第12話 瀬名、駆けつける
ベッドの上で天井を眺めていた。
スマホは枕元に置いてあるが画面は暗く通知は来ていない。凛と彩音は今ごろカフェ「Koti」の窓際の席で向かい合っているはずだった。凛が手紙を渡しているかもしれない。彩音が読んでいるかもしれない。読んで「ありがとう」と笑って凛が安堵して、二人の間の何かが修復されて——
気にすることじゃない。
瀬名 蒼は「攻略者」だ。やることはターゲットの結果を待つだけ。彩音が万が一、来なければ好都合だが来たなら来たで、また別の手を打てばいい。
データを分析し次の一手を設計する。それが自分のやり方だ。感情的にならない。焦らない。文庫本でも読んで凛から連絡が来たらそのときに対応すればいい。
それだけだ。
——それだけのはずなのに、天井の白がやたらと目に痛い。
そのときスマホの点灯と共に通知音が部屋の静けさを割った。
瀬名の手は瞬時に動いていた。眼球が画面に張り付くまで一秒もかからなかった。通知を待っていなかったといえば嘘になる。待っていた。ずっと待っていた。画面が暗い間もずっと、この光を。
「今日、ダメだった」
瀬名の身体はメッセージを読み終わる前に動いていた。
ベッドから跳ね起きて足が床を蹴る。ハンガーにかかったコートを掴む——左手。右手はスマホを握ったまま財布をポケットに突っ込んだ。鍵。玄関の棚。スニーカーに足をねじ込んで踵を踏んだまま、靴紐を結ぶ暇すらない。ドアを開ける。閉める。鍵をかける。
――走る。
階段を二段飛ばしで下りてアパートの外に躍り出た。十一月の夜気が肺に突き刺さり、呼吸はすぐに苦しくなる。雨は上がっているが代わりに風が冷たい。アスファルトが濡れていて、スニーカーの底が水を弾く音がした。
走っている。最寄り駅に向かって走っている。
——何やってんだ、私。
自分の行動に気づいたのは百メートルほど走ってからだった。信号を無視して横断歩道を渡り、コンビニの角を曲がり、駅前のロータリーが見えたところで——足は止まらないまま、頭だけが冷静になった。
今の自分に計算がない。プランもない。
「凛が一人でいる」という事実が頭を占拠して、それ以外の思考が全部吹き飛んでいた。着いたら何を言うのかだって決めていない。凛をどう慰めるのか、この状況をどう攻略に活かすのか、何一つ考えていない。
ただ走っている。凛のところに行かなければ、という信号だけが全身を動かしている。
こんなの「攻略」じゃない。
こんなのはただの——
駅の改札を通り抜けてICカードを叩きつけるように当てる。電光掲示板に目を走らせると次の電車まであと二分だった。ホームに駆け込む。息が上がっている。吐く息が白い。心臓がうるさい。走った距離の割に心拍数が高すぎた。
電車が来た。ドアが開いて飛び乗る。間に合った。
車内はまばらだった。平日の夜で席に座る余裕はあったが座れなかった。ドアの横に立って、窓に映る自分の顔を見た。
——必死な顔してる。
髪がぐちゃぐちゃだ。コートのボタンは留めていない。襟が片方だけ立っている。目が据わっている。口が薄く開いている。呼吸を整えようとして整えきれていない顔。
かっこ悪い。
策も余裕も飄々とした笑みもない。「凛のところに行かなきゃ」という一心で走ってきた人間の顔だった。窓に映るこの顔は——瀬名 蒼が四月から半年以上かけて作り上げた「軽やかで常に冷静な女」の造形を完全に壊している。
電車が揺れた。ドア際の手すりを掴む。
この顔には覚えがあった。
高校二年の冬。付き合っていた子が別の子と歩いているのを見て何も考えずに走って追いかけた日。息を切らして追いついて「なんで」と聞いたときの自分の顔。相手は困った顔をして、そのあとで笑って言った。「蒼ちゃんってさ、重いんだよね」
