第15話 広がる領域
瀬名 蒼は、観察している。
凛が瀬名の近くにいるとき耳が赤くなるまでの秒数。視線が合ってから逸らされるまでのコンマ何秒。瀬名の軽口に「⋯⋯別に」が返ってくるまでの呼吸の数。
あの夜の前は一秒だったものが今は二秒かかる。
たった一秒の差でもその一秒の中で凛の瞳孔がわずかに開いて、喉が小さく動いて、記憶がフラッシュバックしているのが瀬名にはわかる。凛の頭の中に何が映っているかも。
——かわいい。
瀬名はその一秒を、一つも見逃さずに観ている。
十一月最後の日曜。サークルの秋展が終わったばかりで、活動は撤収と整理の時期に入っていた。部室の棚から展示パネルを下ろす作業中、凛が上段のパネルに手を伸ばした。身長があるから届くが角度が悪い。
「凛、そっち持って。設定ラベル剥がすから」
瀬名はパネルの裏に回り込み、凛が支えているパネルの端に手を添えた。凛の手の甲に瀬名の指が重なる。自然にパネルを支える動作の延長として。誰が見ても「共同作業」以外の何にも見えない。
でも凛の指が、ぴくりと跳ねた。
瀬名の小指が凛の薬指の上に乗っている――ほんの五ミリの重なり。それだけで凛はガチンッと固まったように動かなくなり、手の甲に血が上って指先の温度が変わる、体温が上がって耳の赤みが増す。
「⋯⋯」
凛が何か言いかけて言わない。言う前に瀬名の手がパネルごと離れているからタイミングがない。何事もなかったかのようにラベルを剥がす作業に移っている。
残ったのは、凛の手の甲に残る五ミリぶんの熱だけ。
暗室で現像作業の日。
暗室は狭い。赤いセーフライトの下で液体の匂いと薬品の匂いが混じっている。凛がプリントの焼き込み時間を計っている後ろを通り過ぎる。そのすれ違いざま、凛の耳のすぐそばで。
「今日のシャツ、似合ってる」
声量は凛にしか届かない大きさ。吐息が凛の耳の縁を掠めた。
凛の手が止まった。カウントしていた秒数が飛んだかもしれない。暗室の赤い光の下では凛の耳の色は見えないが、首筋の筋肉が硬直したのは見えた。
瀬名はもう離れている。自分の作業台の前に戻って何食わぬ顔でフィルムを確認している。
「⋯⋯」
凛がこちらを振り返る気配。でも瀬名は振り返らない。振り返ったら暗号が暗号でなくなる。二人だけの周波数が他の部員にも聞こえてしまう。
凛が小さく息を吐いて作業に戻る音がした。プリントの焼き込み時間は、たぶんもう狂っている。
別の日、キャンパスのカフェテリア前でサークルの有志撮影があった。冬の光は低くて硬い。凛が被写体になっている一年生のポーズを直そうとして、うまくいかない。凛は言葉で指示するのが苦手だから「もう少し右に」「顎を引いて」が出てこない。
瀬名が横から入った。
「凛、こう?」
凛の前に立ち、手本を見せるふりで凛の顎に指を一本かけた。人差し指が凛の顎先に触れ、数ミリだけ角度を変える。凛の顔を「撮れる角度」に整える動作。周囲からは「ポーズの手本を見せている」ようにしか見えない。
でも瀬名の人差し指が触れているのは凛の顎だ。あの夜にも、キスするときに同じ場所を同じ指で上向かせた。
凛の喉が聞こえぐらいに鳴った。嚥下の音。目が一瞬だけ揺れて、それから瀬名を睨むように見た。唇がわずかに開いて何か言おうとして——瀬名の指はもう離れている。「こんな感じ」と一年生に向き直っている。
凛の「やめて」は、いつも間に合わない。
瀬名の手が触れて、凛の思考が止まって、言葉を探している間に接触が終わる。残るのは触れられた場所の残響だけ。凛はその残響を消化できないまま、次の作業に移る。手が震えたまま。耳が赤いまま。
その日の帰り道、凛が瀬名の半歩後ろを歩いているとき、ぽつりと言った。
「⋯⋯瀬名、わざとやってるでしょ」
「うーん、何を?」
「⋯⋯わかってるくせに」
「わかんない。ちゃんと言って」
凛が口を閉じた。言えない。「触らないで」と言えない。なぜなら本当は止めてほしくないから。言葉にしたら嘘になる。凛はそれを知っていて、だから黙る。
瀬名は前を向いたまま笑った。凛には見えない角度で。
*
「新しいレンズ届いたんだけど、試し撮り付き合ってくれない?」
十二月に入って最初の金曜日、瀬名は凛にそう声をかけた。
凛はしばらく、じーと瀬名の顔を見てから頷いた。写真のことを理由にされたら凛は断れない。
瀬名のアパートのドアを開けると暖かい空気が廊下に流れ出た。凛が一歩踏み入れて、かすかに肩の力が抜けるのを瀬名は見逃さない。
「座ってて。ココア淹れるから」
いつも通りキッチンに立ってホットココアを作り、凛の専用になった白い陶器のマグカップにココアを注ぐ。
リビングに戻ると凛はソファの端っこに座っていた。これもいつもの位置で背もたれに体重を預けて膝を軽く曲げている。部屋の温度は瀬名が凛の「快適」を観察して設定したもので、凛自身が気づいていない凛の好みを、瀬名の部屋が再現していた。
