第20話 凛の開花
瀬名の指が凛の首筋に触れた。
いつもの順番――鎖骨から耳の下に向かって指の背で撫で上げる。凛の身体はもうこの手順を知っている。一度目の夜は緊張で硬直していた場所。二度目の夜は触れた瞬間に震えた場所。
三度目の今夜——凛が首を傾けた。
瀬名の唇のために場所を空けるように。鎖骨から顎の線まで続く首筋の白い肌が、瀬名の前に差し出された。凛の頭が左に傾いで右側の首筋が無防備に露出する。
無意識の動作だった。凛自身はたぶん気づいていない。瀬名の手が首筋に触れるという予感に、凛の身体が先回りして応えた。「ここに触れて」と身体が自分から招いている。
瀬名の呼吸が一瞬乱れた。
「凛。今の、自分でわかってる?」
「⋯⋯なに」
「首、傾けたの。私が触りやすいように」
凛の目が丸くなった。身体が何をしたのかを頭がようやく認識した顔。みるみるうちに耳が赤くなり、首筋にまで赤みが広がった。さっき自分が差し出した、その首筋に。
「⋯⋯っ、してない」
「したよ。——もう一回して」
「⋯⋯やだ」
「じゃあ私からするね」
瀬名は凛の首筋に唇を落とした。耳の下の柔らかい皮膚に唇を押しあてて、ゆっくりと吸う。凛の喉から小さな声が漏れた。
「ん——」
そして凛の身体が、また同じ動作をした。首が傾いて瀬名の唇に場所を空けて、もっと深くと誘うように。今度は凛も気づいている。気づいているのに止められない。身体が勝手に瀬名を受け入れている。理性よりも先に、皮膚が、筋肉が、瀬名を求めている。
「⋯⋯ほら」
「⋯⋯うるさい」
「もう、可愛い⋯⋯」
瀬名の唇が首筋を這った。耳の下から鎖骨に向かって刻みつけるようにキスの痕を点々と落としていく。一つ落とすたびに凛の肩が震えて、呼吸が浅くなって指先が瀬名の髪を掴む力が強くなる。
「あ、⋯⋯んっ」
凛の声が漏れた。堪えようとして——途中で、やめた。堪える代わりに声をそのまま吐き出した。瀬名が「聞かせて」と言うのを待たなかった。
瀬名は首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸元へと唇を滑らせた。服の上からではなく直接肌に。凛のインナーはもう肩までずれ落ちている。
「⋯⋯ん、せな⋯⋯」
凛の声に抵抗の色はなかった。名前を呼ぶその声は最初の夜とはまるで違っていた。あの夜は「せな」と呼ぶだけで精一杯で押し殺して、絞り出して、自分の声に自分で驚いていた。今夜の凛は名前を呼ぶことに躊躇いがない。声が自然に喉を通って瀬名の耳に届いている。
「せな⋯⋯ここ、気持ちいい⋯⋯」
瀬名の手が止まった。
凛が——自分から場所を指定した。瀬名に聞かれたからでも追い詰められたからでもない。自分が何を求めているかを、自分の言葉で伝えた。
瀬名に「言って」と促されてようやく消え入りそうな声での「気持ちいい」が、今夜は自ら「ここ」と。「気持ちいい」と。自分の快楽を認めてそれを瀬名に渡している。
瀬名の胸の奥で歓びとも興奮ともつかない、もっと深い場所にある感情が沸き上がってきた。この子が変わっていく。この子が自分で自分の蓋を開けていく。その過程を見ている——いや、その過程の中にいることが、どうしようもなく愛おしい。
「——可愛い。凛、すごく可愛い」
声が低くなっていた。自分でもわかるくらい、声が震えていた。
凛が求めた場所に凛が求めた強さで瀬名は応える。凛の身体が言葉と、声と、反応で瀬名に教えてくれる。凛という楽器が自分で音を出し始めている。瀬名が鍵盤を押さなくても、凛の身体は自分で旋律を奏で始めている。
「ここ?」
「⋯⋯ん、もっと⋯⋯」
「もっと? こう?」
「——あ⋯⋯そう、そこ⋯⋯っ」
凛の腕が瀬名の背中に回った。余裕を失ってしがみつくのではなく、おずおずと遠慮がちでもなく、凛の腕は自分の意志で瀬名を抱き寄せていた。背中に回した両腕でしっかりと引き寄せて離さないように。
