第14話 刻み込まれた残響
朝霧 凛は、いつも通りの道を歩いている。
信号を二つ渡りコンビニの角を曲がって正門の坂を上る。昨日も一昨日も、入学してから繰り返してきた道順。靴底が踏むアスファルトの感触も、銀杏並木の落ち葉を踏む音も、何ひとつ変わっていない。
変わったのは、自分のほうだ。
風が首筋を撫でた。タートルネックの縁の上、布地が途切れるほんの数センチの肌に冷気が触れる。凛は無意識に襟元に手をやった。指先で布地を引き上げる。隠すように。
——昨夜、ここに唇が落ちた。
思考を打ち消して足を速める。銀杏の葉が風に舞って視界を横切った。黄色い葉――瀬名のアパートの窓から見えた朝の光も、あんな色をしていた。
講義棟に入って階段を上り三〇二教室。窓際から三列目の前から四番目が凛のいつもの席だった。隣の席の男子学生が小さく会釈して凛は頷き返す。
筆箱をだしてノートを開きシャープペンシルを握る。
——この指に瀬名の指が絡んだ。
唐突に記憶が侵入してきた。講義ノートのマス目の上に、まったく別の映像が重なる。瀬名の細い指が凛の右手を取って、関節のひとつひとつを辿っていった感触。指の腹が骨の凹凸をなぞる、ゆっくりとした動き。凛の手を「読んで」いるような指使い。
ノートの一行目に何かを書こうとして、シャープペンシルの先が紙の上で止まった。うまく力が入らない。入れようとすると指先が別のものを思い出していく。
教授の声が遠い。パワーポイントのスライドが切り替わる音がする。凛は無心で文字を書いた。機械工学の専門用語が罫線の上に並んでいく。
三行目を書いたところでまた手が止まった。教室の暖房が効いている。効いているのに首筋がぞくりとした。冷えたのではなく、逆。あの場所だけが不意に熱を帯びて、その落差に身体が反応していた。タートルネックの布地の下で瀬名の唇に触れられた皮膚が脈打っている。
凛は襟を直した。さっきも直したばかりだから何度直しても同じだった。布で覆ったところで肌が忘れない。瀬名の唇の温度と、吐息の湿度と、その直後に聞こえた自分自身の声を。
——聞かないで。
——聞くよ。全部。
瀬名の声が聞こえてきて思わずシャープペンシルを握り直した。力を入れすぎて芯が折れた。ぱきん、と小さな音が教室に響き、隣の席の男子学生がちらりとこちらを見たが、凛は何でもない顔をして芯を出し直した。
ノートに文字を書く。書けている。読める字が並んでいく。でも書いている内容が頭に入ってこない。活字と罫線の向こう側に瀬名の声が、ずっと残響のように体中に轟いている。
講義が終わった。ノートを見返すと四行目以降の文字が微かに震えていた。
午後になってサークル部室の扉を開ると瀬名 蒼がいた。
窓際のテーブルの上に一眼レフを置いて、隣に座った一年生の女子とレンズの話をしている。いつもの姿――ダークブラウンのセミロングを無造作にひとつに結んで、口角を上げて笑っている。感じのいい先輩、誰とでもそつなく付き合える社交的な瀬名。
凛が入ってきたことに気づいて瀬名が顔を上げた。目が合う。
「あ、凛。おはよう」
いつも通りの声だった。軽やかで、親しみやすくて、何も起きていないかのような声。サークルの部室で交わす、ただの挨拶。
凛の心臓が跳ねた。
いつも通りの声なのに。いつも通りのあいさつなのに。その音の底に——昨夜の、もうひとつの声が透けて聞こえる。低くて、甘くて、凛の耳のすぐそばで吐息と一緒に零れた声。
——もっと呼んで?
