第23話 瀬名の介入と彩音の激昂
瀬名はアパートの外階段の踊り場から凛の部屋の前へと移っていた。
彩音が入っていったドア一枚の向こう側で、コートのポケットに両手を突っ込んでコンクリートの壁にもたれている。
真冬の空気は乾いていて冷たい。ポケットの中にあっても指先が徐々に冷え出す。
中の会話は聞こえないはずだった。凛の声は低くて小さいから壁を越えてはこない。
しかし彩音の声は、簡単に越えてきた。
「——は? 何言ってんの?」
最初に聞こえたのはその一言だった。声量が通常の会話を逸脱しているのか防音性能が低いのか、壁やドアを隔てているはずなのに、言葉の輪郭がはっきりと聞き取れた。
瀬名は腕を組み直したまま動かない。凛が一人でやるといったから。
「一年付き合って——昨日だってイブだったのに——」
声が途切れる。彩音が息を吸う間。そしてまた声が上がる。
「他に好きな人でもできたわけ?」
凛の声は聞こえない。聞こえないが彩音の反応で対話の形が見える。彩音が問いかけ、沈黙が落ち、彩音がさらに声を上げる。その沈黙の中に凛の言葉がある。
でも彩音の次の叫びで、凛が何を言ったかはわかった。
「誰。——誰なの! 凛!」
凛は言えたのだ。「好きな人ができた」と自分の口で。
瀬名はポケットの中で拳を握った。
数秒の沈黙。そして——
「ふざけないでよ!」
彩音の声が裏返った。甲高い。壁越しでも声帯の振動が伝わってくるほどの音量。
「一年だよ一年! それを、いきなりクリスマスの日にこんな——凛、ありえないでしょ!?」
瀬名は目を閉じた。壁の向こうの声を聞いている。
「私の何が不満だったの!? ねえ、何が足りなかったの!? 言ってよ!!」
凛の声は——やはり、聞こえない。
「黙ってないで何か言いなよ凛!」
彩音の声が壁を叩く。
「凛はいつもそう! いっつも黙ってるから、なに考えてるかわかんないんだよ!!」
——なに考えてるかわかんない。
瀬名の脳裏に手紙の文字が浮かんだ。不器用で角張った文字。
「もっとちゃんと向き合いたい」「話をしよう」 五日かけて書いた便箋と折り目だらけの封筒。カフェの空席で一時間以上握りしめていた手紙。
わかんない、じゃない。
瀬名の奥歯が噛み合った。
わかろうとしなかっただけだろう。凛がどれだけの言葉を飲み込んできたか。どれだけの夜を一人で抱えてきたか。それを「黙ってるから」の一言で片づけるのか。黙っていたのは凛が悪いのか。凛に「もっと言ってほしい」と一度でも伝えたのか。
壁の向こうでは、彩音の声が続いている。
「私がどれだけ凛のこと大事にしてたかわかってんの? 凛のために色々我慢してたの知ってる? 言いたいこといっぱいあったけど、凛を傷つけたくないから言わなかったんだよ!?」
声が涙混じりになりかけている。——いや、涙ではない。怒りがこみ上げているのだ。彩音は泣いていない。泣く代わりに攻撃している。
「なのに裏切るの? 一年間ずっと一緒にいたのに、いきなり別の女? ひどくない? 凛がそういう人だと思わなかった。信じてたのに——」
被害者の声。自分は傷つけられた側だという声。
瀬名は壁にもたれたまま天井を見上げた。曇り空が階段の隙間から覗いている。
——凛。
凛の声は聞こえず彩音の声だけがあたりに響くばかり。彩音が畳みかけ、凛が黙り、彩音がさらに畳みかける。凛は今、何を考えているだろう。言いたいことはあるはずだ。でも彩音の声の圧が、凛の言葉を喉の奥に押し戻している。
「私のこと好きだったんじゃないの!?」
凛の声が——かすかに聞こえた。壁を透過するほどではないが彩音の反応でわかった。
「でもって何!?」
彩音が遮った。凛の「でも」の先を聞く前に。凛が「でも——」と言いかけて、その先を言おうとした瞬間を、彩音の声が塗りつぶした。
「でもとか言わないでよ! 好きだったなら好きでいてよ! 勝手に気持ち変えといて『でも』って、そんなのひどいよ凛! こんなの納得できないから!」
