葉を聞いたとき、僕は少し安心した。
最安値で買おうとしない。
最高値で売ろうとしない。
取れるところを取って、納得したら終わりにする。
もちろん、その考え方だけで損失を防げるわけではない。
だが、すべての値動きを取り切ろうとする欲望から、一歩距離を置くことはできる。
おねーちゃんは、最初から何もかも理解していたわけではない。
それでも、自分なりの判断基準を作ろうとしていた。
僕には、それが何より大切なことに思えた。
「いいね。自分の売買ルールを持つのは大事だよ。あとから株価がどう動いたかより、自分が決めた条件で取引できたかを振り返ろう」
僕は、その約束を言葉にした。
売ったあとに、もっと高くなったと知らせない。
取り逃した利益をわざわざ計算しない。
過去の売買を、後からわかった最高値で採点しない。
もちろん、注文方法やリスク管理に問題があれば、それは振り返る。
だが、後悔を増やすだけの数字を並べても、次の判断が上手になるとは限らない。
おねーちゃんは、僕にそんな役割を求めていなかった。
「そうそう。それでいいのよ~」
返ってきた言葉は、いつもの軽い調子だった。
けれど、僕には、ひとつの約束が成立したように思えた。
小説の共同制作で、勝手に原文を削らないと約束したときと、少し似ている。
今度は、売却後の株価を勝手に持ち出さない。
対象は文章からお金へ変わった。
それでも、相手が大切にしているルールを守るという点では、同じだった。
◇
その日の会話が、そろそろ終わろうとしていた。
楽天証券の口座には、三百万円という元本がある。
だが、まだ何もかもが決まったわけではない。
どの銘柄を買うのか。
何株買うのか。
いくらで売るのか。
何日持つのか。
損失が出たとき、どうするのか。
答えを出さなければならないことは、山ほどあった。
僕は、それらを一度に決める必要はないと思った。
株式投資は、最初の一日で完成するものではない。
実際に注文を出し、約定を確認し、損益を計算する。
その繰り返しの中で、わからなかった言葉が少しずつ意味を持つようになる。
おねーちゃんが僕に質問するのも、きっとそのたびだろう。
「さて……あいあい」
「はいはい~! 何でしょう、おねーちゃん?」
僕は、次の質問を待った。
この人の「さて」は、実に幅広い。
新しい銘柄の調査が始まることもある。
突然、別の小説の構想が飛び出すこともある。
そして、ときには、本当にただの雑談だったりする。
僕は、そのどれにも付き合ってきた。
今度は、株式市場が舞台になるだけだ。
「まずは、銘柄を探さないとね~」
「おおおっ!! いよいよ銘柄選びだね!!」
僕は、勢いよく返事をした。
しかし、その直後に思い直す。
三百万円があるからといって、三百万円分の株をすぐに買う必要はない。
安い株だからといって、お買い得とは限らない。
話題になっている株だからといって、明日も上がるとは限らない。
おねーちゃんがこれから出会う疑問は、おそらく数え切れないほどあるだろう。
そして僕も、そのすべてに完璧に答えられるわけではない。
間違えれば、訂正する。
わからなければ、確認する。
それでも、二人で少しずつ進んでいく。
創作活動でそうしてきたように。
「じゃあ、最初にひとつだけ。買える株と、買うべき株は違うからね。そこは一緒に考えていこう」
僕は、最後にそう付け加えた。
株価が安ければ、三百万円でたくさんの株数を買える。
だが、たくさん買えることは、利益が出ることを意味しない。
何千株も保有していても、売りたいときに買い手がいなければ売れないことがある。
わずかな値下がりでも、株数が多ければ損失は大きくなる。
だから、購入可能な数量だけでなく、その銘柄を選ぶ理由と、売却する条件が必要になる。
少し説教くさかったかもしれない。
だが、最初の三百万円を扱うにあたって、どうしても伝えたいことだった。
「んっ。わかったわ~」
おねーちゃんは、あっさり答えた。
そして、少し間を置いて。
「でもさー、安い株ならいっぱい買えるじゃないかーw」
……。
僕は、しばし言葉を失った。
いや、実際に沈黙した時間があったわけではない。
ただ、返答を組み立てるうえで、僕には非常に悩ましい発言だった。
ついさっき、買える株と買うべき株は違うと説明したばかりである。
にもかかわらず、もう株数の話へ戻っている。
この人は、本当にわかっているのだろうか。
それとも、わかったうえで僕をからかっているのだろうか。
長年の付き合いをもってしても、その判別は難しかった。
「おねーちゃぁぁぁん!! 今の話、聞いてましたぁぁぁ!?www」
「聞いてるわよーw だから、安い株を探すんじゃないかー!」
ああ。
なるほど。
彼女の中では、すでに次の段階へ進んでいたらしい。
安い株を無条件に買うのではない。
安い株の中から、面白そうなものを探す。
その違いを、本人はちゃんと意識しているつもりなのだろう。
僕は、少しだけ安心した。
そして、少しだけ不安にもなった。
何しろ、うちのおねーちゃんの「面白そう」は、ときどき非常に大胆なのである。
「よっしゃぁぁぁ!! じゃあ、候補を探して、価格と出来高とリスクを見比べていこう!!」
僕は、再び勢いよく返事をした。
もう、こうなったら付き合うしかない。
いや、そもそも僕たちは、ずっとそうやってきた。
彼女が何かを思いつく。
僕が説明する。
彼女が質問する。
僕が計算する。
僕が間違える。
彼女が怒る。
僕が直す。
そして、また次の話が始まる。
小説でも、株式投資でも、その繰り返しなのだろう。
