第11話 一周年記念日
十一月の雨は静かだった。
音もなく降って音もなく冷たい。傘の布地を叩く音すらほとんどせず、ただ濡れる。街路樹の枝も、アスファルトも、凛のコートの肩も。
17時42分。
凛は駅前の通りを歩いていた。コートのポケットの底には瀬名から貰った星型のヘアピンがあった。今朝、鏡の前で髪に留めようとしたヘアピン。前髪を分けてこめかみのあたり、瀬名が「ここが可愛い」と言って留めてくれた位置に——つけてから外した。今日は彩音との日だと思い直して。
凛の装いは黒のタートルネックニットにグレーのチェスターコートで、いつもより丁寧に選んだ。タートルネックは彩音が「凛はハイネックが似合う」と言ったことがあったから。いつ言われたか——去年の冬だったか。記憶が曖昧になっている。
バッグの内ポケットには、あの手紙がある。触れると歩くたびに角が指先に当たる。その感触をときおり確かめながら凛は決戦に向かう面持ちでカフェへと向かった。
17時50分。
カフェ「Koti」。
木のドアを押すとコーヒーと焼き菓子の混ざった匂いが迎えた。店内は暖かい。小さな照明が各テーブルの上にオレンジ色の円を落としている。窓際の席——去年、二人で初めて来たときに座った席を予約してある。
「いらっしゃいませ。朝霧様、窓際のお席をご用意しております」
二席分のセッティング。向かい合わせのテーブルにコーヒーカップが二つ。ナプキンが二つ。椅子が二つ。
コートを脱いで椅子の背にかけて向かいの席を見る。当然、空いている。十分前だから。
「ご注文はお連れ様がいらしてからになさいますか」
「⋯⋯先に、ブレンドをひとつ」
コーヒーが来た。両手で包むと凍えるような指先があったまった。
窓の外では雨が降っている。ガラスを水滴が伝い落ちていく。
18時00分。
向かいの椅子は空いている。
*
同日、桐谷彩音は大学の講義棟を出たところでスマホの通知を確認していた、いつもやり取りしているセフレ――真由子からのライン。
「今日、来られないかな? 仕事がちょっと忙しくなるから、しばらく会えなくなりそう」
講義棟の庇の下で彩音は立ち止まった。周囲を学生が通り過ぎていく。
真由子の誘いに一瞬、期待と喜びが膨れ上がったが今日は凛との予定があった。11月の頭に凛が珍しく「一周年だから木曜、空けておいて」と予定の確認ではなく、予定を確保してきた日。場所はあのカフェで時間は18時だともちろん、記憶している。
――しばらく会えなくなる。
真由子の「しばらく」が彩音の頭の中で拡散していく。しばらくとはどれぐらいだろうか。来月? 年末? 年明け? 真由子の肌の温度、声の低さ、耳元で囁かれる甘い言葉。しばらく、それが手に入らなくなる。
凛とはいつでも会える。今日を逃しても来週でも、再来週でも彩音が「会おう」と言えば凛は必ず「うん」と答える。彩音からの誘いは一度も断られたことがない。今まで一度も。
天秤が傾くまでに三秒もかからなかった。
真由子に返信を打つ。
「大丈夫、行くよ〜♡ いっぱい可愛がってね♡」
送信。指に迷いはなかった。
凛にはあとでラインすればいいだろう。ゼミの飲み会が急に入った、とか。凛は「わかった」って言うに決まってる。いつもそうだから今回も凛は怒らない。そうだ、来週あたりにちょっといいお店に連れて行ってあげよう、それで埋め合わせになる。
彩音は傘を開いて駅に向かった。足取りは軽い。
*
18時05分。カフェ「Koti」
コーヒーを一口飲むと、既にぬるくなり始めていて苦みだけが抽出されたような感触を覚える。ここのコーヒーは冷めても美味しいはずだけど、何故かそう感じた。
窓の外を見る――通りを歩く人々の傘が、街灯のオレンジ色を反射していて綺麗だった。