あのときの自分と今の自分は、何も変わっていない。
好きな人が一人でいると聞いて走る。好きな人が苦しんでいると聞いて何もかも放り出す。計算できない。策を練る余裕がない。ただ胸の中の何かに突き動かされて、考える前に足が動く。
——重い。どうしようもなく、重い。
あの夜から鎧を着た。「欲望に忠実なだけ」「ゲームを楽しんでいるだけ」「攻略者」「悪い女」。重くならないための鎧。本気を晒さないための言い訳。好きな人に突っ走って行く自分を、二度と見せないための。
でも全部、嘘だ。
いや嘘じゃない部分もある。凛を手に入れたいのは本当だ。凛が恥じらう顔を見たいのは本当だし、腕の中で名前を呼ばせたい欲も本物だ。でもそれだけじゃなかった。それだけじゃないことを——今この瞬間、窓に映った必死な顔が証明している。
瀬名は窓の中の自分に向かって、小さく笑った。自嘲で頬が引き攣る。
「——ああ、参ったな」
漏れた声は電車の走行音に紛れて誰の耳にも届かなかった。
「本気じゃん、私」
駅名のアナウンスが流れた。次で降りる。
カフェ「Koti」の最寄り駅で改札を抜け、通りに出た。
走りかけて——足を止めた。
呼吸を整える。乱れた髪を手で直す。コートのボタンを留め、襟を直す。靴紐をしゃがんで結び直す。冷たい空気を肺の奥まで吸い込んで、吐く。もう一度。もう一度。
走って行くことはできる。息を切らして「大丈夫?」と駆け寄ることもできる。でもそれは——凛が今必要としていることではない。
凛は今、一時間以上空席を見つめていたのだ。ひとりで。静かに。そこに息を切らした人間が飛び込んでいくのは凛の沈黙を壊すことになる。きっと凛はそれを好まない。
歩く。駅前の通りをカフェの方向へ。足早に、でも走らずに。
カフェの看板が見えた。「Koti」。木製の小さな看板に暖色の照明。窓の向こうには温かい光が漏れていたが凛はもう店の中にはいなかった。
店の前の歩道に、立っている。
コートのポケットに両手を突っ込んで、街灯の下で俯きながら風に吹かれていた。黒のタートルネックの上にグレーのチェスターコート、凛にしてはいつもよりオシャレを意識して、きちんと服を選んだのだろう。
その「きちんと」が今はひどく痛々しくて長身の背中が小さく見えた。いつもは真っ直ぐなのに、少しだけ丸まっている。
クールで凛々しくて、周囲から「かっこいい」と見られている人。サークルで密かに人気があって、本人はそれに気づいていなくて、白シャツの袖をまくる姿がさまになっている人。
でも今はただの——傷ついた女の子だ。記念日に恋人に裏切られた一人の女の子。
瀬名は最後の十メートルを歩いた。足音を消すつもりはなかったが濡れた歩道の上では靴音が柔らかくなる。半歩の距離を空けて凛の隣に立つ。
凛が顔を上げて瀬名を見た。瀬名を認識するまでに時間が必要だった。心がどこか遠いところにあるみたいで瞳の焦点が合うのが遅い。
「⋯⋯瀬名?」
「うん」
二人の間を風が抜けた。濡れた街路樹の葉が街灯の光を小さく反射させている。
沈黙が降りた。重くはない沈黙。瀬名が隣にいるだけの、ただ静かな時間。
凛が口を開く。
「⋯⋯馬鹿みたいだよね、私」
感情を押し殺しているときの声、瀬名は平坦で抑揚がない声の中にある温度を正確に受け取った。
「一年記念だって張り切って。手紙まで書いて」
凛の目は乾いていて涙がない。泣くよりもっと奥の場所にいる。涙が出るのは感情が溢れたときで、凛の感情は今、凍っている。溢れる前に固まっている。
