第21話 約束と決断
凛の自室のスマホが鳴ったのはクリスマスイブの前日だった。スマホには彩音からの絵文字つきのメッセージが表示されている。
「ねえ明日イブだけど、行きたいところある? イルミネーション見たいなー!」
凛はベッドに腰掛けたまま、その画面をしばらく見つめていた。
メッセージのタイムスタンプは22時14分。
ここ数週間、凛の変化を感じ取っていた彩音は凛を繋ぎ止めるかのようにデートへ誘う頻度を上げていたが、凛は彩音と過ごす時間に意味を感じられないままに、ズルズルとここまで来ていた。
イブの予定は——もう埋まっている。
瀬名からの誘いは先週の金曜日だった。サークルの撮影後、カメラバッグを肩にかけながら「イブ、空けといてね」と。疑問形ではない、凛が断る可能性を想定していない言い方。
でも瀬名の声は軽いのに目だけが真剣で、凛は「⋯⋯うん」と頷いていた。頷いた瞬間、自分がどういう選択をしたのか、わかっていた。
彩音が前日の夜まで聞いてこなかったのは、聞く必要がないと思っていたからだ。恋人なのだから一緒に過ごすのが当たり前。確認するまでもない。
——でも最近の凛の態度が気になっていて、その「当たり前」を確かめるのがほんの少しだけ怖くて、確認を先延ばしにしていた。聞かなければ断られていない。その猶予にしがみつくように前日の夜まで引っ張った。
凛にはそれがうっすらと見えた。
画面の中の絵文字が明るく光っている。クリスマスツリー。キラキラ。いつもの彩音だ。
「凛は断らない」とまだ信じている彩音。
指が動いた。
「ごめん。明日は予定がある」
送信。絵文字はつけなかった。
既読がつくまでに時間がかかった。凛はその沈黙を見つめた。彩音が今どんな顔をしているか想像できた。イブに恋人である凛が彩音以外との予定がある。彩音の世界では起きるはずのなかったこと。
返信が来た。
「え? 誰と?笑」
軽い聞き方、でもその軽さは本物ではないと凛にはわかった。
「友達と撮影に行く」
嘘ではない、嘘では。友達の範疇を超えていることは凛自身がいちばんわかっているけれど、彩音にはまだ何も告げていないのだから、今はこう返すしかない。
彩音の既読がついた。返信が来るまでにやはり時間がかかった。
「ふーん⋯⋯じゃあ25日は?」
凛はスマホを枕元に置いた。
「まだわからない。また連絡する」
送信して別のトーク画面を開いた。瀬名とのトーク画面にはたくさんのやりとりの下に、今日のメッセージが並んでいる。
凛はスマホを置いて天井を見た。胸の中にあるのは罪悪感でも解放感でもなく、ただ静かな確認だった。自分がどこに立っているか、もう迷っていない。
*
翌日のクリスマスイブ。
瀬名の部屋には少しだけ早くついた。凛はコートの前を合わせながら瀬名がドレッサーの前で髪を結んでいるのを見ていた。
「瀬名」
「ん?」
「⋯⋯行こう。寒くなる前に」
瀬名は鏡の中で笑った。いつもの笑み——ではなく、少しだけ柔らかい笑み。
「はいはい。最高の被写体がいないと行く気にならないからね」
「⋯⋯被写体って、私のこと?」
「他に誰がいるの」
凛が耳を赤くして目を逸らした。瀬名はコートを取って、カメラバッグを肩にかけた。
街がきらめいていた。
駅前の並木道にはイルミネーションが灯り、白と金色の小さな光が枝の一本一本に巻きつけられて、風に揺れるたびに光の粒が散っていた。真冬の空気は冷たく澄んでいて光がいっそう鮮明に見える。
歩道の両側には光のトンネルが続いていてカップルや家族連れが行き交っては、スマホを掲げて写真を撮っている。
その中に混じって瀬名はカメラを構えた。
「凛、あの木の前に立って」
凛は言われた場所に立った。イルミネーションの光を背負って、黒いコートの凛が光の中に浮かび上がる。黒髪に金色の光の粒が反射して星を散りばめたように光っていた。
