第9話 凛の決意と手紙
十一月三日。
机の上に便箋がある。白い、罫線の入った便箋。買ったのは三日前で文房具店のレターセットの棚の前で十五分も立ち尽くした。封筒の色で迷ったのではなく、便箋を買うという行為そのものに足が竦んでいた。
手紙を書く。彩音に。
そう決めたのは十月の終わりだった。彩音と付き合って一周年が近い。十一月中旬の木曜日、去年の文化祭の後に彩音が「付き合って」と言った後、凛が「⋯⋯うん」としか答えられなかった日。
あのとき本当は、もっと何か言いたかった。嬉しいとか、ありがとうとか、私も好きでしたとか。何も言えなかった。言葉が出てこなかった。いつも、そうだ。
だから手紙にする。声にできないなら文字にする。一年分のぜんぶを。
——それが、最後のチャンスだから。
ペンを握って⋯⋯書き出しから詰まった。「彩音へ」の三文字を書いて、その先が続かない。何から書けばいい。一年間ありがとう? 好きです? どちらも本当のことだ。本当のことなのに、ペン先が紙の上で止まる。安直すぎるかもしれない、もっと他の言い回しがあるんじゃないかとか余計なことが浮かんでくる。
悩んでから、ありがとう、と書いた。
一年間ありがとう。
その先。何を。
凛は便箋を見つめた。自分の字は角張っていて丸みがない。彩音の字は柔らかくて可愛い。凛の字を見て彩音がどう思うだろう。読みにくいと思うかもしれない。硬いと思うかもしれない。——そんなことを考えては、手が止まる。
書く。消す。消すというか、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に投げる。新しい便箋を出して書く。二行目で止まる。違う、これじゃない。言いたいことはもっと別の——でも「別の」が何なのかがわからない。頭の中にあるのは形のない塊で、それを文字に変換する回路が凛には欠けていた。
写真なら撮れる。ファインダーの中に感情を閉じ込めることはできる。光の角度で寂しさを、影の深さで不安を、逆光のシルエットで祈りを。言葉を使わずに「自分」を伝える方法を、凛は写真でしか持っていない。
でも手紙には、言葉が必要だ。
十一月四日。二日目。
机の上の便箋の束が厚くなっていく。丸めた紙がゴミ箱から溢れている。凛はそれを見て、少しだけ自嘲の笑みをこぼした。不器用の証拠が物理的に積み上がっていくのは、どうにも自分らしくて嫌になる。
書き直す。
「彩音と一年を過ごせて幸せでした。」
——これは本当だ。少なくとも、半分は。幸せだった時間は確かにある。文化祭で屋台の焼きそばを二人で分けて食べた。初めてのデートで行ったカフェ「Koti」で、彩音が「ここ可愛いね」と笑った。彩音の手を初めて繋いだときの温かさ。
——温かかった?
記憶を辿って彩音の手の温度を思い出そうとして、代わりに浮かんだのは別の温度だった。
ブランケットと瀬名の温もり。
あれは夕方、瀬名のアパートのソファーでうたたねしてしまったとき。寝るつもりなんてなかったけれど、ここ最近はどこか張り詰めていて眠れない日が続いていた。
でも瀬名の家ではリラックス出来て、瀬名と他愛もない会話をするだけで心が休まるようだった。
そうして完全に眠りに落ちる前の、浅い意識の底で——立ち上がる気配があった。足音が遠ざかってすぐに戻ってくる。薄くて柔らかいものが肩にかかって首元まで丁寧に引き上げられると隙間を塞ぐように端が整えられた。
その一瞬だけ、指先が肩に触れた。
目を開けることはなかった。開けたら、この時間が終わってしまう気がした。
瀬名は何も言わなかった。シャッターの音もしなかった。いつもなら「記録用ね」と笑って撮るのに。あの日はなぜか撮らなかった。代わりにブランケットをかけてくれた。
——「かっこいい凛も好きだけど、こういう凛も最高に可愛い」。
瀬名の声が頭の中で鳴る。古着屋の試着室の前。鏡の前に立たされて、逃げ場がなくて、耳まで熱くて。あの声は——落ち着いていて、甘くて。
凛は、はっとしてペンを握り直した。あわてて便箋に目を戻す。
