第24話 瀬名の論理武装
「少し、話してもいい?」
瀬名は腕を解いた。壁から背を離して一歩だけ前に出る。それだけの動作で部屋の空気の軸が動いた。彩音と凛の間に張り詰めていた感情の糸に、瀬名という第三の支点が加わる。
彩音が充血した目で瀬名を睨みつけている。さっきまでの怒りの勢いがまだ身体の中に残っていて、呼吸が荒い。しかし瀬名の声のトーン——静かで、低くて、感情を抜いた声——に一瞬だけ面食らったものか、瀬名の動きを探っているようだった。
「彩音さん。一つ聞いていい?」
「⋯⋯何」
「ここに来る前、どれだけ凛のこと大事にしてたかわかってんの? って聞こえたけど、たしかかな」
さっきほど激昂しながら凛に投げつけた言葉。そのとき瀬名はこの場にいなかったが彩音の声が大きすぎて、ドアの外まで響いていた。
「それが? 言ったけど?」
「それは本気で、本当に?」
彩音の眉が吊り上がった。
「当たり前でしょ。一年も付き合ってたんだよ。あんたなんかに言われる筋合いないんだけど」
「じゃあ」
瀬名の声は変わらない。一段も上がらない。
「一周年記念日に、カフェで一人で待ってた凛のこと、知ってる?」
彩音の表情が止まった。顔面の筋肉が一瞬だけフリーズする。瞬きが一回分、遅れた。
「凛は一ヶ月前から準備してたよ。カフェを予約して、手紙を書いて。何日もかけて、何度も書き直して」
瀬名の声はかわらず平坦だった。感情を乗せずに事実だけを、テーブルの上に一枚ずつ置いていくように。
「あなたに一年間、一緒にいてくれてありがとうって。ちゃんと向き合いたい。もっと話をしたいって。五日かけて選んだ言葉だよ」
彩音の唇が薄く開いた。何か言おうとして——音にならない。彩音は事実か確認しようと凛に振り向き、凛が首肯したのを見て衝撃を受けたように一歩、後ずさった。
手紙のことなどいっさい知らなかった。凛が自分のために何日もかけて便箋と格闘していたことを、想像すらしなかった。
「でも、あなたは来なかったよね」
一拍。
「『ゼミの飲み会が急に入った』って連絡して」
「そ——それは、本当に急に入って——」
「彩音さんのゼミは月曜でしょ」
彩音の弁明を遮りはしなかった。彩音が言い終わる前に事実を被せただけだ。
「あの日は木曜だった。私は同じ文学部だから時間割の構造くらいわかるよ。英米文学の二年次ゼミは月曜三限。木曜にゼミの飲み会は入らない」
彩音の目が泳いだ。左、右、床、瀬名の顔。視線が定まらない。
「ゼミっていうのは、ゼミじゃなくて⋯⋯ゼミのメンバーとの飲み会っていう意味で——」
「じゃあそれでもいいけど」
瀬名は彩音の弁解を否定しなかった。その必要がないから。ただフレームを切り替える。事実関係の真偽ではなく、優先順位の問題に。
「凛との一周年記念日より優先する飲み会って、何だったの?」
彩音の口が開いて――閉じた。
「答えられない?」
これが瀬名の技術だった。「嘘かどうか」で争えば彩音にも逃げ道があるだろう。
「本当に急だったから」「約束していたのを忘れていて、急に思い出した」——いくらでも言い繕える。しかし「凛より何を優先したのか」と問われれば、どう答えても詰む。
正直に答えれば自分の浮気が露呈するし、嘘をつけば「一周年よりも大事な飲み会とは何か」の説明を永遠に求められる。もちろん、真っ当な説明など用意できるわけがない。どちらにせよ凛を「大事にしていた」のではなく「軽んじていた」事実が浮かんでくるだけだ。
「⋯⋯凛が別にいいって言ったから——」
「凛は『わかった。気にしないで』って返したんでしょ」
彩音が息を呑んだ。なぜ瀬名がその文面を知っているのか——凛から聞いたからだ。瀬名は常に彩音と対峙することを想定して、凛と付き合った後も情報収集を欠かさず行っていた。今、その用意周到さが牙を向いている。
「あれは許したんじゃない。諦めたんだよ」
彩音が唇を噛んだ。なにか反論の言葉を探しているのを瀬名は待たない。待たないが、急かしもしない。淡々と次の事実を提示していく。
「あの夜、あなたが誰と何をしてたか——凛は聞かなかった。聞いたら終わるから。聞いて本当だったら、もう一緒にいられなくなるから。凛はそうやって、ずっと耐えてたんだよ。あなたの嘘に」