切れ長の目がレンズを見ている。瀬名のレンズを真っ直ぐと。
シャッターを切った。一枚。二枚。三枚。
「もう少し右。⋯⋯そう。顎、ちょっと上げて」
凛は素直に従った。以前の撮られることに慣れていなかった凛であれば「⋯⋯もういいでしょ」と二、三枚で切り上げさせた。レンズを向けられると居心地悪そうに目を逸らして「他の人、撮ったほうがいいよ」と言って逃げた。
今の凛は逃げずに瀬名のレンズの前で自然に立っている。「こっち向いて」に応じ「もう少し右」に体の角度を微調整する。撮られることを楽しんで瀬名に見られることを受け入れている。
ファインダーの中の凛が、少しだけ微笑んだ。
切れ長の目尻がほんのちょっと緩んで、口元がほんの数ミリ上がっただけの控えめな笑み。他の誰にも見せない顔がレンズ越しに瀬名だけに向けられている。
シャッターを切る指に力が入った。
「⋯⋯瀬名」
「ん?」
「⋯⋯こっちのほうが光がいいんじゃない? さっきの木の下」
瀬名のシャッターを切る手が止まった。
一瞬だけ目を閉じてそれからファインダーから目を離して、凛を見た。
「——うん。行こう」
凛は枝の先端まで白い光が巻きついた大きな木の下に立った。光が真上から降り注いで凛の黒髪が金色に縁取られている。それはまるで光の中から表れた王子様のように、凛はカメラのレンズではなく瀬名を見ていた。
シャッターを何枚も切った。凛の笑顔を。凛の横顔を。凛が光の中で瀬名を見つめている顔を。
ファインダーの中で凛が笑うたびに瀬名の胸の奥で何かが締めつけられた。幸福に似た痛み。この顔を守りたい。この笑顔を、誰にも奪わせたくない。
——今夜、言わなきゃ。
カメラを下ろした。
*
撮影の後、並木道の端にあるベンチに二人で座った。
木製のベンチは冷たくて座った瞬間、コート越しに冬の温度が伝わってくる。でもすぐに凛の肩が瀬名の肩に触れて、その接点から温度が生まれた。
吐いた息は白くイルミネーションの光が二人の顔を金色に染めあげる。遠くから聞こえる並木道を歩く人々の笑い声を背景にして瀬名は凛の横顔を見た。
星型のヘアピンが前髪の横で光を反射している。凛はこのヘアピンを毎日着けているが、彩音の前でも外さないという選択をしたことを瀬名は知らない。
「凛」
「⋯⋯うん」
「そろそろ、決めよう」
凛の呼吸が止まって白い息が途切れる、隣の肩がわずかに強張るのが伝わってきた。
瀬名はまっすぐ前を見ていた。イルミネーションの光が視界いっぱいに広がっている。金と白の光の粒が夜の中で揺れていて綺麗だった。
綺麗で、冷たくて、今から言おうとしていることの重さとは釣り合わない景色だった。
「都合の良い女でいいって言ったの、覚えてる?」
「⋯⋯覚えてる」
「あれ、最初から嘘だった」
声は平坦で感情を乗せなかった。乗せたら崩れる気がしたから。
「そう言えば凛が断れないってわかってて言った。凛が押しに弱いのも、好意を無碍にできないのも、全部知ってて」
凛の視線が自分に向いているのを感じながら、瀬名は前を向いたまま続けた。
「——最低でしょ?」
凛は何も言わずに瀬名の横顔を見ている。瀬名はその視線を受け止めながら言葉を押し出した。
「でもね。途中から嘘じゃなくなった」
声が少し揺れた。制御が甘くなっている。
「都合のいい女でもいいから凛のそばにいたいって、本気で思うようになった。いつからかは自分でもわかんない。気づいたときには、もう手遅れだった」
白い息が二つ、夜の空気に溶けていく。
「——それでも凛の全てがほしいって気持ちは消えなかった。最初から、ずっと、全部ほしかった」
瀬名は凛の手を取った。ベンチの上で凛の右手に自分の左手を重ねて指を絡めた。凛の手は温かくて、もう冷たくない。いつも冷たかった凛の手、その温度の変化がこの数ヶ月の全てを物語っている。