まるで凛にだけ聞こえる周波数が出ているかのように、他の部員には届かない帯域で囁かれた気がした。瀬名の「おはよう」は全員に向けられた音で、でも凛の鼓膜だけがその奥にある別の音を拾ってしまう。
「⋯⋯おはよう」
自分の声が硬い。平坦にしようとしすぎて逆に不自然だ。でも、どう返せば自然なのかがわからなかった。昨日までの「おはよう」と今日の「おはよう」の間には見えない線が引かれていて、越える前にはもう戻れない。声の出し方を身体が分からなくなってしまった。
瀬名は何事もなかったように、にこりと笑って一年生との会話に戻った。凛だけが入口に突っ立ったまま心臓の音を聞いている。速い。うるさい。周りに聞こえるのではないかと思うくらい、うるさい。
我に返って歩き出しては鞄を定位置に置いてカメラを取り出した。今日は屋外撮影の予定だからレンズを確認しなくては⋯⋯設定を合わせる。手が覚えている手順。これは大丈夫だ。カメラを触っているあいだは、指先が「撮影」のための指先に戻ることに凛は安心した。
撮影準備のために部室内を移動するとき、それは起きた。
瀬名が凛のそばを通りかかった。三脚を持って窓際から扉に向かう動線と、凛がカメラバッグからフィルターを取り出そうとしている場所が交差する。すれ違うとき——
瀬名の指が、凛の手の甲にほんの一瞬、触れた。
他の誰にも見えない角度だった。三脚を持ち替えるふりをして、自然な動作の中に紛れ込ませた一秒にもみたない接触。指先が手の甲の皮膚を撫でて、すぐに離れた。
「——っ」
凛の全身が震えた。
ほんの一瞬だけ指先が手の甲を掠めただけ。なのに、触れられた場所を起点にして熱が全身に広がっていく。波紋のように手の甲から手首へ、手首から腕へ、腕から胸の奥へ。心臓が一拍だけ止まって、次の拍動が倍の強さで打った。
瀬名はもう凛から離れて扉の近くで三年生の先輩と三脚の話をしていた。振り返りもせず、凛を見もしない。
凛だけが、手の甲を見つめていた。
そこには何も残っていない。赤くもなっていない。痕跡はどこにもない。でも——触れられた場所がまだ熱い。皮膚の下で血が騒いでいる。カメラバッグのジッパーを引く手が、うまく動かない。
——こんなこと、前はなかった。
彩音に手を握られても、こうはならなかった。腕を組んでも、肩にもたれかかられても、身体が「記憶している」感覚なんてなかった。触れられて、離れて、それで終わりだったはず。
瀬名に触れられてから凛の身体が変わってしまった。ほんの一秒の接触で全身が反応する。皮膚が、筋肉が、血管が、昨夜の記憶を勝手に蘇らせては瀬名の指先という起動キーに触れた瞬間にすべてが再生される。
凛はカメラバッグのジッパーをなんとか閉めた。フィルターを取り出す前に手を膝に押しつけて、呼吸を整える。吸って、吐いて。もう一回。指先の震えが止まるまで。
部屋の外から瀬名の笑い声が聞こえた。誰かの冗談に笑っている軽やかで明るい声。
その声を聞いているだけで、手の甲がまた熱くなった気がした。
*
夜、凛は自室のベッドに仰向けで横たわっていた。入居したときから変わらない天井。静かな部屋に響くのはエアコンの送風音と時計の秒針、ときおり混ざる窓の外を通り過ぎる車の音。
身体が、瀬名の体温を探していた。
右側が空いている。昨日は瀬名がいた。凛が瀬名の左腕の窪みに頭をあずけて瀬名の心臓の音を聞いていた。耳のすぐそばで規則正しく鳴っていた。とくん、とくん、と。凛の心臓の音より少しだけ速かったかもしれない。
今は自分の心臓の音しか聞こえない。
シーツは冷たく手を伸ばして触れてみてもただの布だった。瀬名は凛の部屋には来たことがないから、この部屋にあるのは凛の温度だけ。
おもむろにスマホを手に取ってラインを開く。瀬名とのトーク画面。
最後のやりとりは瀬名の部屋を出たあと。
『家に着いた。ありがとう』
凛が送ったメッセージ。
『うん。寒いから暖かくしてね』
瀬名からの返信。何でもないメッセージ。穏やかで、優しくて、それだけのもの。
凛の親指が入力欄の上で止まった。
何かを送りたい。瀬名に文字を打ちたい。でも何を打てばいいのかがわからない。「おつかれ」では足りない。「今日もありがとう」はおかしい。
打ちたい言葉はひとつだけ、指の先まで来ている。喉の奥にも詰まっている。
——会いたい。
でも、打てなかった。彩音と別れてもいない。あの一周年の空席のあとも凛はまだ彩音の「恋人」だ。形だけの、とっくに中身の失われた肩書きでもまだ剥がれていない。その状態で別の女性に「会いたい」と送るのは⋯⋯。
凛はスマホを枕元に伏せた。
目を閉じる。
五感が研ぎ澄まされ瀬名を覚えている体が、触れられた場所が、順番に熱を取り戻していく。首筋。鎖骨。肋骨のあたり。腹部。指先。瀬名の手が辿った経路を凛の皮膚が忠実に再生する。昨夜の地図が身体の上に浮かび上がって、消えない。
——瀬名に、会いたい。
凛は寝返りを打って枕に顔を埋めた。
耳が熱い。顔が熱くて仕方がない。自分の欲求を自覚することが、こんなに恥ずかしいとは知らなかった。「会いたい」と思うだけで耳が燃えるほど焦がれている。
枕からは凛自身の匂いだけ何の匂いもしない。朝——瀬名の部屋のシャワーを借りたとき、瀬名のシャンプーの匂いが髪に移っていた。柑橘系の、すこし甘い匂い。帰宅してもう一度自分のシャンプーで洗ったとき、あの匂いが排水口に流れていった。
それを惜しいと思った自分に、また顔が熱くなる。
枕に顔を押しつけたまま、右手をパーカーのポケットに入れた。
指先が硬いものに触れる――星型のヘアピン――指先が星の形をなぞった。五つの角をひとつずつ。なめらかな金属の感触。暗い部屋で目を閉じたまま星の輪郭をたどる。瀬名がこのヘアピンを選んでいるところを想像する。店で手に取って「凛に似合う」と思った瞬間を。
指が星の中心で止まった。
凛は目を開けない。ポケットの中の星を握ったまま、瀬名の体温があった空白を背中で感じている。部屋は静かで、冷たくて、凛の心臓だけがうるさかった。