瀬名は凛の身体に唇を這わせた。もっと。もっと深く。凛が声を上げるたびに、その声を拾って次の場所に進んだ。凛の声は瀬名への道しるべ――「ここ」と「もっと」と「そこ」で描かれた、凛の快楽の地図。
「あ——せな、せな⋯⋯っ」
「凛、かわいい。ねえ、すごくかわいいよ」
「⋯⋯っ、ん⋯⋯もう、なんでも⋯⋯かわいいって、言う⋯⋯」
「かわいいから、しょうがないでしょ」
凛が笑った。息をつく間に壊れかけた声の隙間に、笑いが混じった。恥ずかしくて、嬉しくて、気持ちよくて、全部が混ざった笑い。
瀬名はその笑い声を唇で塞いだ。深く――凛の舌が自分から応えてきた。もう教えなくていい。凛の身体が知っている。凛の唇が知っている。
*
瀬名の唇が凛の体から離れたとき、凛は息を荒くしていた。
仰向けのまま瀬名を見つめている。瀬名の手は凛の腹部に置かれていて温かい。凛の身体はまだ熱を帯びていて、汗が薄く浮いていて、呼吸が整わない。
瀬名の目はそんな凛を見つめていた。いつもの鋭い眼差しといつもの口角の上がった口元。でも目の奥に計算とは違うものが灯っているのを凛は知っている。
凛はゆっくりと身体を起こした。それから瀬名を押し倒して——瀬名の上に移動する。
突然の行動に驚く瀬名を尻目に凛は見下ろすようにして瀬名の腰へまたがった。二人の呼吸が混じる距離で凛の汗が瀬名の肌に落ちる。
今まで凛はいつも「下」にいた。瀬名が導き、凛が受け止める。瀬名が求め、凛が応える。その構図が——今、逆転している。自分の意志で凛が上にいる。
「り、凛?」
瀬名は何が起こっているのか分からないというように凛を見上げた。ダークブラウンの髪は乱れてシーツの上に広がっていて、目がわずかに丸くなっている。
「⋯⋯瀬名にも、したい」
凛の手が瀬名の鎖骨に触れた。前回は指先がおずおずと迷っていたがもう迷わない。瀬名の身体を覚えている。どこを触れば瀬名の呼吸が変わるか、どこを触れば瀬名の声が漏れるか。凛の指がその説明書を記憶している。
首筋。指先でなぞると瀬名の喉が動いた。嚥下の動作。
耳の裏。指先で包むように触れると瀬名の肩の力が抜けた。
鎖骨の下。指の腹で軽く押すと——
「⋯⋯ん」
瀬名の声が漏れた。小さな、制御を外れた声。
「瀬名、ここ、好きでしょ」
凛は瀬名の目を見ていた。瀬名を見下ろしながら瀬名の反応を観察していた。ファインダー越しに被写体を捉えるときの、あの集中した目。凛が世界を切り取るときの目が、今は瀬名の身体に向けられている。
「⋯⋯っ。凛、いつの間にそんな」
「全部覚えてるに決まってるでしょ」
瀬名が目を瞬いた。
瀬名が凛に言った台詞が凛の口から返ってきた。同じ言葉、同じ温度でも立場が逆転している。瀬名が仰向けで凛が上にいて、凛の指が瀬名の身体を知り尽くした手つきで辿っている。
瀬名は仰向けのまま凛の操縦に身を任せた。凛の垂れた髪が頬にかかって切れ長の目が瀬名を見下ろす。
その目は——自分の欲求を自覚した人間の目、瀬名を愛したいという欲望が飾らないまま、そのままの形で瞳の中に灯っていた。
瀬名の目の奥が熱くなった。
この子が自分から手を伸ばしている。自分の欲求と自分の意志で瀬名が開けてきた蓋の下から、凛自身の欲望が芽を出して今、花を開こうとしている。
「甘えたい」「守られたい」「触れたい」 凛がずっと押し込んできたものが、凛の指先から溢れ出ていた。
凛の指が瀬名の肋骨をなぞって瀬名の背中が反る――声が漏れた。凛の指はそこで止まらない。腰へ、脇腹へ、瀬名が息を呑む場所を一つずつ確かめながら、丁寧に、でも確信を持って。凛の手はもう迷子ではなかった。
「凛⋯⋯っ、そこ⋯⋯」
「⋯⋯ここも?」
「⋯⋯っん」
「瀬名の声、好き」
