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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第6話 甘い毒を盛る日々

 九月の瀬名蒼は、毒を盛る調香師に似ていた。


 一滴ずつ。気づかれないように。甘い香りで包んで喉を通りやすくして、相手が「もう一杯」とねだるまで待つ。凛が自分から手を伸ばしてくるまで瀬名は急がない。急ぐ必要がない。


 夏合宿での告白――「好き」という明確な好意を見せたことで凛は瀬名を拒めなくなった。拒めないまま、瀬名の差し出すものを受け取り続けている。


 秋のサークル展が近い。準備を口実に凛と会う頻度はさらに上がり、写真以外の時間を共有することも増えた。なかでも瀬名が好んだのは凛を買い物に連れ出すことだった。



 九月。下北沢の古着屋。


 狭い店内に革と埃と線香の匂いが混じっている。天井からぶら下がったハンガーラックの間を縫うように進みながら、瀬名の目はすでに凛に似合うものを選別していた。


 この作業が好きだ。服というのは人間の外殻で、外殻を変えれば中身が揺れる。凛の中身を揺らすこと——それが瀬名にとっての遊びであり、戦略であり、趣味だった。


 カーキのミリタリージャケット。M-65タイプの、肩の落ちたオーバーサイズ。手に取った瞬間、凛の身体に重ねるイメージが完成した。


「凛、これ着て」


「⋯⋯ジャケット?」


「羽織るだけでいいから」


 凛は逆らわない。もう逆らわなくなっている。瀬名が差し出すものを「断る」という行動を、夏のあの日以来、凛は一度も取っていない。ジャケットを受け取り、肩に通す。袖が手の甲の半分まで覆う。凛がジャケットの前を持て余すように見下ろしたとき、瀬名の口から音が漏れた。


「やばっ⋯⋯かっこいい⋯⋯最高⋯⋯」


 独り言のつもりだったが聞こえていた。凛が眉をわずかに上げて、瀬名を見た。


「大げさだよ」


「大げさじゃない。今の凛はね、映画のワンシーンに出てくる、主人公が街角で振り返る相手の顔してる」


「⋯⋯意味わかんない」


「褒めてるの。最大級にね」


 凛が視線を逸らした。否定する言葉が出てこないのは、まんざらでもないからだ。


 瀬名は間髪入れずにスマホを構えた。「記録用ね」といいながらシャッター音――凛がジャケットの襟を少し立てた姿が画面に収まる。


 「凛♡」と名付けたアルバムに追加する。このアルバムは四月の河川敷の一枚から始まって、今では三百枚を超えていた。スクロールすると凛の表情が月ごとに変わっていくのがわかる。


 四月の無表情、五月の緩み、六月の翳り、七月の微笑み、八月の赤い耳。九月の凛は——少しだけ、柔らかい。


 翌週――別の古着屋にて今度は凛に何も言わず、一枚のブラウスを手渡した。


 白い生地に襟元と袖口に繊細なレースの縁取り。女の子らしさを煮詰めたような一枚を見て凛の目が二段階で変化した。最初に「何これ」次に「まさか」。


「着てみて」


「⋯⋯無理」


「試着室あるから」


「そういう問題じゃ——」


「凛」


 名前だけ呼ぶ。声のトーンを半音下げて目を合わせたまま。凛の反論が喉の奥に引っ込む。この子は押しに弱いからこれで押し切れる。わかっていて——楽しんでいる。


 試着室のカーテンが開くまでに三分かかった。その三分間、瀬名は壁にもたれて待っていたがカーテンの向こうで布が擦れる音、小さな溜息「⋯⋯嘘でしょ」という呟きの全てが楽しい。


 カーテンが開いた。


 凛が立っている。レースのブラウスに黒のスキニーパンツ。いつものパンツスタイルに上だけ可愛らしさが乗ることで凛の中性的な骨格が逆に際立つ。鎖骨のラインをレースが縁取って、首筋の白さがアニメのように映えている。そして——顔が耳の先まで赤い。


「似合わな⋯⋯」


 凛が言い切る前に瀬名は口を開いていた。


「——似合うよ。ものすごく」


 低い声を意図して出した。凛の手を取る。指先が冷たい。いつもの冷たいこの手を引いて、試着室横の姿見の前に立たせると凛の背後に回り、鏡越しに目を合わせた。


「ほら、見て」


 凛は鏡の中の自分を一秒だけ見て、すぐに目を逸らした。


「かっこいい凛も好きだけど、こういう凛も最高に可愛い」


 凛の耳の赤さが首筋まで降りていく。鏡の中でレースの白と凛の赤のコントラストが映えている。凛は「⋯⋯もう脱ぐ」とだけ言って試着室に引っ込んだ。カーテンの向こうで何かを呟いている。聞き取れないがあの赤い顔が見られただけで、今日は満足だ。


