第7話 「私、悪い女なの、騙されてみない?」
ハロウィンの時期。サークルのハロウィンパーティーにて、執事服を着た凛は瀬名の予想を三段階くらい超えてきた。
黒のスリーピースにウィングカラーのシャツ、銀色の蝶ネクタイ。古着屋で見つけたベストは凛の肩幅にぴったりで、ウエストの絞りが腰のラインを際立たせている。髪は普段のショートカットのままだが、前髪を七三に流してジェルで軽く固めた。
凛は「別にいつも通りでいいのに」と最後まで愚痴っていたが、瀬名が朝から一時間かけてセットした姿を鏡で見た瞬間に黙った。自分の顔に衝撃を受けていた——という解釈が正しいかは分からないが、少なくとも五秒間、鏡から目を離さなかったのは事実だ。
瀬名の方は黒のロングドレスにパールのイヤリング、髪をアップにして「お嬢様」を気取っている。普段のカジュアルな格好とのギャップが狙いで、サークルの部室に入った瞬間に歓声が上がった。
「うわ、すごい! 二人で合わせてきたの?」
「凛くんかっこよすぎじゃない!?」
「瀬名さんもお嬢様似合いすぎ!」
「二人ともこっち向いてー!」
スマホが四方八方から向けられる。凛が居心地悪そうに肩を縮めるのを、瀬名は横から腕を取って引き留めた。
「逃げない逃げない。撮ってもらおう」
凛が小声で「⋯⋯勘弁して」と言ったが腕を振りほどかなかった。瀬名はその「振りほどかない」を確認して口角を上げた。
パーティ会場はサークルの部室を飾りつけた即席のもので、天井からオレンジと黒のガーランドがぶら下がり、テーブルの上にはスナック菓子とペットボトルのジュースが並んでいる。
手作り感が漂うが、その安っぽさがむしろ楽しかった。仮装コンテストがあり、一年生の魔女グループが優勝し、瀬名と凛は「ベストペア賞」を受賞した。賞品はハロウィン仕様のクッキー缶で凛が「⋯⋯いらない」と言ったのを瀬名が没収した。
真帆がビールの紙コップを持って近づいてきたのは、パーティの終盤だった。
「お似合いだね。お二人さん」
冗談の口調でさらっと言ったが目は笑っていなかった——いや、笑ってはいたが笑いの奥に別の温度がある。観察者の目――凛に向けるのでも瀬名に向けるのでもなく、二人の「繋がり」に向けられた視線。
凛が途端に困った顔をした。眉が下がり視線が泳ぎ、何か言いかけて口を閉じる。その一連の動作が三秒で完結する。凛の「困った顔」のパターンを瀬名はもう全部記憶している。
「ありがとうございます」
瀬名は堂々と返した。迷いなく、明るく、パーティの喧騒に溶ける音量で。真帆が一瞬だけ瀬名の目を見て、それから紙コップに視線を落とし「まあ、楽しんでね」と言って別のグループに戻っていった。
あの視線の中に何があったものか。警告か、容認か、それとも単なる好奇心か。どれでもいい。真帆がどう思おうと瀬名の計画に影響はないのだから。
パーティが終わり、片づけを手伝い、部室を出た。
十月下旬の夜は冷えていた。吐く息がうっすらと白い。キャンパスの街灯が等間隔に夜道を照らし、その間の暗がりを二人で歩く。仮装は解いていない。凛は執事服のまま、瀬名はドレスの上にカーディガンを羽織っている。他の部員たちは別方向に散り、二人きりになるまでに五分もかからなかった。
瀬名は凛の左側に並んで、ふざけたように腕を取った。
「今夜はエスコートしてくれるんでしょ、執事さん」
凛の腕が一瞬こわばった。振りほどく前の予備動作――でも来ない。凛の腕は瀬名の腕に組まれたまま。スリーピースの布地越しに伝わる体温が、夜気の冷たさとの境界線を作っている。
「⋯⋯パーティ終わったよ」
「執事に営業時間はないの。二十四時間体制でしょ」
「⋯⋯そんな労働環境は違法だよ」
凛の声に棘がない。困っているが拒んでいない。このグレーゾーンに凛を留めておくことが、瀬名の技術のすべてだ。白にも黒にもさせない。灰色のまま、少しずつ自分の色に染めていく。
街灯の下を通り過ぎて暗がりに入る。月が出ていた。雲の切れ間から覗く十月の月は白くて薄くて、冬の前触れのような光を落としている。
瀬名は歩調を緩めながら凛の腕を組んだまま半歩だけそっと近づいた。吐息が凛の首筋にかかる距離まで顔を寄せる。
