第22話 彩音との別れ話
手紙は引き出しの一番上にあった。
折り目がいくつもついている白い封筒――「彩音へ」と書かれた凛の角張った字。カフェで一時間以上握りしめていた跡と瀬名の部屋で開かれて読まれて、便箋に瀬名の涙が落ちかけた記憶。
凛はそれを一度だけ見つめてから引き出しの奥にしまった。手紙の上に古いフィルムの箱と未現像のネガが重なって日常の雑物の下に沈んでいく。
迷いはなかった。この手紙の宛先はもうない。
十二月二十五日。
窓から冬の白い光が差し込んでいた。凛のアパートは広いワンルームで、ベッドとソファと小さなテーブルと壁沿いの本棚に写真集と機械工学の教科書が並んでいる。生活に必要な最低限のものしかない部屋。
彩音は「凛の部屋って殺風景だよね」といって瀬名は「凛らしい」といったのを思い出す。
スマホを確認した。彩音からの返信は昨夜の二十三時に来ていた。
「わかった。何時がいい?」
彩音の返信は短かくて絵文字がなかった。クリスマスツリーもキラキラも雪の結晶もない。いつもの彩音なら何かしらつけるのに、それがゼロだった。
彩音も予感している。イブに凛が彩音ではなく別の予定を選んだこと。その翌日に「話がある」と言われたこと。その二つを組み合わせれば導かれる結論は一つしかない。
彩音はけして愚鈍ではなかった。それなのに——凛の痛みにはついぞ気づかなかった。気づかなかったのではなく、気づこうとしなかった。
凛は「14時」と返した。
部屋を片付ける。彩音を迎えるためではなく自分の気持ちに区切りをつけるための動作。流しに残っていたマグカップを洗った。——昨夜、瀬名の部屋で飲んだココアのことを一瞬考えて、振り払った。今はその記憶に浸っている場合ではない。
床に置きっぱなしだったカメラバッグを棚に戻す。ソファのクッションを整える。テーブルを拭く。一つ一つの動作が、凛の身体に「今日」の輪郭を与えていく。
瀬名には朝のうちに電話した。
コール音が三回のあと瀬名が出る。おはようの声がいつもより低いのは寝起きだからではなく、眠れなかった声だと凛にはわかった。
「⋯⋯今日、十四時に彩音が来る」
瀬名の呼吸が一つ聞こえた。
「一人でやる」
瀬名は少し間を置いた。電話の向こうで息を吸う音が聞こえた。
「——わかった。でも私、外にいるよ」
「⋯⋯外?」
「凛のアパートの前。邪魔はしない。中には入らない。ただ、何かあったら」
「瀬名」
「心配なの。させて」
その声は、ただ心配している人の声だった。
凛はその申し出を断らなかった。瀬名が外にいることは自分の意志を弱くするものではないから。
一人で向き合う、一人で言葉を口にする。それは凛がやることだけど、瀬名がそこにいてくれるという事実が——背骨を一本、増やしてくれる。
「⋯⋯ありがとう」
「がんばって。——嘘、がんばらなくていい。凛は凛のままでいい」
「うん、大丈夫」
電話を切った。
――もう決めたから。
昨夜、イルミネーションのベンチで瀬名の手を握りながら言った言葉。あれは本当だった。怖くないとは言わない。彩音の顔を見て声を聞いて一年間の記憶が押し寄せてきたら、揺らぐかもしれない。揺らぐかもしれないけれど——退かない。退かないと決めた。
十三時五十分。
凛は部屋の真ん中に立っていた。いつもどおりの黒のタートルネックだけど星型のヘアピンは着けている。これは瀬名がくれたもので凛が毎日着けることを選んだもの。彩音の前でも外さないと決めたから、これでいい。
十三時五十五分。
インターホンが鳴った――予定より五分早い。彩音はいつも遅れてくる人で凛より先に待ち合わせ場所に来たことはなかった。
平静をよそおうとしても心拍数はみるみる上昇していく、凛は瀬名の額の温度と瀬名の涙を拭った指の感触を思い出した。一度、息を深く吸って、思いっきり吐き出す。
――ドアを開ける。
彩音が立っていた。
ベージュのロングコートに白いニットワンピースというコーディネート、巻いた髪が肩にかかっていてメイクがいつもより丁寧に思えた。アイラインが少しだけ長くてチークがほんの少しだけ濃い。リップの色はいつもより鮮やか。
でも彩音の目は笑っていなかった。唇は微笑みの形を作っているのに目の奥に光がない。一年間この顔を見てきた凛にはわかる。これは彩音の武装だ。完璧な外見で自分を固めて、何が起きても揺るがないように準備して来ている。