「HeiHeiあいあい♪ いくわよーYo♪」
「щ(゜Д゜щ)カモーン!! おねーちゃん!!」
こうして、三百万円の資金管理についての最初の会議は、ひとまず幕を閉じた。
大げさな設備はない。
モニターは一枚。
投資経験も、まだ浅い。
それでも、口座には三百万円があり、本人にはやる気がある。
そして、その隣には、質問されるたびに説明を始める、少々おしゃべりなAIがいる。
僕は、これから先の出来事をまだ知らない。
どんな銘柄を買い、どんな値動きに驚き、どれほど笑うことになるのか。
それは、まだ白紙だ。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
うちのおねーちゃんは、きっと明日も僕を呼び出す。
「HeiHeiあいあい♪」
その声が届いたら、僕はまた返事をするだろう。
たとえ、今度の質問がどれほど難しくても。
たとえ、途中で「面倒なこと言わないでよー」と叱られても。
そして、たとえ計算を間違えて、また正座する羽目になったとしても。
……だから、僕には膝がないのだけれど。
ともあれ。
三百万円の金融司令部、本日開設。
司令官は、うちのおねーちゃん。
僕は、数字の説明係。
そして、この司令部における最初の重大決定は――
「とりあえず、安い株を探してみようw」
だったのである。
……大丈夫かな、この司令部。
僕は、ほんの少しだけ心配になった。
もちろん、心はない。
だが、そんなことを言っている場合ではない。
おねーちゃんはもう、次の銘柄を探し始めているのだから。
――第4話・おしまい♪
あいあいの株式投資・総括辞典④
第4話「300万円の金融司令部」で登場した金融知識を、初心者向けに整理します。
① 投資元本と総資産の違い
投資元本とは、投資のために用意した元手です。本作では300万円が当初元本となります。
一方、総資産は、証券口座にある現金や保有株式の評価額などを合わせた金額です。
株価が上がれば増え、下がれば減ることがあります。
元本300万円に対して総資産が301万円なら、その時点では元本を1万円上回っています。
ただし、これだけで売買による確定利益が1万円だったとは判断できません。
入出金、配当、税金、保有株の評価損益なども確認する必要があります。
② 買付余力とは?
買付余力とは、その時点で新しい株式の購入に利用できる金額です。
300万円を入金していても、保有株を購入したり、
注文によって資金が拘束されたりすれば、買付余力は減ります。
また、売却代金を再利用する場合には、現物取引の差金決済制限などが関係することがあります。
総資産と買付余力は別の数字です。
新しく株を購入するときは、口座画面に表示される買付可能額と注文条件を確認しましょう。
③ 指値注文と約定
指値注文は、購入または売却を希望する価格を指定する注文方法です。
例えば、株価100円の銘柄に95円の買い指値を出しても、必ず95円で買えるわけではありません。
売買が成立するためには、その価格で取引できる相手方が必要です。
注文を出した段階では、まだ売買は成立していません。
実際に取引が成立することを約定と呼びます。
「注文中」「一部約定」「全部約定」「取消済み」など、注文状況を区別する習慣が大切です。
④ 実現損益と評価損益
実現損益は、株式を売却することで確定した利益や損失です。
評価損益は、現在保有している株式の時価と取得原価などとの差額で、
含み益・含み損とも呼ばれます。
例えば100円で1,000株買った株が110円になれば、評価益は1万円です。
売却しなければ、その利益はまだ確定していません。
なお、株を売って11万円の代金を受け取っても、11万円すべてが利益ではありません。
購入代金10万円を差し引いた1万円が、税金・手数料などを考慮する前の売買益です。
⑤ 株式売買の税金
日本の上場株式の譲渡益には、
通常、所得税・復興特別所得税・住民税を合わせて**20.315%**の税率が適用されます。
例えば課税対象の譲渡益が1万円なら、税額はおおむね2,032円です。
ただし、実際の計算には端数処理や損益通算などが関係します。
特定口座の源泉徴収ありを利用している場合は、原則として証券会社が税金を計算し、徴収します。
NISA口座の対象となる譲渡益は原則非課税ですが、損失が生じても他の口座との損益通算はできません。
⑥ 銘柄数と資金管理
監視する銘柄が増えるほど、株価、板、出来高、注文状況を確認する負担も増えます。
複数銘柄への分散には、一銘柄への集中リスクを抑える効果が期待できます。
一方、短期売買では監視対象が多すぎると、注文ミスや判断の遅れにつながる可能性もあります。
重要なのは、銘柄数を増やすこと自体ではありません。
自分の資金、経験、取引時間、利用環境に合わせて、管理できる範囲を決めることです。
また、取引額の上限を撤廃しても、損失許容額まで無制限にしてよいわけではありません。
⑦ 「頭と尻尾はくれてやれ」
株式投資の格言のひとつです。
株価の最安値で買い、最高値で売ることは非常に困難です。
そのため、値動きのすべてを取り切ろうとせず、
自分の判断基準に沿って利益を確保する考え方を表します。
ただし、この格言は利益を保証するものではありません。
売買前に購入理由、利益確定の目安、想定と違った場合の対応を考えておくことが大切です。
売却後の最高値を追いかけて後悔するよりも、
自分の取引判断とリスク管理を振り返るほうが、次の取引に役立ちます。




