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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第8話 桐谷彩音という女

 桐谷彩音の九月は、甘い匂いがした。


 シーツの柔軟剤とシャワー後のボディクリームと、ベッドサイドに置きっぱなしのバニラのキャンドル。真由子の部屋はいつもこの三つが混ざった匂いがしていて、彩音はそれが嫌いではなかった。自分の部屋とも凛の部屋とも違う匂い。ここに来ると日常のチャンネルが切り替わる感じがする。


「——ん、もう。髪、引っ張んないでって言ってるじゃん」


 声が甘く弛んでいるのが自分でもわかる。凛の前ではこんな声を出さないし出せない。凛の前では「桐谷彩音」という完成された自分でいなければならないが、この部屋ではその輪郭がとろけてもいい。


 セフレ——真由子は社会人三年目のアパレル店員で、彩音より四つ年上で、押しが強くて、彩音の扱い方を熟知している。彩音が何を言われたら蕩けるか、どこに触れたら声が裏返るか、どういう順番で崩せば彩音が全部を委ねるか。凛にはできないことを真由子は息をするようにやってのける。


「彩音ちゃんはほんっとに可愛いよね。声も、顔も、こういうとこも全部」


 耳元で囁かれると背中の力が全部抜ける。首筋に唇が触れて、鎖骨をなぞられて、彩音の口から抗議のつもりだった声がまるで違う音になって漏れた。


「やっ⋯⋯ん、まゆ⋯⋯」


「もう終わりって言ったのに、まだこんなに反応するじゃん」


「だって触るからっ⋯⋯あ——」


 真由子の手が腰を固定して身体を引き寄せる。彩音は自分からしがみついた。爪がシーツを掻く。甘噛みされた耳たぶが熱い。真由子の吐息がかかるたびに、思考が一枚ずつ剥がれ落ちていく。


「ね、好き。彩音ちゃんのこういう顔、好きだよ」


「⋯⋯好きって、簡単に言う」


「簡単だから言うの。好きな子に好きって言うのに理由いる?」


 彩音は笑った。単純に嬉しくて。言葉をもらうことは彩音にとって最も確実な充足で、真由子はそれを惜しまない。好き、可愛い、最高、もっと見せて。求められていると感じること。選ばれていると感じること。それが彩音の呼吸だった。


 求めたものが返ってくる。単純な回路だったが、それでいい。


 ——事後。


 ベッドに並んで仰向けに寝転がっている。彩音の頭は真由子の腕に乗っていて、真由子は片手で彩音の髪を梳きながら天井を見ている。エアコンの風がシーツの上を撫でていく。九月の夜は、まだ冷房が必要だ。


 スマホが鳴った。枕元に放り出してあった彩音のスマホ。ラインの通知音。


「バイトお疲れ様。今日の夕飯、何がいい?」


 凛からのメッセージ、彩音は片手でフリック入力した。


「なんでもいいよー」


 ポチッと送信。


 今日はもともと凛と彩音の部屋で過ごす日だった。でも昨日の夜、真由子から「明日空いてる?」と連絡が来た。真由子は社会人で他に相手もいるみたいだから会える日が不定期だ。


 凛とはいつでも会えるから今日じゃなくてもいい。凛には「バイトのシフト入っちゃった、ごめんね」と昼過ぎにラインして凛からは「わかった。気をつけて」と返ってきた。


「彼女?」


 真由子が横から覗き込んでいた。彩音は「うん、まあ」と答えた。真由子が小さく笑う。


「ご飯作ってくれるんだ。いい子じゃん」


「うん、いい子なんだよね」


 天井を見た。彩音の視界に、エアコンの風で揺れるカーテンの裾が映っている。


「⋯⋯いい子すぎて、面白みがないっていうか。ちょっと重いっていうか」


「重い? ヤンデレとか?」


「ううん、そういうんじゃなくて」


 彩音は真由子の肩に頬を押しつけた。言葉を探す。凛のことを説明するのは難しい。凛は口数が少ないから彩音にとってはどこか掴みにくい。


「なんかさ、いっつも黙ってるくせに行動が一途っていうか。ご飯作ってくれるとか、荷物持ってくれるとか、寒いと上着貸してくれるとか。嬉しいよ? 嬉しいんだけど、たまにもっと軽くしてくれたら楽なのにって思う」