部屋が静まった。暖房の送風音だけが低く唸っている。
瀬名は一呼吸置いた。次の言葉が、核心だった。
「彩音さん」
声のトーンが半音だけ下がる。
「凛は、あなたの浮気に気づいてたよ。ずっと前から」
「⋯⋯っ!」
まるで空気が入れ替わったように凍りついた、部屋の温度が二度下がったように感じる。
凛はうつむいたまま床を見ている。否定も肯定もしないが、その沈黙が瀬名の言葉を裏付けていると雄弁に語っていた。
彩音の顔からは血の気が引いていた。白くなったのは怒りのせいではないだろう。
「う、浮気なんて——」
反射的に出た否定⋯⋯しかし語尾が消えた。瀬名の目を見たからだ。瀬名の目には嘘がない。彩音を追い詰めるための虚勢でもハッタリでもなく、純粋な事実として告げているのが分かった。
もしここで否定したとしても、瀬名と凛の中で確定した「彩羽の浮気」という「事実」は覆せない。
仮に彩羽が本当に浮気をしていなかったとしても、浮気しているものとして扱うという雰囲気が二人にはあった。勿論、彩羽の浮気は事実なのだが。
「あれは——友達と遊んだだけで。本気じゃ⋯⋯」
彩音の声が小さくなった。さっきまでの声量はどこにもない。自分の言葉が自分の耳に返ってきて、その弱々しさに驚いたぐらい。
瀬名は遮らなかった。彩音が言い切るのをあえて待った。消え入りそうな「本気じゃない」——その言葉が空気の中に落ちて、床に転がるのを見届けてから、静かに返した。
「遊びなら、凛を傷つけてもいいの?」
沈黙が重い。
「あなたにとっては遊びだったかもしれない。でも凛にとっては——」
瀬名の声に僅かに何かが混じった。感情の色。ここまで完璧に排除してきた温度が、一瞬だけ滲んだ。
「——自分がダメだから浮気されてるんだって。自分が至らないせいだって。そうやって自分を責める理由になってたんだよ。あなたの『遊び』のせいで」
俯いたままの凛の肩が微かに揺れた。
瀬名はその肩の揺れを視界の端で捉えて奥歯を噛んだ。怒りだ。彩音に対する。凛がどう扱われてきたか、瀬名は彩音の具体的な言動を全部知っているわけではない。しかし凛の傷つき方から読み取ってきた。全部、間近で見てきた。
「私が凛をたぶらかしたって、さっき言ったよね」
瀬名は彩音に視線を戻した。
「じゃあ聞くけど――」
刺すような眼差し。
「凛は他の誰かに心を奪われるほど、あなたの隣にいることがつらかったんだよ。——それは誰のせい?」
彩音の目が揺れている。怒りと恐怖が混在した目。自分の足元が崩れかけていることに気づいている目。
「私?」
瀬名はほんの僅か、首を傾げた。
「⋯⋯それとも、凛を大事にしないで雑に扱い続けた、あなた?」
最後の三文字を置いた瞬間、瀬名の内側を走る、一筋の冷たいものがあった。
——自分だって狡いだろうに。
弱っている凛の心につけ込んで、好意を断れない性格を利用した。「都合のいい女でいい」と嘘をついた。彩音を断罪する資格が自分にあるかと問われれば、ないだろう。
その自覚はある。でも今はそれを言う場面ではない。今は凛のために戦っている。自分の罪は後でいくらでも晒せばいい。全部、正直に。
彩音は瀬名から目を離せないようだった。充血したままの目が揺れ動いている。唇は震えながらも反論を探している。まだ彩音は諦めていない。
「⋯⋯あんたに、何がわかるの」
声が低い。押し出すような声。
「一年も一緒にいたのはあんたじゃない。凛のことも、私のことも何も知らないくせに——外から来て、勝手に全部わかったみたいな顔しないでよ」
瀬名はその言葉を真正面から受け止めた。彩音の言い分には一片の真実がある。瀬名は一年間の二人を知らない。知っているのは凛の側から見た断片だけだ。
しかし。
「全部は知らない。あなたの気持ちも、あなたなりの事情も、私にはわからない」
瀬名が凛にちらりと目をやり。
「でも一つだけ、確実にわかることがある」
また彩音に戻った。
「凛が一時間以上、空っぽの席の前であなたのことを待ち続けた。——それは事実でしょ」
瀬名は言い切った。これ以上は繰り返さない。同じ事実を何度も叩きつけるのは論破ではなく暴力だ。瀬名が必要としているのは彩音の屈服ではない。凛が自分の口で語るための足場を作ることだから。




