第10話 瀬名の祈り
凛がロイヤルミルクティーのカップを細い指先でいじいじといじくっている。
その仕草を瀬名は向かいの席から見ていた。
カップの取っ手に人差し指をかけて、くるり、くるり、と時計回りに回す。それは凛が言いにくいことを口にする前の癖。五月の暗室で「彩音の帰りが遅い」と言ったときも、六月の雨の夜に「たぶん浮気されてる」と告白したときも凛は何かを手の中でいじっていた。
指先に逃げ場を作る。言葉の代わりに手を動かす。
いつものサークルの活動後に二人で寄るカフェ。瀬名はカフェラテを飲みながら、凛の「言いにくそうな空気」を読み取って急かさずに待った。瀬名にとって凛を待つ時間は苦痛にあたいしない、この子のリズムにはもう慣れている。
くるり。くるり。
「⋯⋯もうすぐ、彩音との一周年なんだ」
瀬名の右手がカップの取っ手の上で止まった。
一拍をおいて指が動き出す。取っ手を掴み直してカフェラテを口に運び、飲み込む。この一連の動作に二秒。二秒あれば表情を完璧に整えられている。
「そっか。一年、おめでとう」
明るい声と自然な笑顔で言い切る。瀬名 蒼は「おめでとう」と言いながら微笑むことができる。できてしまう。そういう女だ。
凛がカップの回転を止めた。視線を落としたまま言葉を探している。口が開いて、閉じる。もう一度開く。
「⋯⋯うん。ちゃんと、話をしようと思って。彩音と」
「話をしようと思って」
瀬名はその言葉の重量を正確に推し量った。記念日にデートする、ケーキを食べる、プレゼントを渡す——そういう表面的な計画ではない。
凛が言う「話をする」は、あの子にとって最も困難な行為だ。感情を言葉にすること。相手に正面から向き合うこと。それを一周年という日に賭けようとしている。
凛の中で、何かが決まったことを瀬名は正しく理解した。
「手紙も、書いたんだ。⋯⋯その、彩音に」
手紙。不器用な凛が。言葉から一番遠い子が。
瀬名の胸の奥で、何かがぎしりと軋んだが顔には出さない。
「いいじゃん。凛がそう決めたなら、ちゃんとやりなよ」
今度は軽い調子で応援する友人の声。瀬名蒼の社交スキルは、こういうときも完璧に機能する。顔の筋肉が正しい角度で笑みを作り、声帯が正しい周波数で言葉を発する。中身が何であれ外側は壊れない鎧だった。
凛が顔を上げた。瀬名の目を見た。
「⋯⋯ありがとう」
その声は小さくて、少しだけ震えていて、凛がこのことを伝えるためにどれだけの迷いを潰してきたかが滲んでいた。
瀬名に伝えることの意味を——「凛のことが好きだ」と告白してきた相手にわざわざ「彩音との記念日をちゃんとやる」と宣言することの残酷さを——凛自身が理解していないはずはない。それでも逃げずに言ったのは瀬名に嘘をつきたくなかったからだ。
この子は、少し真面目すぎる。
会計を済ませて店を出た。十一月の夜風が頬を叩く。
「じゃあ、記念日、楽しんで」
「⋯⋯うん」
凛が角を曲がって見えなくなるまで瀬名は手を振っていた。凛の背中が街灯の下を通り過ぎ、影が伸びて、縮んで、消えた。
手を下ろすと同時に笑顔を消した。
不意に歯を食いしばっていた。いつから食いしばっていたのか自分でもわからない。奥歯が軋んで顎の関節が痛いほどだ。瀬名は暗い路地に入るとマンションの壁にもたれて息を吐いた。白い息が街灯の光を横切って消える。空気が肺を刺す。
一周年。
彩音が——あの凛をむしばむ女が——たった一日だけまともに振る舞えば、すべてが終わる。
数ヶ月かけて積み上げたもの。写真を共通言語にして縮めた距離。暗室の赤い光の中で受け取った信頼。雨の夜のココア。夏祭りの帰り道。波打ち際で凛が掴んだ手。合宿の日陰でした告白。ミリタリージャケット。レースのブラウス。押せなかったシャッター。月明かりの下の囁き。
走馬灯のように溢れ出る思い出が、その全部が——彩音が一日だけ「普通の恋人」をやるだけで無意味になる。
凛は手紙を書いたという。あの子のことだ一日でなんて書けやしないだろう。完成するまでに便箋を何枚丸めたのか、何度ペンを握り直したのか。凛がどれだけ言葉をうむのに苦しんだか、瀬名には想像がつく。
その手紙を――瀬名ではなく――彩音に渡す。
彩音が軽く受け取りさらっと読んで、感動したふりをして「ありがとう。嬉しい」とでも笑う。凛が安堵する。それで終わり。それで瀬名 蒼の出番は消える。
――今なら妨害できる。
その思考が、冷水のように頭を走った。
彩音は同じ文学部で時間割の構造は把握している。共通の知人を介して情報を流すこともできる。記念日の予定にノイズを混ぜることは不可能ではない。