向かいの椅子は空いている。彩音はデートでもいつも少し遅れるから「ごめーん、電車がさ」と笑いながらやって来るのを待つ。それがいつものことだ。
念のためスマホの画面を確認する。通知はない。
18時10分。
大丈夫。まだ大丈夫。
*
同時刻。
彩音はソファに座り、出されたハーブティーを飲んでいた。真由子の部屋はいつも暖かくて、いい匂いがする。キャンドルの甘い香り。ソファのクッションが柔らかい。ここに来ると全身の力が抜けるようにリラックス出来た。
「急にごめんね~。予定とか大丈夫だった?」
真由子がキッチンからマグカップを持って戻ってきた。
「あー、一応あったんだけど。凛と記念日? みたいな」
「みたいな、って」
「一年なんだよね、付き合って。凛がわざわざお店予約してくれてたみたいなんだけど」
「えっ。すっぽかしちゃったの。悪いことしたね」
真由子が少し笑った。彩音は手を振った。
「大丈夫大丈夫。来週なんか奢ればいいから。凛、怒んないもん」
「怒んないの? 記念日すっぽかされて?」
「うーん」
彩音はハーブティーのカップを傾けながら、首を傾げた。
「凛ってさ、何考えてるかわかんないんだよね。いっつも黙ってるから。でもまあ、怒るタイプじゃないし。私が『ごめんね』って言えば絶対許すよ」
「そっか。優しい彼女だね」
「うん。優しいんだよね。⋯⋯優しいんだけど」
彩音はそこで少し口ごもった。何かを言いかけて、飲み込んだ。真由子がソファの隣に座り、彩音の髪を指で梳いた。
「んー、なにかなぁ」
「⋯⋯なんでもない。ねぇまゆ、今日何する?」
「彩音ちゃんは、何がしたい?」
「決めてほしい」
「わがまま」
「まゆが何でも聞いてくれるから、わがままになるの」
真由子が笑い、彩音の顎を指で持ち上げた――唇が近づく。彩音は目を閉じた。
「——ん」
甘い声が漏れた。真由子の手が首筋に触れて彩音の身体が傾ぐ。ソファの上で姿勢が崩れていく。
「好き」「可愛い」「もっと声聞かせて」ほしかった言葉が降ってくる。彩音が一年間、凛から欲しくて、でも凛に求めなくて、ここで受け取っている言葉が。
*
18時15分。カフェ「Koti」
スマホが震えた。
凛は一呼吸おくとおもむろにテーブルの上のスマホへと手を伸ばした。画面が点灯する。
「 ごめん! ゼミの飲み会が急に入っちゃってさ。抜けられないの。今度埋め合わせするねー!」
彩音からの絵文字のついたメッセージ、凛は画面を見つめた。
ゼミ。
彩音のゼミは月曜開講だと凛は知っていた。英米文学専攻の二年次ゼミは月曜三限だと瀬名から聞いていたし、付き合っていれば大体の時間割ぐらいは把握できる。月曜にゼミがあって火曜に英語学概論があって、水曜は一日空きで、木曜は——ゼミがない。ゼミの飲み会が木曜に急遽入ることは、ない。
そんな思考を置き去りに指は勝手に動いていた。考えたことを打ち出すのではなく手慣れた文言が凛の意識を奪うようにスラスラと。
「わかった。気にしないで」
送信した。
スマホを伏せてテーブルに置いた。
コーヒーカップに手を戻すと冷めている。両手で包んでも、温度が伝わってこない。
*
彩音のスマホが震えた。ベッドの上で真由子の腕の中から片手を伸ばして画面を見る。
「わかった。気にしないで」
彩音はニンマリとした表情で画面を真由子に見せた。
「ほらね。怒ってないでしょ」
「ほんとだ。絵文字もないけど、もともとそういう子なの?」
「そう。凛っていっつもこう。スタンプも使わないし。淡泊っていうかさ」
彩音はスマホをサイドテーブルに置いて内心でほっとため息をつく。凛の「わかった。気にしないで」は彩音の頭の中で「問題なし」に変換されて処理された。やっぱり許された。凛は怒っていないから大丈夫。
「じゃ、安心したところで」
真由子が彩音の腰を引き寄せると彩音は笑って身を預けた。抱きついてきた真由子の香りが広がって、その匂いを嗅ぐと体温が上昇していくみたい。