凛の言葉が、また消える――瀬名は壁から背を離した。
ポケットから手をして右手でインターホンのボタンを押した。
チャイムの音と同時に壁の向こうで、音が止まった。
彩音の声が途切れる――凛の沈黙はもともと音がない。すべてが静まった二秒の間に足音が聞こえた。凛の足音がドアに近づいてくる。
ドアが開いて、ほっとしたような表情で凛が立っていた。
凛の目が瀬名を見た。〇・五秒だけ見開かれたのは驚きではなく——確認。瀬名が来たことへの、静かな受容。凛の瞳の奥に何かが灯った。安堵とも覚悟ともつかない光が。
「⋯⋯瀬名」
「おじゃまします」
何も気負わず、いつものトーンで足を踏み入れる。軽くて、涼しくて、隙がない瀬名 蒼として玄関に入って靴を脱ぐ。凛の横を通り過ぎるとき凛の手の甲に自分の指先がかすかに触れた。
リビングには息の荒い彩音が立っていた。
白いニットワンピースが室内の照明に照らされて華やかに見える。華やかなのに——顔が歪んでいた。その目は涙ではなく怒りで充血している。凛と並んで王子と姫と称された彩音は、今や般若のような形相で瀬名を睨んでいた。
彩音は瀬名の顔をまじまじと見つめる――ダークブラウンのセミロングに切れ長の目。口角がわずかに上がった口元、記憶を照会するが初めて見る顔だった。面識は一切なく彩音は知らないが文学部の同じ棟にいても、すれ違ったことすらない。
でも彩音は「瀬名」という名前を知っている。凛のスマホに表示されていた名前だから。
すべてが一本の線で繋がるのに、一秒とかからなかった。
「——あんたか」
彩音の声が低くなった。怒りの質が変わる。凛に対する感情的な噴出から瀬名に向けられた明確な敵意に。それは的を得た怒り、怒りの矛先が定まった人間の質量。
「あんたが凛をたぶらかしたんでしょ⋯⋯!」
瀬名は玄関にほど近いところで壁に背を預けて腕を組んだ。凛の部屋の入口に立つ形。退路を塞いでいるわけではないが、自然とこうなった。
「人の彼女に手を出すとか、どういう神経してんの! 信じられない!」
彩音の目が瀬名を射抜いている。敵意が純粋だった。この女が悪い。この女のせいで凛が変わった。この女がいなければ、凛は自分のものだった——彩音の論理は単純で、だからこそ強い。
瀬名は何も言わなかった。表情は静かで口角は上がっていない。笑みも怒りもない。ただ、彩音の声を聞いている。
反応を返さない瀬名に、しびれを切らした彩音は凛に向き直った。
「凛。この女に騙されてるんだよ。目を覚ましなよ」
声に切迫がある。彩音の必死さは本物で本気で凛を取り戻そうとしていた。しかし、その必死さが向かっている先は「凛を理解すること」ではなく「凛を手元に留めること」だと彩音は気づいていない。
「ねぇ凛、私達の一年間は嘘だったの? 彼女がいるって分かってて手を出す女なんてろくなもんじゃないよ、やめなって」
凛の顔が苦しげに歪んだ。
「⋯⋯嘘じゃない。でも——」
「また、でも!? でもばっかりじゃん!」
凛の唇が開いて――閉じた。
「でも」の先が出てこない。喉の奥に言葉がある。「でも」の先には言いたいことが多すぎて、どれを最初に出せばいいかわからない。彩音の声の圧が凛の思考を掻き乱している。凛の目が床を向いて唇を噛んだ。
「ほら、何も言えないじゃん!」
彩音が一歩踏み出した。凛に詰め寄る。
「こんなの凛らしくないよ。この女に何吹き込まれたか知らないけど、お願いだから目を覚ましてよ。私たちうまくいってたじゃん。凛が言ってくれれば何でも直したのに。凛が黙ってたから——」
「——いい?」
瀬名の声が部屋の空気を切った。
静かで、冷たくて、刃のように細い声が静寂をもたらす。
彩音が振り向いて凛が顔を上げたのを眺めながら、瀬名は壁から背を離して一歩だけ前に出た。
腕を組んだまま。視線は彩音に。
「少し、話してもいい?」