「贅沢な悩みだね」


 真由子が笑った。彩音も笑った。


「かもね」


 そう言いながら頭の片隅で何かが引っかかった。贅沢。たぶんそうだ。凛みたいな子が自分のためにご飯を作って待ってくれるのは贅沢なことだ。それはわかっている。わかっているけれど、わかることと満たされることは違う。


 凛は好きだと言わない。言葉で確認したい彩音にとって凛の行動型の愛情は——届いているのに受信できない電波のようなもの。フォーマットが違うのだ。


 でもそれを凛に言ったことはなかった。「もっと好きって言ってほしい」たった一言。その一言を彩音は一度も口にしていない。わざわざこちらから言わなくても察してほしい。だって言わせるの、かっこ悪いじゃん——と彩音は思っている。


 そしてその不満を凛にぶつける代わりに、ここで満たす。真由子の「可愛い」「好き」で。


 凛からの返信が来る前にスマホの画面が暗くなった。「なんでもいいよー」で会話は終わった。凛が何を作っているかなんて考えない。


 *


 彩音のアパートのキッチンに、凛は立っていた。


 「なんでもいいよー」というメッセージを既読にしてスマホをエプロンのポケットにしまった後、フライパンには薄焼き卵が広がっていて、バターの匂いが狭いキッチンに充満する。換気扇がごうごうと音を立てていた。


 彩音の冷蔵庫の中には卵が四つ、鶏肉、玉ねぎが半分、ケチャップ、冷凍ご飯。この材料ならオムライス一択だった。彩音はオムライスが好きだから。去年の冬「子供の頃から好き」とぽつりと言ったのを凛は覚えている。


 チキンライスをフライパンに移して卵を被せる――上手くいった。今度はこぼれないように皿へと滑らせて完成。ケチャップで何か書こうとして、やめる。やめた手が一瞬だけ宙に留まって、それからケチャップのボトルを戻す。


 彩音のバイトが終わるのは十時頃のはずだから帰宅時間を逆算すると、ラップをかけてテーブルに置いておくのがいい。冷めたらレンジで温めてもらう。凛はメモ帳を探した。彩音のデスクの引き出しにあったはずの——あった。小さな付箋。


 「冷めたらレンジで」


 それだけ書いて、皿の横に貼った。


 もう少しいようかと思った。彩音が帰ってくるまで待って一緒に食べようかと。でもバイト上がりの彩音は疲れていることが多いし、凛がいると気を遣わせるかもしれない。彩音が「一人で食べたい」と思うこともあるだろう。


 ——そういう想像を凛はする。相手の負担になっていないか。自分がいることで相手の空間を圧迫していないか。


 エプロンを畳んでキッチンの壁のフックにかけた。使った調理器具は洗って、水切りラックに伏せてある。コンロの油はねも拭いたことを確認してゴミは持ち帰る。


 靴を履き玄関の鍵を閉めた。彩音の合鍵がポケットの中で小さな音を立てる。九月の夜気はもう夏の匂いがしない。



 *



 彩音が自分のアパートに帰ったのは、十一時を過ぎていた。


 真由子の部屋を出たのが十時半でコンビニに寄ってアイスを買って、それを食べながら歩いた。バニラ味――真由子の部屋の匂いに似ている、と思って少し笑った。


 玄関を開けると部屋の電気は消えている。凛は帰ったらしい。靴を脱ぎ、リビングの照明を点ける。


 テーブルの上には好物のオムライスがあった。


 白い皿にラップがかかっていて横に小さな付箋が貼ってある。「冷めたらレンジで」 凛の字は几帳面で、少しだけ右に傾いている。いつも同じ傾き。定規で測ったように均一な文字間隔。理系の子の字だ、と彩音は前に思ったことがある。