「もう来ないって。わかってたのに。いつまでも⋯⋯」
言葉がそこで途切れた。凛の唇が薄く開いたまま、音にならなかった。
「馬鹿じゃない」
いつもの軽さがなかった。からかうトーンも計算されたやわらかさも飄々とした笑みも——どこにもなかった。低くて真っ直ぐな声が自分の喉から発せられたことに、自分で驚いていた。
「ちゃんと大事にしようとした凛が、馬鹿なわけない」
凛が瀬名を見て――目が合った。
「馬鹿なのは来なかったほうだよ」
瀬名の瞳には策略がなかった。笑みがなかった。親しくなるとよく言われる「底知れなさ」が消えてすべてが剥き出しだった。怒りと痛みとそれから名前をつけたくない何かが、そのまま浮かんでいた。
凛が息を呑む、一瞬だけ瞳が揺れた。
瀬名はコートのポケットから引き出すようにして凛の右手を取った。凛の指先が瀬名の手に包まれる。
冷たい――氷のようだった。一体、夜の風の中でどれだけの時間立っていたのか。コートのポケットの中でさえ温まれないほど、この子の身体は冷え切っている。指先だけじゃない。手のひらも。手の甲も。全部。
「⋯⋯温めよ。歩こう」
凛の手を握ったまま、歩き出した。行き先は決めていない。決める必要がない。今はただ、この冷たい手を自分の手の中に入れて、歩くことだけ。
凛は手を振り払わなかった。
二人は夜の街を歩いた。雨上がりの歩道が街灯の光を映して地面が琥珀色に光っている。水たまりを避けて、避けきれなくてスニーカーの底が濡れる音がする。閉店後のパン屋の前を通り過ぎ、自動販売機の光を横切り、誰もいない公園の入口を通り過ぎる。
会話はなかった。二人の靴音と風の音と遠くの車の音だけ。凛の手は瀬名の手の中で、ほんの少しずつ温度を取り戻していった。血が通い始めている証拠、指先の感覚が戻ってくるにつれて凛の歩幅が少しだけ安定していくのがわかった。
公園を過ぎたあたりで、凛がぽつりと言った。
「⋯⋯瀬名、走ってきた?」
瀬名の足が一瞬乱れる。自分は駆けつけたことは隠したかった。息は完全に整えたつもりだったが辿り着くまでの痕跡が残っていたか。コートの襟を直したのもバレているかもしれない。靴紐を結び直した跡も。凛は寡黙だがカメラマンとしての凛はとってもいい目を持っている。
煙に巻くことはできた。「たまたま近くにいたから」「散歩してたら通りかかった」いくらでも言い繕えるしそのスキルは持っている。
でも——凛の冷たかった指先が今、瀬名の手の中で少しだけ温かい。その温度が嘘を許さなかった。
「⋯⋯まあね。凛が一人でいるの、嫌だったから」
声が素朴な感情を紡いだ。瀬名 蒼のスキルセットにないはずの不格好な一言を。
かっこ悪い。最高にかっこ悪い。
凛の手が瀬名の手の中で、ほんの少しだけ握り返した。
良い力で凛の「意外と小さい手」が瀬名の指を控えめに握る。その控えめさが凛そのもので、その控えめな力の中に、凛が今出せる全部が詰まっているようだった。
「⋯⋯ありがとう」
凛の声は小さくて震えていた。でも温かかった。凍っていたものが、ほんの少しだけ溶け始めた音。
瀬名は前を向いたまま、唇を噛んだ。
目の奥がじんと熱い。鼻の奥がつんとする。泣くな。ここで泣いたら台無しだろ。自分は「悪い女」で「攻略者」で——
——いいや。
もう、とっくに。
凛の手を握ったまま夜の街を歩く。行き先はまだ決まっていない。でも隣に凛がいる。凛の手が少しずつ温まっている。それだけで——今は、それだけでいい。
街灯が二人の影を前に長く伸ばしている。影は重なりかけて、離れて、また近づいて。十一月の夜は深かった。




