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彼女から裏切られて浮気されている無愛想で無口な女の子を私が堕とす話 ――または私が堕ちる話。  作者: 抵抗する拳


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第13話 一線を越える夜

 凛と歩いていたら自分の家の近くまで来ていた。


 計算ではない。今夜の瀬名 蒼には計算が一つもないから。ただ凛の手を握って、あてもなく歩いて、気づいたら見慣れた路地に立っていた。街灯の下にアパートの外階段が見えている。二階の自分の部屋の窓は暗い。


 凛をこのまま家に連れ込むべきかは一瞬迷ったが、即座に迷いを消した。この子を一人で帰す方が、よほど無理だ。凛の手はさっきより温まったといえどまだまだ冷たい。指先にまだ痛みが残っている。


「⋯⋯うち、すぐそこだよ。温かいもの飲む?」


 凛は逡巡すると小さく頷いた。


 鍵を開けて部屋に入る。照明をつけると暖色のフロアランプの光が部屋を満たした。六月の雨の夜と同じ光――あの日も凛はここに来て、ソファに座って、両手でマグカップを包んだ。


 凛にコートを脱がせてからそれを椅子の背にかけ、ソファに座らせる。「待ってて」とだけ言ってキッチンに向かった。


 鍋を出してミルクを注ぎ、ココアパウダーの缶を棚から下ろす。この缶は六月から補充を続けていた。あの雨の夜に淹れたら凛が両手で包んで冷たい指を温めていたから。


 以来、切らしたことがない。戦略的な備蓄——そう自分に言い聞かせてきた。凛がいつ来てもいいように。凛がここを「安全な場所」だと思い続けられるように。戦略。計算。攻略の一環。


 ——今はもう、そういう言い訳をする意味を感じない。


 ただ、この子に温かいものを飲ませたい。それだけだった。


 鍋の中のミルクが温まっていく。ココアパウダーを溶かして泡立て器でかるく混ぜると甘い匂いがキッチンに広がった。マグカップを二つ取り出す、凛のカップは白い陶器、瀬名のカップは紺色。並べて注いだ。


 ソファに戻ると凛は俯いたまま座っていた。バッグは足元にあって手は膝の上に置かれている。さっき外で見たときより、少しだけ背筋が伸びているように思えた。部屋の温かさが身体に届いたのか、それとも、ここが安全な場所だと認識しているからか。


「はい」


 白いマグカップを前に置くと凛は以前と同じ仕草で両手で包んだ。冷たい指先がカップの温度を求めている。以前と同じ構図と同じ手、でもあのときの凛は「たぶん」と言っていたが今夜の凛の顔には「たぶん」の保険がない。


 瀬名は凛の隣に座った。ソファの真ん中で手を伸ばせばすぐ届く距離。でもまだ触れない。


 凛がココアを一口飲んだ。飲み込む音が耳まで届く。


 沈黙。


 フロアランプの光が二人の影を壁に落としている。窓の外で車が一台通り過ぎる音、遠くの踏切の警報音だけが聞こえた。


「⋯⋯凛」


「⋯⋯」


「手紙、見せてくれる?」


 凛が顔を上げた。少し目が丸い。


「書いたんでしょ。渡せなかったやつ」


 凛は数秒間、瀬名の目を見ていた。それから視線を落とし足元のバッグに手を伸ばして、内ポケットから封筒を取り出す。


 白い封筒には何度も握りしめた跡――折り目がついていてシワだらけだった。表には角張っていて右に少し傾いた几帳面な字で「彩音へ」と書いてある。


 封筒を差し出す凛の手が、かすかに震えていた。


 瀬名はそれを両手で丁寧に受け取った。封はされておらず便箋を引き出すと紙がしわになっていた。


 読む――不器用な文字が便箋の罫線の上に並んでいる。一文字一文字が丁寧すぎるほど丁寧に書かれている。力の入った筆跡で、ところどころインクの濃さが変わるのは、ペンを持つ手に力が入りすぎていた証拠だ。


 「一年間ありがとう。」


 最初の一行を読んで、瀬名は息を吸った。


 「彩音と一年を過ごせて幸せでした。私は言葉が下手だけど、気持ちは本当です。」


 凛の声が聞こえた気がした。この文字の向こうに、便箋に向かって唇を噛んでいる凛が見えた。書いては消し、書いては丸め、何枚の便箋を駄目にしたのか。この子にとって「言葉」がどれほど遠いものか、瀬名は知っている。