何を考えているのだろうか、自分は彩音への手紙を書いているはずなのに瀬名をことを思い浮かべるなんて。頭を振ったが声は鳴り響いたままだった。
十一月五日。三日目。
カフェ「Koti」に電話をかけた。一周年の日の十八時に二人分の予約を取る。電話口の店員に「窓際の席をお願いします」と言った。初めてのデートで座った席。彩音が天上から差す光の中でアイスラテを飲んでいた席。あのとき凛は彩音の横顔を見て綺麗だな、と思った。思っただけで言えなかったが。
他にも言えなかったことは、たくさんある。
いつも綺麗だね。好きだよ。一緒にいてくれてありがとう。今日の服、似合ってる。声が好き。笑った顔が好き。隣にいるだけで幸せ。
思っていて、どれも言えなかった。言おうとすると喉が塞がる。言葉が形になる前に溶けてしまう。だから代わりにごはんを作った。荷物を持った。寒い日には上着を渡した。それが凛の「好き」の伝え方だった。
足りなかったのは、わかっている。
彩音が言葉をほしがっているんだと頭では分かっていた。でもそれを彩音から聞いたことはなかった。「私のこと好き?」とも「もっと好きって言ってよ」とも言われたことはない。
だから凛も聞けなかった。「何か足りない?」と「どうしたら彩音は嬉しい?」と。聞くのが怖かった。もしその答えが「凛じゃ無理」だったら。
聞くのが怖い。確かめるのが怖い。知ってしまうのが怖い。
——ずっと、怖がってばかりだ。
十一月六日。四日目。
便箋に向かい昨日書いた分を読み返す。悪くない——と思いかけて三行目で手が止まった。
「もっとちゃんと向き合いたい」
この一文を書いたとき頭の中にあったのは彩音の顔だったか。それとも。
振り払う。ペンを握る。
この手紙は彩音に渡すものだ。一周年の日に「Koti」の窓際の席で。あの日と同じ場所で言えなかったことを文字にして渡す。彩音がそれを読んでくれたら、彩音がちゃんと向き合ってくれたら、きっとやり直せる。
浮気のことだって水に流そう、いや、彩音が言いたくないなら聞かない。ただもう一度、自分たちの関係をやり直せればいい。
十一月七日。五日目。
手紙が完成した。
便箋一枚に不器用な文字が並んでいる。
「一年間ありがとう。彩音と一年を過ごせて幸せでした。私は言葉が下手だけど、気持ちは本当です。だけど、これまで彩音が何を考えてるのか、望んでいるのか、ちゃんと聞けてなかったと思う。もっとちゃんと向き合いたい。これからも彩音と一緒にいたい。だから——話をしよう。」
浮気のことは正直、書く勇気が最後まで出なかった。でもそれで良かったと思う。書いたらこの手紙は問い詰める手紙になる。凛が渡したいのは怒りではなく願いだった。こうあってほしいという願い。
「向き合いたい」「話をしよう」凛にとって、これが精一杯だった。
封筒に入れる。まだ何度も読み返すかもしれないから封はせずに机の引き出しの一番上にしまう。
ベッドに横になって天井を眺めた。
——窓際の席に座って、向かいに彩音がいて、一年前と同じ光が差していて、そこで手紙を渡そう。読んでもらおう。そのあとで、ちゃんと話そう。怖いけど。声が震えると思うけど。
そこで全部賭ける。彩音との一年間に。
だから——瀬名への気持ちには蓋をする。
瀬名。
名前を思い浮かべただけで胸の奥が痛んだ。痛いのに温かい。温かいから痛い。
瀬名が自分に向ける目、声、手の温度が鮮明に蘇る。
「都合のいい女でいい」と言ったときに声が震えていたこと。「笑った」「笑ってない」のやりとり。暗室の赤い光。夏祭りの帰り道。波打ち際で掴んだ手。月明かりの下の囁き。繋がった手と手。ブランケットの重さ。
——どうしても瀬名の顔を消すことは出来なかった。
凛は寝返りを打って壁を向いた。目を閉じる。
今は、まだ。
今はまだ彩音の番だ。彩音が先だ。順番を間違えてはいけない。一年間一緒にいてくれた人に、まず向き合う。それが凛のやり方だ。不器用で、遅くて、たぶん正解ではないかもしれないけれど。
引き出しの中で、手紙が眠っている。