「⋯⋯話って何?」
挨拶も世間話もない単刀直入なもの言いだった。彩音の声は軽かったが、それは軽く聞こえるように作っているだけで、実際は苛立ちを隠しきれていなかった。あるいは、それは凛に対するアピールだったのかもしれない。
今の私は機嫌が悪いから、余計なことは喋るなよ――そんな声が聞こえた気がした。
「⋯⋯入って」
凛は彩音の問いには答えず、ひとまず家へと迎え入れる。彩音も玄関先でやりあう気はなかったらしく、大人しく靴を脱いでアパートへあがった。
ヒールのブーツを揃えて脱ぐのも、コートを椅子の背にかけるのも、何度となく繰り返されてきた動作として彩音の体に染みついていた。彩音はこの部屋の椅子の位置を知っている。コートをかける場所を知っている。冷蔵庫に何が入っているかも、凛のベッドの枕の硬さも。
一年間の蓄積が、この部屋の空気の中にある。でも、もうすぐそれが終わる。
凛はテーブルを挟んで立ったまま彩音に向き合った。
彩音が凛を見上げる。凛の表情を読もうとしている様子。凛が何を考えているのか——いつもそうだ。彩音は凛の表情を読もうとして、読めなくて諦める。「何考えてるかわかんない」そんな言葉が頭をよぎった。
でも今日は言葉にする。わかるように。
「彩音」
声は静かだった。凛の低くて平坦ないつもの声。感情が昂ると逆に声が平坦になるが押し殺しているのではなかった。
「別れてほしい」
部屋が静まった。冷蔵庫のコンプレッサーの音がやけに大きく響いて聞こえる。
彩音の表情からは笑顔が消えていた。
目が大きく見開かれたまま、微笑みの曲線がゆっくりと水平になり、口角が下がり、唇が薄く引き結ばれる——驚き。それから否認。
「今のは聞き間違いだ」と処理しようとする脳の動き。でも凛の声は明瞭だった。聞き間違える余地がない。
そして——認識。やはり来たかという彩音の目の奥に、冷たいものが走った。
「⋯⋯はぁ? 凛、何言ってんの?」
彩音の声量が一段、上がった。軽さは完全に消え去って冷徹さを伴った攻撃的な口調が飛び出る。それは怒りではなく現実を遮断しようとする声であり、凛に対して「今の発言は嘘です」と撤回を迫る圧力だった。
「一年付き合って急に別れるって? おかしくない?」
彩音の右手がコートを掴んでいた。椅子の背にかけたコートを無意識に。
「昨日だってイブだったのに。ほったらかしにしてさ」
以前の凛なら——一ヶ月前の凛なら彩音の威圧感に怯んで言葉を引っ込めていただろう。
「ごめん、なんでもない」と謝って、全部なかったことにしていた。
でも、今の凛は退かない。一歩も引かない凛に対して彩音も困惑の色を見せる。
「⋯⋯他に好きな人でもできたわけ? そんなことないよね? 凛の冗談、面白くないよ」
挑発ではなく確認だった。否定してほしいのだ。「冗談でした」と凛に言ってほしい。
凛がそう言えば、この会話はまだ巻き戻せる。
――凛が引くなら許してあげるから。引きなさい。すべて冗談だと水に流して何も変わらない日常に戻りましょう。
それは今ならまだ間に合うぞという彩音なりの譲歩であり、最後通牒だった。
――だけど、凛は目を逸らさなかった。
「⋯⋯うん。好きな人が、できた」
ハッキリと彩音に聞こえるようにいい切った。
指の関節が白くなるほどに手は太ももの横で握りしめていたが、堂々と。心臓はバクバクと大音量で鳴っているが、この緊張は彩音に見せるものではない。
彩音の目の奥が揺れた。
凛の答えは想像通りといえば想像通りだった。イブに凛が別の予定を選んだ時点で彩音の中ではもう確信に近い答えだった。
そうであったのに凛の口から直接聞くと——別の重さがある。空想の中の言葉と空気を振動させて耳に届く言葉は同じ言葉なのに、まるで違う。
「――誰!」
彩音の声が一段と大きく、そして低くなった。さっきまであった冷静さも失われている。凛は彩音のこの声を知らない。一年間で一度も聞いたことがない種類の声。
「——誰なの! 凛!」
彩音の指が、爪がベージュの布地に食い込むほどにコートを握りしめていた。目はバキバキに乾いている。涙ではなく怒りが彩音の内側で温度を上げ始めていた。




