第25話 彩音の反撃
沈黙が部屋を満たした。
壁にかかった時計の秒針が一刻ずつ空気を刻んでいく。凛のアパートのリビングはそう広くはない。ワンルームに三人の人間がいて、その三人の間に横たわる言葉の残骸が酸素を奪っている。
彩音は黙っていた。
一周年記念日のこと。手紙のこと。ゼミが月曜であること。凛が一時間以上空席を見つめていたこと。彩音が凛をないがしろにしていたという、それらの事実は全て本当だ。反論できない事実を並べられて言い返す言葉が見つからない。
瀬名は追撃してこなかった。ただ腕を組んだまま壁際に立って静かな目で彩音を見据えている。それは裁く目ではないが、逃がす目でもない。
時計の秒針が十を数え、二十を数えるころ彩音の内側で、二つのものが同時に膨れ上がっていた。
一つは羞恥。瀬名の言うことはまったくもって正しい。凛を雑に扱った。記念日をすっぽかした。浮気をした。それを目の前で暴かれて糾弾されている。しかも暴いたのは凛の新しい女で凛は何も言わずに横で俯いているだけ。
桐谷 彩音の二十年間の人生で、こんな格好悪い立場に置かれたことは一度もなかった。自分が責められる側、自分が間違っていた側に立たされている。その事実が皮膚の内側を焼いていた。
――もう一つは怒りだった。確かに瀬名の言うことは正しい。正しいが、でもなぜ、どうしてこの女に言われなければならないのか? いきなり外からやって来て、凛を奪って、その上で「お前が全部悪い」と断罪する資格が、どこにあるというのだ。
凛と一年間を過ごしたのはこの女ではない。凛の寝相を知っているのも、凛が珍しく寝込んだときに慣れない料理を作ったのも、そばで看病したのも、凛と初めて愛し合った夜だって、知っているのは全部——自分だ。
彩音の中で羞恥と怒りが絡まり合って、出口を求めて暴れている。
それがついに喉から声となってまろび出た。
「——浮気してたよ」
突然の告白に瀬名の目が僅かに動いて、凛が固唾を呑んだ。
「うん。してた、してた。友達じゃなくてセフレがいた。何回も会ってたし体の関係もあった」
彩音の声は高い。早い。言葉が唇から零れ落ちるように出てくる。止められないし止める気もない。もうどうにでもなれ、という自暴自棄と暴れてしまえばこの場がうやむやになるかもしれないという本能的な計算が、同時に彩音を突き動かしていた。
「だって仕方ないじゃん!」
声を張り上げて、訴える。自分が悪いのではない。裏切りたくて裏切っていたわけではないと。
「凛は何も言ってくれないし、何考えてるかわかんないし——好きとも言わない、したいとも言わない、いっつも黙ってて! まゆは違ったよ! ちゃんと可愛いって言ってくれたし、ちゃんと求めてくれた! 凛にはそれができなかったじゃん!」
凛の拳が握りしめられた。言葉が突き刺さっている。彩音が何に不満を持っていたのか——それを今、初めて聞いた。好きと言わなかった。求めなかった。言葉が足りなかった。身体の関係でも凛は彩音を満たせなかった。
セフレには「できた」ことが、凛には「できなかった」。
その事実が凛の胸の奥を抉った。一年間、凛なりに精一杯やってきたつもりだった。
料理も勉強して上手くなったし、興味はなかったけど彩音の好きなアニメや映画にも付き合った。不器用なりに、どうすれば彩音を満足させられるかそういう雑誌も読んでみた。
上手くは出来なかったかもしれないけれど、それは全部、言葉にできない「好き」の代わりだった。でもそれは——届いていなかった。届いていないどころか「足りない」と判断を下されて別の誰かで補填されていた。
そんな凛の肩に瀬名はそっと手を添える。
「彩音さん、浮気を認めるのね」
瀬名の声は静かだった。彩音の激昂の渦の中で、その静けさが異質なほど浮いている。
「認めるよ! 悪かったって思ってるよ! でも凛が——」
「凛のせいにするの?」