 この「かっこいい凛」と「可愛い凛」の両方を引き出す行為は、瀬名の趣味だが気づいたことがあった。


 凛は瀬名の前でだけ両方の自分を見せている。いつもは――彩音の隣では特に「かっこいい凛」を演じているようだった。その役割を凛は自分から望んだのか、それとも求められるままに固定されたのか。たぶん後者だ。そして凛自身も自分にそれ以外のモードがあることなど、きっと知らなかった。


 瀬名が凛のすべてのモードを欲しがること——かっこいい姿も可愛い姿も、笑う顔も黙る顔も、強い手も冷たい指先も——その貪欲さは、凛にとって初めての体験だった。


 「全部ほしい」と言われることは「全部いい」と言われることだ。どの自分を見せても否定されない。その安心が凛の中で何かを確実に解いていた。



 十月上旬。


 夕方。瀬名のアパート。


 秋のサークル展に出す写真のセレクトを二人でやっていた。瀬名のノートパソコンに取り込んだ数百枚の写真を、ソファに並んでスクロールしながら選別する。


 凛は瀬名の写真に対して言葉は少ないが、良いと思った一枚には「⋯⋯これ」とだけ言って指で画面を示す。その「これ」の精度が高い。凛が選ぶ写真と瀬名が残したい写真はほとんど一致する。


 午後四時から始めた作業が六時を回った頃、凛の反応が鈍くなってきた。返事がだんだんと遅れ、視線がぼんやりと画面を漂うようになり、やがて——凛の頭が傾いだ。


 瀬名の左肩に重みがかかる。


「⋯⋯凛?」


 凛が眠っていた。


 ソファの背もたれに身体を預けたまま、頭だけが瀬名の方に倒れている。規則正しい呼吸と微かな体温が肩越しに伝わる――寝落ちだ。


 左肩の凛の重みは体重のわりに軽い。168センチの身体がこんなに軽いことに、少し驚く。


 瀬名は凛を起こさないように右手でスマホを取り出した。そのままスマホを顔の前に持ち上げ、カメラアプリを起動する。凛の寝顔が画面に映った。


 長い睫毛が頬に影を落としている。唇が少しだけ開いていて呼吸のたびに微かに動く。眉間の皺は消えていて、起きているときの凛にある、どんなにリラックスしていても薄く残る緊張が今、完全に溶けていた。指先もソファの布地の上に投げ出されていて、くたっと力が抜けている。


 その寝顔を心から可愛い、と思った。


 親指はシャッターボタンの上にある。後は押すだけだ。それはいつもやっていること。古着屋でも、撮影会でも、カフェでも、何百回とやってきたこと。凛を撮る。記録する。アルバムに追加する。ただそれだけ。


 でも押せない。


 親指が動かない。


 ――なぜ? 


 瀬名は自分の指を見た。シャッターボタンの一ミリ上で止まっている親指を。画面の中の凛の寝顔を。無防備で、柔らかくて、美しくて——これを撮ることはできる。


 技術的にも状況的にも問題はない。凛は気づかない。たとえ気づいたとしても怒らない。怒らないことを瀬名は分かっている。


 でも、違う。


 この愛らしい寝顔を「攻略の成果」と同じにしたくなかった。凛が瀬名の隣で眠れるという事実は信頼の結果だ。その信頼を「戦利品」のように回収することは——なんだ。何が引っかかっている。うまく言葉にならない。言葉にしたくない。


 ただ、この寝顔をアルバムの三百何枚目に並べることが、どうしてもできない。


 撮りたいのに。撮りたいのは本当なのに。


 ――瀬名はいつしかスマホを下ろしていた。


 画面が暗くなって凛の寝顔が消える代わりに、自分の顔が黒い画面にぼんやりと反射する。


 瀬名は凛の頭にクッションを添えて起こさないように立ち上がると、ベッドの上のブランケットを取ってきて優しくかけた。薄手のグレーのブランケット。端を肩の上まで引き上げて首元に隙間ができないように整える。十月の夕方は冷えるから。