 「だけど、これまで彩音が何を考えてるのか、望んでいるのか、ちゃんと聞けてなかったと思う。もっとちゃんと向き合いたい。」


 視界が滲んだ。


 文字がぼやける。瀬名は瞬きをした。一度。二度。焦点が戻る。戻って、また滲む。


 「これからも彩音と一緒にいたい。だから——話をしよう。」


 読み終えるまでに少し時間がかかった。


 便箋を元の折り目に沿って畳んで封筒に戻す。手が震えていないことを確認してから返すと凛が封筒を受け取った。瀬名の指先が震えそうになっていたことに気づいたかどうかは、わからない。


「——これを読んでもらえなかったの、私が一番悔しい」


 声を平静に保つために精一杯、努力をしている。喉の奥が詰まって声帯が正しい周波数を維持することを拒んでいる。それでも言葉を押し出す。


 凛がはっとして瀬名を見た。瀬名の目が赤くなって、泣いてはいないけど堪えている。いつもの飄々とした余裕が、いっさい残っていない顔。


「こんな手紙書いてもらえるのに、来なかった人がいる」


 瀬名は凛の目を見た。まっすぐに攻略者の目ではなく。


「⋯⋯私なら、絶対に行ったのに」


 声が震え最後の「のに」が揺れた。制御の外にある揺れ。


 この言葉は瀬名の中から溢れ出た本音だった。そしてそのことを瀬名自身がリアルタイムで自覚していた。今、自分の鎧が音を立てて割れている。いつもの「攻略者」なら手紙を読んでも目を赤くしないし声を震わせない。


 ——でも、もういい。かっこ悪くていい。


 瀬名はゆっくりと手を伸ばして凛の頬に触れた。右手の指先が凛の頬骨の下に触れる。凛の肌はまだ少し冷たかった。


 凛は避けなかった。


「私のこと、嫌い?」


 凛が首を横に振った。小さく。でも確かに。


「⋯⋯なら、今夜だけでいい。私に、あなたを大事にさせて」


 瀬名の親指が凛の目元に触れた。睫毛の先端が指に当たる。凛の目に——ようやく——涙が浮かんでいた。ずっとカフェの空席を見つめていた間も、こぼれなかった涙が。吹きすさぶ風の中で一人、立っていた間、凍っていた涙が。瀬名の指に触れて、やっと溶けた。


 一筋――凛の頬を伝って瀬名の親指の付け根に落ちた。それは温かかった。


 凛がゆっくりと目を閉じて⋯⋯瀬名はその唇に自分の唇を重ねた。


 最初は触れるだけの、凛の唇に自分の唇の輪郭を合わせるだけもの。押しつけずに呼吸を合わせる。凛の吐息が瀬名の上唇に当たった。


 ――離れる。数ミリ。凛の目がまだ閉じている。睫毛が濡れている。


「⋯⋯んっ」


 もう一度、今度は少しだけ深く。逃げられないように凛の下唇をそっと噛むと凛の肩が跳ねた。声にならない声が、唇の隙間から漏れた。


「⋯⋯っ」


 甘い。甘くて、柔らかくて震えている。


 瀬名の手が凛の後頭部に回った。黒い髪に指を差し入れて引き寄せる。凛は抗わない。抗わないだけではなく——凛の手がぎこちなく瀬名の袖を掴んでいた。縋るように。離さないように。


「⋯⋯もっと、声聞かせて、凛」


 瀬名が囁く。凛の耳に唇を近づけて吐息を吹きかけるように、凛の身体がまた震えた。


「⋯⋯む、り」


「無理じゃないよ」


 タートルネックの縁に沿って凛の首筋に唇を落とす――凛の喉が小さく動いた。嚥下の動作。緊張しているのはたしか、でも逃げない。


「こういうの⋯⋯慣れてない」


 凛の声が掠れていた。普段より少し甲高い、感情を押し殺そうとして押し殺しきれない声。


「慣れなくていい。私が教えてあげる」


 瀬名の手が凛のタートルネックの裾に触れた。布地の下に指を滑り込ませると凛の腹部が反射的に引っ込んだ。くすぐったいのか、緊張しているのか。たぶん両方。


「⋯⋯っ」


「凛。力、抜いて。私に預けて、大丈夫だから」


 ソファの上で瀬名に導かれるようにして凛の身体が少しずつ傾いでいく。凛の背中がクッションに沈むと瀬名が上から覗き込んだ。フロアランプの光が凛の顔を斜めから照らしている。黒髪が散らばって、切れ長の目が潤んで、頬が赤い。耳も赤い。首筋も。