「凛のせいとは言ってないでしょ!? でも理由があったってこと! 理由もなしに浮気する人間なんかいないって言ってるの!」
「――それは正当化する理由にはならない」
鋭い一文が彩音の激流を堰き止めた。彩音が口を開いたまま止まる。瀬名は表情を変えない。
「話を逸らさないでほしい。彩音さんが今やっているのは、凛を傷つけたことへの説明じゃない。自分が責められることへの反撃だよ」
うっ、と彩音の喉が詰まった。瀬名は彩音の土俵には上がってこない、感情のままに暴れ狂う彩音が場を荒らして滅茶苦茶にしようとしても、冷静に対処する。
「うるさい! あんたに何がわかんのよ!」
それでも再び声を跳ね上げた。しかし今度の叫びには最初の勢いがない。叫んでも瀬名が揺れないことを、彩音の身体はもう理解させられ始めている。
「――じ、じゃあ凛はどうなの!?」
彩音の声が裏返った。最後の弾丸を込めるような声。追い詰められた動物が最後の牙を剥くように、彩音は瀬名の論理の外に飛び出した。
「凛だってこの女と浮気したんでしょ!? 私と付き合ってるのに、こいつと寝たんでしょ!?」
凛の目が伏せられる。あの夜に瀬名の部屋で一線を越えたことを否定できない。
瀬名の表情が僅かに動いた。眉の間に一瞬だけ皺が寄ったが口は挟まない。
「ほら! 私だけが悪いみたいに言わないでよ! 凛のヘアピンだってこの女のプレゼントでしょ? 見せつけるようにつけちゃってさ!」
彩音は勢いづいた。ようやく掴んだ足場。凛の後ろめたさ。瀬名の論理に開いた穴。そこに全体重を乗せる。
「凛だって私を裏切ったじゃん! お互い様でしょ!? 私が浮気して、凛も浮気して、じゃあ同じじゃん! なのになんで私だけ責められるの? おかしくない!? 私だって傷ついてるのに!」
声が部屋中に響いた。凛は俯いたまま動かない。瀬名は彩音の言葉が全部出し切られるのを静かに待っていた。
「何か言ったらどうなの!?」
彩音の息が荒い。肩が上下している。自分の正しさを証明したという高揚と叫び終えた後の虚しさが身体を巡っている。
瀬名が口を開いた。
「凛が私と関係を持ったのは、十一月以降」
静かに事実だけを置いた。彩音の嵐の後に凪のような声。
「彩音さんが浮気を始めたのはいつ?」
彩音の口が閉じた。
時系列は動かせない。凛が瀬名と一線を越えたのは十一月中旬。彩音がセフレと関係を持ち始めたのは——付き合い始めて数ヶ月後で遅くとも今年の春だったはず、ともすれば凛と瀬名が出会う前。
先に裏切ったのは、自分だ。
「そ、そんなの関係ない!」
彩音の声が尖った。感情論で押す、論理が通じないなら感情で押し切る。彩音がこれまでの人生で培ってきた最大の武器。
「浮気は浮気でしょ!? 凛のほうが先に心変わりしたんじゃないの!? この女がいなかったら——」
「いなかったら、どうなってた?」
瀬名の声が彩音の言葉の隙間に滑り込んだ。
「私がいなかったら、凛はあのまま黙って傷ついて、あなたの浮気に耐え続けて、自分を責め続けてた」
一拍。
「それが彩音さんの望む結末?」
彩音は答えない。答えられない。
「凛が何も言わないから好き放題して、凛が我慢するから甘えて、凛が怒らないから何してもいい——その先にあるのは、どうせ別れでしょう。私がいてもいなくても結果は変わらない」
「⋯⋯」
彩音の唇が開いて――閉じてまた開いた⋯⋯が聞こえてくるのは呼吸音ばかり。反論の形をした何かが浮かんでは消え、浮かんでは着地しない。
――瀬名には勝てない。
その認識が彩音の全身に浸透していくのが見えた。
情報でも、論理でも、感情論でも、この女には何一つ通じない。まともにやっても、絡め手でも崩せるようにはとても思えなかった。
彩音の肩から力が少しずつ抜けていく、と同時にまた表情が変わった。
引いていく怒りの感情、その下から別のものが覗いた。計算ではない。懇願に近い何か。最後のカードを切る前の、一瞬の静寂。
彩音は瀬名から視線を外し、凛に向き直った。