 ふと窓の外を見た。空は茜色から藍色に変わりかけていて、季節の変わり目の色をしているみたいだ。


 ——何やっての、私。


 軽い調子で自分に問いかける。自嘲を漏らして深刻にならないために今の行動を軽く流す。シャッターが押せなかった理由は分析しない。ブランケットをかけた動機も具体的に掘り下げない。


 「攻略対象に情が移りすぎる初歩的なミス」——その一文で片づけて、引き出しを閉めた。


 瀬名はキッチンに行って水を飲んだ。冷たい水が喉を通る感覚に集中する。


 大丈夫。問題ない。これは攻略の途中経過で凛の信頼を得るプロセスの一部で、すべて計画の範囲内。


 ——本当に「恋」ではなく「ゲーム」だなんて思っているのか? 


 その問いを瀬名は水と一緒に飲み込んだ。



 十月中旬。


 紅葉の公園。


 銀杏(いちょう)の葉が金色に色づいて、歩くたびに足元でかさかさと音を立てる。午後の斜めの光が木々の間を縫って、凛の黒髪に琥珀色の影を落としている。瀬名はその光景を撮りたかったが、カメラを構える前に凛が口を開いた。


「⋯⋯瀬名」


 声が硬い。普段、少しの柔らかさを含んでいる声に今日は別の質感があった。何かを切り出す前の、覚悟を含んだ硬さ。


「瀬名、こういうの、よくないよ」


 凛が立ち止まった。銀杏の木の下で金色の葉が一枚、凛の肩に落ちたことに瀬名だけが気づいた。


「私には彩音がいるし⋯⋯」


 瀬名は歩きながら三歩先で足を止め、振り返った。凛の顔を見る――その表情は真剣だ。


 眉間にはうっすらと皺が寄っていて唇が薄く引き結ばれている。「よくない」その言葉を凛が口にするまでに、どれだけの葛藤があったか手に取れるようだった。


 凛は瀬名との関係が「友人」の枠を超えていることを自覚している。瀬名の告白を保留にしたまま、瀬名の好意を受け取り続けていることを。それが彩音に対する裏切りの萌芽であることを。


 凛の倫理観は——不器用ではあっても——正常に機能している。「よくない」は凛なりの誠実さから出た言葉だ。


 けれど瀬名は、その言葉の裏側までも正確に読み取っていた。凛が本当に瀬名を拒絶するなら「よくない」ではなく「やめてほしい」になるはずだから。


 「よくない」は状況への評価であって瀬名への拒絶ではない。そして「私には彩音がいるし」の「し」で語尾が消えかけたこと。文脈からすれば、その先に続くはずの言葉——「もう、やめよう」——を、凛は飲み込んだのだ。


 瀬名はゆっくりと凛に歩み寄り正面に立つ。凛の目をまっすぐ見て、笑った。


「わかってる。でも私は『都合の良い女でいいから』って言ったでしょ?」


 凛の瞳がわずかに揺れる。


「凛が迷惑なら離れる」


 凛がつばを飲み込んだ。


「⋯⋯迷惑?」


 秋の風が吹いた。冷たくなり始めた風が銀杏の葉を吹き飛ばし、二人の間を横切っていく、凛の肩にとまっていた葉っぱが地面に落ちきっても、凛は瀬名の問いに答えなかった。


 唇がわずかに動きだしたものの音にはならない。目が泳ぐ――瀬名の顔から銀杏の葉へ、銀杏の葉から自分の足元へ、足元からまた瀬名の顔へ。その視線の軌道が、凛の内側で何が起きているかを全て語っていた。


 迷惑だと言えば嘘になる。迷惑じゃないと言えば——それは瀬名の存在を肯定することになる。


 彩音がいるのに。彩音を好きだと瀬名に言ったのに。でも瀬名がいなくなったら、この数ヶ月で手に入れた温度を全部失うことになる。彩音との関係で凍えそうな心を温めてくれる唯一の火を。


 答えないことが答えだった。


「よかった。じゃあ、このままね」


 瀬名は振り返ると、また歩き出した。


 声は軽い。足取りも軽い。凛の沈黙を肯定として回収し、何事もなかったように銀杏並木の下を歩く。背後で凛が追いかけてくる足音を数えること三秒。前回より一秒、短い。


 銀杏の葉が風に舞い金色の光の中を二人で歩く。肩と肩の間の距離は拳一つ分——いや、夏合宿のときより少しだけ狭い半個分。その半個分の変化を瀬名は正確に測っていた。

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