握る力を少し強くした。
「彩音さんと、ちゃんと話して欲しい」
ここからが苦しかった。言いたくない言葉が喉の奥に引っかかっている。でも言わなければならない。凛に選択権を渡さなければならない。凛が自分の意志で選ぶこと。
それが——あの夜、妨害しないと決めたときに生まれた「祈り」の、本当の意味だから。
「それで彩音さんを選ぶなら——」
声が詰まった。
——嘘だ。引けない。もう無理だ。この子なしでどうやって生きていけばいいかわからない。この子の手の温度を知ってしまった。この子の声を知ってしまった。この子の寝顔、笑顔、ムッとした表情、全部知ってしまった後で、どうやって手放せばいい。
でも、凛から「自分で選ぶ」ことを奪ったら瀬名 蒼は彩音に負けた気がした。凛の心を無視して、凛を所有物のように扱った人間と同じ。
「——私は引く。つらいけど、引く」
声が掠れた。最後の「引く」は、ほとんど吐息だった。
「でも、私を選んでくれるなら——」
瀬名は凛を引き寄せた。繋いだ手を引いて、凛の体をこちらに向かせて、額と額をくっつけた。凛の吐息が瀬名の唇にかかって白い息が二人の間で混じって溶ける。
瀬名の目が近い。凛の目が近い。互いの瞳の中にイルミネーションの光と相手の顔が映っている。
瀬名の目は潤んでいた。
「——ちゃんと、幸せにする。約束する」
約束。
瀬名 蒼が凛に初めて使う言葉だった。
瀬名の「祈り」が形を変えて、ようやく言語になった。誰かの幸せを自分の責任として背負うと宣言する言葉。重くて、不器用で、瀬名らしくない言葉。
でも、これしかなかった。
長い沈黙が落ちた。イルミネーションの光が瞬いて遠くからクリスマスソングが聞こえる中、ベンチの木の冷たさが二人の体温で温まっていく。
凛がゆっくりと口を開いた。
「⋯⋯瀬名」
「うん」
「私、瀬名がいい」
声は小さかった。でも震えていなかった。凛の声は確かだった。
「瀬名が見せてくれた私が——本当の自分だと思うから」
その言葉を聞いた瞬間、瀬名の目から涙がこぼれた。
堪えられなかった。「瀬名がいい」で胸の奥で弾けて「本当の自分」という言葉が追い打ちをかけて、瀬名の中のあらゆる防壁を突き抜けていった。
凛が見ている前で泣いている。かっこ悪い。最低にかっこ悪い。でもどうしようもない。
凛の右手が伸びてきた。親指が瀬名の頬に触れて涙を拭う動作。ベッドの上で瀬名の目元に触れたのと同じ指。
「⋯⋯泣いてる」
「泣いてない」
「また嘘」
「⋯⋯うるさい」
声が裏返った。涙声を隠せていない。全然隠せていない。
凛が小さく笑った。目尻が下がって、口元が上がって、耳が赤くなって。イルミネーションの光の中で、凛が笑っている。
涙で視界がぼやけたまま瀬名も笑った。額がくっついたまま。白い息が混ざったまま。手を握って、互いの温度を感じて。言葉はもう十分だった。
――しばらくそうしていたが、凛がゆっくりと身を離してポケットからスマホを取り出した。
瀬名が見守る中、スマホを操作する指が彩音のトーク画面を開く。
「話がある。明日会えない?」
送信。凛の指はしっかりとボタンを押していた。凛の意志で打った文字と自分の意志で送った言葉で。凛が自分で選んで、自分で動いた。
「⋯⋯送った」
「うん」
「⋯⋯怖くない、って言ったら嘘だけど」
「うん」
「でも、もう決めたから」
瀬名は凛の手を握り直した。冷たい夜の空気の中で二人の手だけが温かい。
「隣にいるよ。ずっと」
凛は頷いた。小さく。でも確かに。
イルミネーションの光が二人のベンチを照らしていた。金色の光の中で瀬名は河川敷で初めて見た凛の横顔を思い出していた。あの日の凛にはなかった柔らかさが今の凛には宿っている。
——手に入れた、ではない。
この子が自分で選んでくれた。
それが「祈り」の答えだった。