 かっこいい凛が崩れていく。クールで寡黙でいつも鎧を纏っている凛の、その下にいる柔らかいものがあらわになり始めた。


「——かわいいね」


 小動物を可愛がるときのような甘さと熱、そして強制力が入り混じったような声色で囁いた。凛が目を逸らそうとするのを顎に指をかけて戻す。


「逸らさないで。見せて」


「⋯⋯かわいくない、よ」


「かわいいよ。凛のこういう顔、ずっと見たかった」


 凛が腕で顔を隠そうとする。瀬名がその腕を優しく、でも確実にどかす。


「隠さないで」


「⋯⋯恥ずかしい」


「恥ずかしくていいよ。そんな凛もかわいいから」


 タートルネックを上に押し上げて凛の鎖骨に唇を落とす。凛の背中が反って先程より大きい声が漏れた。凛が驚いた顔をしている。自分の口からこんな声が出ることを知らなかったような顔。


「あっ⋯⋯」


「いい声。もっと」


「⋯⋯やだ、聞かないで」


「聞くよ。全部」


 瀬名の手が凛の身体を辿っていく。丁寧に。急がずに。すぐに脱がせるのではなくインナーの上からなぞる。凛がどこで身を捩るか、どこで声が漏れるか、どこで瀬名の腕にしがみつくか。一つずつ確かめるように。凛という地図を、指先で描いていくように。


「⋯⋯っ、⋯⋯ふっ⋯⋯んっ⋯⋯」


 凛の身体はとても正直だった。言葉が不器用なぶん、身体がすべてを語ってくれるかのように。触れた場所から熱が滲んで、声を堪えれば堪えるほど指先に力が入る。瀬名の名前を呼ぶ声が——押し殺しても、唇の隙間から溢れる。


「せ、な⋯⋯っ」


「かわいい、もっと呼んで?」


「⋯⋯やだ、よばない」


「だめ。もう一回呼んで、凛」


「⋯⋯っ⋯⋯せな」


「うん。ここにいるよ」


 凛の目から、また涙がこぼれた。今度の涙は悲しみではなく蓋をしていたものが溢れた涙。


 「甘えたい」「守られたい」——ずっと押し込んでいた、凛の一番奥にあったものが瀬名の手によって解放されていく。


 彩音の前で凛はいつも守る側だった。エスコートする側。荷物を持つ側。上着を貸す側。自分の欲求は後回しにして相手を満たすことだけを考えていた。それが愛情だと思っていた。それ以外のやり方を知らなかった。


 瀬名は凛を守られる側に引きずり込む。凛の羞恥も弱さも声も涙も、全部を受け止めた上で「もっと見せて」と求める。凛の強がりが崩れるたびに「かわいい」と惜しみなく伝える。言葉を。凛がずっと与えられなかった言葉を。


「かわいい、かわいいよ、凛」


「⋯⋯やめ、て」


「やめないよ。本当にかわいいから」


「⋯⋯っ、あ⋯⋯」


「ここ、気持ちいい?」


「⋯⋯わ、わかん、ない⋯⋯っ」


「わかんないか。じゃあ、もうちょっと」


「⋯⋯ぁ——」


 凛の腕が瀬名の背中にしがみついた。爪が食い込んで痛いくらい。でもその痛みが愛おしい。凛が余裕をなくしている証拠だから。鎧が脱げた証拠だから。


 瀬名は凛の額に唇を落とした。汗ばんだ額は前髪が乱れて普段見えない生え際が露出している。


「⋯⋯凛。気持ちいいなら、気持ちいいって言っていいんだよ」


「⋯⋯⋯⋯」


「言えない?」


「⋯⋯き、きもち⋯⋯いい⋯⋯」


 消え入りそうな声。でも言った。言えた。凛が自分の快楽を自分の言葉で認めたこと。それがどれほどの変化か、瀬名にはわかる。


「えらいね。凛」


 凛が赤くなった顔をさらに赤くして「子供じゃ、ない」と呟いた。瀬名は笑った。笑いながら凛のすべてを奥の奥まで味わい尽くした。


 凛の身体は瀬名とよく合った。触れるたびに応えがあった。凛が声を堪えきれなくなるポイントを、瀬名の指は正確に見つけ出した。凛が解放されていく過程を瀬名は一つも見逃さない。


 クールで端正な表情が崩れ、寡黙な唇から甘い声が漏れ、強がりの衣を一枚ずつはがしていく。


 そのすべてが——どうしようもなく、愛おしかった。


 凛が瀬名の名前を呼ぶ声。切羽詰まった、もう隠せない声。それを聞いたとき瀬名の胸の奥で最後の鎧が砕けた。音もなく静かに。


 この子が好きだ。手に入れたいのでも、攻略したいのでもなく。この子の声を聞いていたい。この子の涙を拭いたい。この子が安心して眠れる場所でありたい。そういう、どうしようもなく重い感情が、瀬名の全身を満たしていった。