「ねぇ、凛」
囁く。声を低く、甘く、意図的に。
「彩音さんが浮気してるんだから⋯⋯これくらい、許されるよね?」
「⋯⋯っ!」
凛の歩調が乱れた。半歩、たった半歩の乱れだが規則正しく歩いていた凛にとってそれは大きい。
瀬名は組まれた腕をほどいてから凛の手をとり、正面に立った。月明かりが凛の顔を照らす、切れ長の目が少しだけ見開かれて瀬名を見ている。蝶ネクタイの銀色が月光を反射して、小さく光った。
「私、悪い女なの」
笑う。唇の端を持ち上げて、目を細めて。自分で自分に貼ったラベルを声に乗せて押し出す。
「そういう女に、ちょっとだけ騙されてみない?」
沈黙が落ちた。
月が雲に隠れかけて凛の顔に影が差した。凛の喉仏が小さく動いて唾を飲み込む動作。唇が微かに開いて——声はやはり出なかった。
返事はない。凛は何も言わない。何も言わないまま瀬名の目を見続けている。視線を逸らさない。逸らせないのか、逸らしたくないのか。
それでも結ばれた手は振り払われなかった。
腕を取られたときも。耳元で囁かれたときも。正面に立たれたときも。凛は一度も、瀬名を物理的に拒絶することを選ばなかった。
その不作為が凛のすべてを語っていた。嫌なら振り払える。凛にはそれだけの腕力がある。波打ち際で瀬名を引き戻した、あの強い手。その手が動かないということは――。
瀬名はにっこりと笑って、振り返った。
「冗談。帰ろう」
背中で凛の気配を感じる。それから足音が追いかけてくるまで二秒。
並んで歩いたがそこから先の会話はなかった。暗がりの中でも凛の耳がいつまでも赤いことを、瀬名は胸にしまった。
瀬名の自室。
ドレスを脱いで部屋着に着替え、ソファに倒れ込む。天井の白い壁紙に、カーテンの隙間から差す街灯の光が細い線を引いている。
いつもならここで「順調」と口の中で呟いて、にやりと笑うところだ。実際、今夜の手応えは上々だった。ペアコスで周囲に「二人でセット」という印象を刷り込み、夜道でさらに一段と踏み込んだ。
凛は拒まなかった。拒まないどころか瀬名の手の中に自分の手を残した。あの体温が——指先に残っている。
瀬名は右手を持ち上げて、自分の指を見た。
「騙されてみない?」
自分の声が頭の中でリフレインする。騙す。その動詞を自分で選んだ。凛に向かって、月明かりの下で笑いながら。騙す。本当に? 自分は凛を騙しているのか?
——いや、好きなのは本当だ。手に入れたいのも本当。ただ手段が狡いだけ。好意に嘘はない。凛をほしいと思う気持ちに偽りはない。ただそれを凛の弱さにつけ込む形で押し通そうとしている。
好きな人の弱さを利用する——それを「騙す」と呼ぶならそうだ、瀬名は凛を騙している。でも感情は本物なのだから、結果的に凛を幸せにできるなら手段は正当化される。
――あれ、なんでこんなこと考えているんだっけ⋯⋯。
天井の白が目に痛い。瀬名は腕で顔を覆った。
これは攻略だ。ゲームだ。自分は女の子を堕とすのを楽しむ女で、そういうやり方しかできなくて、それでいいと決めたはずだ。
高校生のとき、大好きだったあの子に自分自身をさらけ出して「重い」と言われてから、もう二度と計算の外には出ないと。感情を剥き出しにするのは弱さだ。弱さを見せたら捨てられる側になる。だから鎧を着なくちゃいけない。「悪い女」という鎧を。「攻略者」という鎧を。
それでいい。それがいい。
瀬名は腕を下ろし、天井を見た。
——でも胸の奥がほんの少しだけ、痛い。
凛の喉が動いた瞬間の映像が、目を閉じても消えなかった。月明かりの下の声にならない声。あれは恐怖だったのか。期待だったのか。それとも凛もまた、自分に嘘をつこうとしていたのか。
痛い。
名前のつかない痛み。シャッターが押せなかったときと同じ種類の。ブランケットをかけたときと同じ温度の。引き出しに押し込もうとして、はみ出すもの。
瀬名は寝返りを打って壁を向いた。
そうだ、明日は凛にメッセージを送ろう。
「クッキー缶、一緒に開けない?」
軽い文面と日常のトーンで今夜のことには触れない。何事もなかったように。それが瀬名 蒼のやり方だ。それ以外のやり方を、もう知らないのだから。
目を閉じる。凛の温度が、まだ指先にある。