 オムライスは綺麗な楕円形をしていてケチャップはかかっていない。凛はいつもケチャップを別添えにする。彩音が自分でかけたい派だと知っているから。


 こういうところだ。凛のこういう言わなくても覚えている、というところ。


 レンジに入れて六百ワットで二分。ピーという音が鳴って取り出してラップを外すと卵の表面から湯気が立った。ケチャップをたくさんかけたあとスプーンで一口。


「⋯⋯うん、美味しい」


 おもわず声に出して言った。誰もいないリビングに、その言葉は小さく響いて、消えた。


 凛のオムライスはいつも美味しい。チキンライスの味付けがちょうどよくて、卵が柔らかくて、具材の切り方が丁寧で料理が上手い。たぶん練習したのだと思う。元から下手じゃなかったけど付き合い始めた頃より明らかに上達している。


 彩音のためにレシピを吟味して何度も作って、この味に辿り着いた。——そういうことを彩音は漠然と理解している。理解していたがその解像度は決して高くはなかった。


 「美味しい」の先に「これを作るために凛がどれだけの時間と手間をかけたか」「バイトだと嘘をついている自分のために凛が一人でキッチンに立っていたこと」までに思考が及ばない。


 スマホを取り出すしてラインを開く。凛とのトーク画面。最後のメッセージは自分の「なんでもいいよー」から既読で凛から返信はない。凛は大体そうだった。返事が不要なメッセージには返事をしない。


 「オムライス、美味しかったよ。ありがとう」と打とうとした——わけではない。その選択肢が彩音の頭に浮かんだかどうかも定かではなかったが、スマホをテーブルに置いてオムライスの続きを食べた。何気なくテレビを点けてバラエティ番組の笑い声で部屋を埋める。


 オムライスを食べ終えて皿を流しに置く。凛がいたら洗ってくれるけど今日はいない。凛がいないと彩音の洗い物は翌日に持ち越される。


 シャワーを浴びてベッドに入ると真由子からラインが来ていた。「今日も可愛かったよ」にハートの絵文字が三つ。彩音は「えへへ、ありがと」とスタンプ付きで返した。


 凛には何も送らなかった。


 眠る前に一つだけ考えた。真由子との関係について凛には一応、悪いとは思っている。思ってはいるのだ。でも真由子とは別に本気じゃない。それは向こうも同じだし抱かれるだけだし、恋愛感情があるわけじゃない。身体の相性がいい相手とたまに会って満たされて帰ってくる。


 それを凛が知らなければ傷つけていないのと同じこと。凛は何も聞いてこないし問い詰めもしない。つまり、大丈夫。——バイトと言えば信じてくれる、帰りが遅くても「おかえり」と言ってくれる。凛はそういう子だ。


 彩音は目を閉じた。


 付箋の「冷めたらレンジで」は、テーブルの上に貼られたまま朝まで残っていたが翌日、彩音がテーブルを拭くときに一緒に捨てられた。



 *



 十月のある日。彩音のスマホのアルバムには真由子との写真が増えている。カフェで撮った笑顔、ネイルを見せ合う手元、おそろいのストラップ。凛との写真は——最後に撮ったのがいつだったか、彩音は覚えていない。


 夜。凛からラインが来た。


「明日、会える?」


 彩音は一分ほど画面を見つめてから、返信した。


「ごめん、友達と約束あるんだ〜」


 友達の名前は真由子。凛は「わかった」と返した。絵文字なし、スタンプなし。一文字の返信に感情を読み取ることは難しいが彩音はその「わかった」を「了承」として処理し、真由子にスタンプを送った。


 凛が何を思ってその「わかった」を打ったのかを、彩音はやっぱり想像しなかった。

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