 ——ああ、そうか。


 これが「重い」ってことだ。


 二人が動きを止めたのは夜が随分と更けてから。凛は瀬名の腕の中で肩で息をしていた。髪が汗で額に張り付いている。目が潤んでいる。全身から力が抜けて、ぐったりと瀬名にもたれている。クールでかっこいい朝霧 凛の面影はどこにもない。


 ただの甘やかされ尽くした女の子が、そこにいた。


 瀬名はブランケットを引き寄せて二人の身体にかけた。凛にかけたのと同じものを今度は二人で。


 凛の頭を胸元に抱き寄せる。黒い髪が瀬名の鎖骨に触れる。凛の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。


「⋯⋯寝ていいよ。ずっとここにいるから」


 凛は何か言おうとして言えなくて、代わりに瀬名の指を握った。小さく、でも離さないように。


 そのまま凛の頭を優しく撫でていると規則正しい寝息が聞こえ始めた。安心している。ここが安全な場所だと、この子の身体がもう覚えた。


 瀬名は凛の髪を指で梳いた。ゆっくりと。何度も。



 *



 朝。窓から冷たい光が差し込んでいた。十一月の朝の光は白くて硬い。カーテンの隙間から入る一筋の光が、ベッドの上を横切っている。


 瀬名は先に目が覚めていた。凛が自分の左腕の中にいて、頭が腕の窪みに収まりながら手は瀬名の胸元に置かれ、呼吸に合わせて微かに動いている。


 シャッターを押せなかった凛の寝顔――長い睫毛、少し開いた唇、消えた眉間の皺。あのときは「撮りたいのに撮れない」理由がわからなかった。今はわかる。わかってしまった。


 凛がうっすらと目を開けた。


 焦点が合うまでに数秒の間、瀬名の顔が目の前にあることを認識して——凛の耳が、一瞬で赤くなった。


「⋯⋯瀬名」


 瀬名は笑った。いつもの策略的な笑みではなかった。寝起きの、無防備な、ただの笑み。口角の角度も目の細め方も計算していない。こんな顔を人に見せたのは、いつ以来だろう。


「おはよう凛。⋯⋯逃げないでね」


 凛は逃げなかった。逃げる代わりに瀬名から視線を外して、シーツの端を握った。耳の赤さが首筋まで降りている。


 しばらく沈黙。朝の光が少しずつ部屋を明るくしている。遠くで鳥の声がする。


 凛が口を開いた。声がいつもより低い——いや、いつも通りの低さに戻っていた。夜の間に聞いた甘い声は、朝の光の中では隠されている。


「⋯⋯瀬名の目、昨日赤かった」

 

 凛は瀬名を見上げながら、腕枕の上で少しだけ上体を起こして右手を伸ばした。


 指先が瀬名の目元に触れる。初めて凛から瀬名に触れている。これまで瀬名が凛に触れることはあっても、凛が自分から瀬名の身体に手を伸ばしたことはなかった。手を握り返すことはあった。袖を掴むことはあった。


 でも、こうして相手の顔に自分から指を伸ばすのは——これが、初めて。


 凛の指先は少し冷たくて、少しだけ震えていた。瀬名の目尻から目の下にかけて、そっとなぞる。


「⋯⋯泣きそうだった?」


 瀬名は答えなかった。答えたら負けだ——いや、もうとっくに負けている。夜の間にすべて負けた。負けたことを自覚して、それでもまだ最後の一枚だけ繕おうとしている。


「⋯⋯泣いてない」


「嘘」


「嘘じゃない」


「瀬名、嘘つき」


 凛がかすかに笑った。


 その笑顔は——瀬名がこれまで「攻略」の過程で引き出してきたどの表情とも違った。口元がほんの少しだけ上がって、目が細くなって、さっきまで赤かった耳がさらに赤くなって。不器用で、照れくさそうで、でも温かい笑顔。瀬名のためだけの笑顔。


 心臓を直撃した。


 おもわず凛を抱き寄せた。凛の頭を胸元に引き込んで黒い髪に顔を埋めた。凛の匂い——昨夜の汗と瀬名のシャンプーと凛自身の匂いが混ざったもの——が鼻を満たした。


 凛に見えないところで、目をきつく閉じた。


 睫毛の間から何かが滲みそうになるのを全力で堪えた。泣くな。ここで泣いたら、この子に全部バレる。瀬名蒼が「攻略者」でも「悪い女」でもなく、ただの「重い女」であることが。


 ——参った。


 抱きしめられた凛が、何も言わずにおずおずと腕を回してきた。瀬名の背中に細い腕が。控えめに。遠慮がちに。でも確かに。


 ——完全に、参った。

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