ソファの横に畳んであるブランケットに凛の視線が一瞬止まった。凛が眠ったとき瀬名がかけてくれたもの、あのとき凛は薄目で気づいていた——と、あの翌朝に凛が教えてくれた。
凛はブランケットから目を逸らし、差し出されたマグカップを両手で受け取った。いつもの仕草。冷たい指を温めるように包む。
「⋯⋯あったかい」
「寒かったでしょ、今日」
「⋯⋯うん」
瀬名は紺色のマグカップを手に凛の隣に座った。新しいレンズを出して二人で構造を確認する。凛は光学系の話になると目が変わる。普段の寡黙さが嘘のようにレンズの収差や焦点距離について語り始める。
瀬名はコーヒーテーブルにカップを置き、凛の横顔を見ていた。凛がレンズを天にかざして透過光を確認しながら話している。声が低くて、でも熱を帯びていて言葉が途切れない。瀬名の前でだけ凛はこうなる。他の誰の前でも見せない饒舌さ。
凛の耳の後ろで、黒い髪が一房揺れている。
瀬名の指が伸びた――その一房をゆっくりと指に巻きつける。絹糸のような感触が指の腹を滑る。凛の髪は細くてまっすぐで、瀬名の指に従順に巻かれていく。
凛のレンズについての解説が、途切れた。
「⋯⋯瀬名?」
「ん? 続けて。聞いてるよ」
「⋯⋯髪、触ってる」
「触ってるね。嫌?」
凛の耳が色づいていくのが見えた。赤が耳たぶから耳の縁まで広がっていく。凛はレンズをテーブルに置いた。両手は空いたが瀬名の手を払いのける動作はやってこない。
「⋯⋯嫌じゃ、ないけど」
「じゃあ、続けて」
凛は数秒黙って、それからさっきの話を再開した。色収差の話をしているはずだった。でも声が上ずって語尾が不安定になっている。瀬名は凛の髪を指に巻いたまま、少しずつ指を下ろしていった。耳の後ろから、首筋へ。
指先が凛の肌に触れた。髪の下に隠れた、うなじの柔らかい皮膚。そこに指の腹をあてがい、ゆっくり鎖骨に向かってなぞった。
凛の声が止まる。
「⋯⋯瀬名」
「どうしたの?」
「⋯⋯集中、できない」
「そう? ごめんね」
指を離さすことはなかった。むしろ指先に少しだけ力を込めた。凛の首筋の薄い皮膚の下を、脈が走っている。速い。速くなっている。
凛はマグカップを持ち直そうとして——代わりに膝の上で拳を握り、視線を正面に固定して何かに耐えるように唇を引き結んでいた。
瀬名の指が首筋から上がった。耳の後ろを通過して、耳たぶに。
親指と人差し指で、薄い耳たぶを挟んで、やさしくコリコリ。
「——っ」
凛の身体が跳ねた。肘がテーブルにぶつかってカップからココアが少しこぼれる。茶色い液体が白い陶器の外側を伝った。
「わ——」
「大丈夫?」
瀬名はティッシュを取ってココアを拭き取った後、凛の手を取った。指を一本ずつ絡めていく⋯⋯親指、人差し指、中指、指の間も丁寧に。凛の手が小さく震えているのが伝わる。凛の指の温度を感じる。
「凛って、耳弱いんだ」
「⋯⋯知ってるくせに」
凛の声が低かった。いつもの平坦な声。でも平坦にしようとして失敗した声。
「そうだったかな」
「⋯⋯この前」
凛が小さく呟いた。それから自分が何を口にしたか気づいて、さらに赤くなった。耳だけではなく首まで赤い。「この前」——二人の間でそれはあの夜を指す。凛が自分からあの夜に言及した。
瀬名の胸の底で何かが満ちた。策略の充足感か、もっと別のものか、今はどちらでもよかった。
「そうだったね。ここ触ったら——」
「瀬名」
凛の手が伸びて瀬名の口を塞いだ。手のひらが瀬名の唇に押し当てられている。凛の手のひらは温かかった。あの夜はまだ冷たかった手が瀬名の唇の上で熱を持っている。
瀬名は凛の手のひら越しに笑った。唇の動きが凛の皮膚に伝わったのだろう、凛が眉をしかめた。でも手を離さない。離したら瀬名が続きを言うと思っている。正解だ。
瀬名は凛の手首をそっと掴んで口元から下ろしたまま握った。
「凛」
「⋯⋯なに」
「今夜、泊まっていかない?」
凛の脈拍が親指の下で加速する。
凛の目が揺れていた。理性と欲求が瞳の奥でせめぎ合っているのが見て取れる。彩音への罪悪感が浮かんで、瀬名の指の温度に沈んで、また浮かんで、また沈む。
「⋯⋯よく、ないよ」
「そうだね。よくないね」
瀬名は凛の手首を離さなかった。親指が脈の上にある。凛の心臓の音を皮膚越しに聞いている。
「でも帰りたい?」
長い沈黙――エアコンの音。風の音。時計の秒針。凛の呼吸。
凛が首を横に振った。小さく。ほとんど動いていないような動作。でも確かに。
瀬名は凛の手を引いてソファから立ち上がらせた。凛の身体は抵抗しなかった。引かれるままに立ち上がり、そのまま瀬名に連れられる。
ベッドへ向かう瀬名の背中に凛の視線が触れている。その視線の熱を瀬名は背中で受け止めていた。