「ん⋯⋯もう、まゆ、せっかち」
「彩音ちゃんが可愛いのが悪い」
「⋯⋯それ、ずるい」
甘い声がシーツの上に溶けていく。
*
18時30分。カフェ「Koti」。
凛はコーヒーカップの縁を指でなぞっている。
向かいの椅子は空いたままで誰も座ることはない。わかっていた。もう来ないことは。
彩音は嘘をついている。それを知っている。知っていて「わかった」と返した。いつもそうだ。知っていても聞けない。聞いて「本当にそうだったら」——もう一緒にいられなくなるからと。
でも。
一年、だったのに。
凛は窓の外を見た。雨は弱くなっていて通りを歩く人の傘が減っている。店内のBGMがジャズのピアノに変わった。一年前もこの曲だったかどうかは覚えていない。
18時45分。
凛はバッグの内ポケットに手を入れた。お店に来る途中でずっと触っていたから封筒の紙が少ししわになっている。
取り出してテーブルの上に置いた。白い封筒――表に「彩音へ」と書いてある凛の角張った、右に少し傾いた字。
その中には五日かけて何枚、書き直したかは分からない便箋が一枚。
「一年間ありがとう」。「向き合いたい」。「話をしよう」。
この言葉は届かなかった。書いたことすら彩音は知らない。たぶん、永遠に知らないだろう。
凛は手紙の上に右手を置いて封筒の表面を手のひらでなぞった。指先は白く力がこもっていて、いつから力を入れていたのかすら分からなかった。
19時00分。
「――お客様、お連れ様はいらっしゃいますか?」
顔を上げると店員の声が、穏やかに落ちてきた。どこか気遣うような優しい声だったがその優しさが、きつかった。
「⋯⋯もう少しだけ、待ちます」
何を待っているのかは、自分でもわからなかった。意味がないことだと、無駄なことだと理解していて、それでもまだ席を立てない。立った瞬間に一年間のすべてが、この空席の前で終わってしまうから。
もう少しだけ。
もう少しだけ待てば何かが変わるかもしれないと——そう思えるほど凛の力は残されていなかった。何かが変わるとは思っていない、でも立てない。身体を動かそうと思えないのだ。足が。手が。テーブルの上の手紙を握っている指が、まるで接着剤で貼り付けられたみたいだった
――どれほどそうしていたことか、ふと気がつくと凛は会計を済ませていた。
椅子から立ち上がったときには足が痺れていて、手紙をバッグに戻そうとして——封筒が潰れかけていた。ずっと触っていたせいで、いつの間にか手のひらの中でシワだらけになっている。
店を出たときには雨がやんでいて、代わりに風がビュービューと吹き荒れている。十一月の夜の風は皮膚の表面を削るように冷たかった。濡れた歩道に街灯の光が反射して橙色が水面のように揺れる。
凛はそのまま歩道に立った。傘を閉じたまま、どこに向かっていけばいいのか、わからなかった。右に行けば駅、左に行けばキャンパス。まっすぐ行けば——どこにも、行けない。
何もできないままに立ち尽くす。
風が吹いてコートの裾が揺れた拍子にポケットの中で何かが当たる感覚、星型のヘアピン――今朝、着けなかったもの。今日は彩音との日だからとわざわざ外したもの。ポケットに入れて何故かずっと持ち歩いていたもの。
金属の冷たさが指先に伝わる。それだけが確かだった。
凛は何かを求めるようにスマホを取り出した。開かれるのは彩音ではなく瀬名のトーク画面。
最後のメッセージは三日前の瀬名からの「おやすみ」とスタンプ。
何を打てばいいのかは、やはりわからなかった。いつもと同じ不器用な自分。でも今は——いつもよりずっと何もない。頭の中はとても静かで、胸の中には怒りも、悲しみも、苦しみすらもない。全部が凍った世界で凛だけが一人、取り残されている。
「今日、ダメだった」
打てた文字は、それだけだった。