あるいはもっと単純に——凛の気持ちが揺れている今のうちに踏み込めば、記念日の前に既成事実を作れる公算は高いだろう。プランはいくつも浮かぶ。瀬名の頭はこういうときも正確に、冷酷に回った。
でも、——やらない。
瀬名は壁から背を離して歩き始めた。暗い住宅街の道。街灯が等間隔に並んでいるはずなのに今夜はどれも暗く見える。
やらない理由。
彩音はきっと「やらかす」
瀬名は四月からの情報収集で桐谷 彩音という女の輪郭を掴んでいた。SNSに投稿される内容のパターン、凛から断片的に聞いた行動の数々、共通の知人が何気なく漏らした彩音の噂。
彩音にとって凛は「恋人」というより「いつでも戻れる安全な場所」として機能している。一周年記念日の重みを理解する感性があるなら、そもそも浮気などしない。
また凛の手紙の重さを受け止める器があるなら、凛との約束をすっぽかして放置したりしない。彩音は記念日、凛を軽んじている。それも高い確率で。だから賭ける。彩音の怠慢に、彩音の鈍感さに。
これは計算だ。瀬名蒼の得意分野。相手の行動パターンを読み、最も確率の高いシナリオに乗る。自分は何もしなくていい。彩音が勝手に自滅する。
——それがひとつめの理由。
足が止まった。
信号が赤に変わっていた。車は一台も通っていないが赤信号の前で立ち止まる。吐く息は変わらず白い。
ふたつめの理由が、胸の奥に引っかかっている。
もし、もし自分の妨害が成功して凛を手に入れたら。工作で記念日を潰し彩音との間にくさびを打って、凛が瀬名の方に流れてきたら。それは——凛が選んだのではなく、瀬名が動かした結果でしかない。操作の産物であり攻略の成果。
凛には自分の意志で選んでほしい。
彩音と向き合って、手紙を渡して、話をして——それでも。それでも自分のところに来てほしい。
そんな感情をたしかに認識してしまったとき、瀬名は愕然として歩き出せなかった。
いつからこんなことを考えるようになった。「攻略」ならば手段を選ばないのが正解だ。相手の意志など関係なく欲しいものを手に入れる。そのプロセスを楽しむ。それが瀬名 蒼のやり方だと言い聞かせきたのに。
凛の意志を尊重するなんて、凛が自分で選ぶことに意味があるなんて、そんな乙女チックな考えはどこから湧いて出た。
——でも、凛は。
凛が差し出すものには、いつも凛自身の全部が入っていた。あの不器用な言葉の一つ一つに、凛の全体重が乗っている。「瀬名といると、楽だ」たった一言。その一言を口にするまでに、凛がどれだけの逡巡を経たか。どれほど真実か、知れば知るほど嬉しくなる。
あの重さを、操作で奪いたくない。
凛がちゃんと選んで来てくれなきゃ、意味がない。
「⋯⋯なに考えてるんだか、感情的で重い女みたいなことばっかり」
声に出した自分への悪態。
まとったはずの重くならないための装置。本気にならないための距離。欲望に忠実なふりをして感情を晒さないための——鎧。
その鎧の内側で、今、祈りに似た何かが膨れ上がっている。
信号が青からまた赤に戻った。瀬名はようやく足を動かし、遠回りして家に帰った。
自室にたどり着くと鍵を閉めて、靴を脱いで、コートも脱がずにベッドに倒れ込んだ。スマホの画面は暗いままポケットの中にある。
凛からの連絡はない。当然だ。今の凛は記念日の準備で頭がいっぱいのはずだ。手紙をもう一度読み返しているかもしれない。店に電話して予約の確認をしているかもしれない。どんな服を着ていこうか考えているかもしれない。
全部、彩音のためだ。
瀬名は横を向いた。ソファの上にグレーのブランケットが畳まれている。凛にかけたブランケット。あの日からずっと畳んでソファの上に置いてある。洗濯はしたから凛の匂いはもう残っていない。なのにしまえない。
手を伸ばしてブランケットを引き寄せた。腕に抱え込む。薄くて柔らかい布地が頬に触れる。体温は残っていないが凛の肩にかけたときの記憶は残っている。
シャッターを押せなかった代わりにブランケットをかけた。あのとき自分が何を考えていたのか——いや、何も考えていなかった。考えるより先に身体が動いたから。それが答えだったのかもしれない。考える前の、計算の前の、鎧の下の。
——お願いだから来ないで、彩音。
口にしたわけではない。頭の中で鳴っただけだ。
——あの子を、一人にして。
一人にしてくれたら。空席のテーブルの前で凛が座っていたら。その手を取りに行く。何を置いても。
——お願い。
ブランケットを抱きしめる腕に力が入った。
それが祈りであることに瀬名はまだ気づかない。攻略者は祈らない。祈るのは恋をしている人間の特権なのだから。