瀬名の心臓が痛いほど鳴った。凛は鳴らされる側ではなく、鳴らす側として瀬名の声を引き出すことに喜びを感じている。
——ああ、もう。
瀬名は凛の手首を掴んで後頭部を自分の方に引き寄せると唇を重ねた。
舌が絡んで、息が混じって、凛の手が瀬名の頬を包んだ。凛の親指が瀬名の目尻を撫でた。濡れているかどうか確かめるように。
唇が離れる。糸を引いて。互いの吐息が混じる距離で、瀬名は凛を見た。
「凛」
「⋯⋯なに」
「好き。すごく好き。大好き」
言い慣れた台詞ではなく今、この瞬間に胸から出てきた言葉。三つの「好き」を重ねなければ伝わらない気がした。
凛は瀬名を見つめて数秒。瀬名の目の中に自分が映っているのを見て——少しだけ、微笑んだ。口元がほんの少し上がって、目尻が緩んで、さっきまで赤かった耳がさらに赤くなって。
「⋯⋯私も」
小さな声だった。凛の口から出た「好き」は二文字に圧縮されていた。でも瀬名には聞こえた。凛が初めて「好き」を自分の言葉として口にした瞬間が、瀬名の鼓膜に届いた。
瀬名は凛の顔を両手で包んで額と額をくっつけた。凛の吐息が瀬名の唇にかかり凛の鼻先が瀬名の鼻先に触れる。
「もう一回」
「⋯⋯やだ」
「一回だけ」
「⋯⋯さっき言った」
「聞こえなかった」
「嘘つき」
「嘘じゃない。もう一回」
凛が目を閉じた。瀬名の額に自分の額を押しつけたまま、息を吸った。
「⋯⋯好き。瀬名が、好き」
瀬名は凛の唇を塞いだ。もう言葉はいらなかった。凛の唇が応えて、凛の手が瀬名の髪に差し入れられて、瀬名の手が凛の腰を抱いて、二人の身体が溶け合うように重なった。
蕩けるようなキスだった。どちらが上でも下でもない。どちらが求めてどちらが応えてもいない。二人の唇が同じ強さで、同じ深さで、互いを求めている。対等な初めてのキス。
唇が離れたとき二人とも息が上がっていた。見つめ合って——凛が瀬名をベッドに押し倒した。
瀬名は笑った。笑いながら凛の背中に腕を回した。凛の唇が瀬名の首筋に落ちてきて、瀬名の声が漏れて、凛の手が瀬名の身体を辿って二人の声が重なった。
*
天井に、エアコンのランプが緑色に光っている。
二人はブランケットで身体を覆いながら並んで横たわっていた。凛の頭は瀬名の左腕の窪みに収まっていて凛の右手が瀬名の腰に回されている。いつもの姿勢で瀬名は、やはり凛の髪を梳いていた。
しばらく言葉がなかった。凛の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。汗が引いて、体温が落ち着いて、でも身体は離れない。
「⋯⋯私、変わったよね」
凛がぽつりと言った。声は低くて穏やかだった。
「うん」
「瀬名のせいだよ」
「知ってる」
凛が瀬名の腰に回した手に少し力を込めた。
「⋯⋯責任、取ってよ」
瀬名は凛の頭を抱き寄せて額に唇を落とした。凛の前髪がくすぐったかった。
「取るよ。一生」
冗談めかして言ったつもりだった。でも声はまっすぐでそれが本気の証拠だと瀬名自身にもわかっていた。軽口なら声が弾む。策略なら声が柔らかくなる。本気のときだけ瀬名の声は凪いだ水面みたいに静かになる。
凛は言葉の代わりに瀬名の手を握った。いつもの仕草、凛が言葉にできないものを預ける場所。
でもその手は確かな力で離さない、と。選んだ、と告げるようだった。
瀬名は凛の髪を撫でながら天井の緑色のランプを見つめた。この子が隣にいる。この子が自分を選んだ。この子が自分で蓋を開けて、自分の欲望と向き合って、自分の声で「好き」と言った。
——責任、か。
一生。自分で言った言葉を噛みしめた。最初から冗談なんかじゃなかった。
瀬名は目を閉じた。凛の体温を感じながら「一生」という言葉の重さを胸の中で量っていた。重い。重いけれど——その重さが、悪くなかった。




