第19話 安心と空洞
忘年会の後片付けは、いつも同じ手順で進む。
紙皿を集めて、紙コップを集めて、テーブルを拭いて窓を開けて換気する。サークル部室に染みついた揚げ物とビールの匂いが十二月の夜気に少しずつ薄められていく。
他の部員はほとんど帰っていた。瀬名も二次会に流れる集団に混ざって出ていったが、凛とすれ違いざま、ほんの一瞬だけ目が合った。唇の端だけで笑って何も言わずに夜の中へ消えていく。あの笑い方をされると胸の奥が熱くなる。
残っているのは凛と真帆だけだ。真帆が「帰っていいよ」と他のメンバーを先に送り出して、二人になった。
凛がゴミ袋の口を結んでいると真帆がテーブルを拭きながら、ちらりとこちらを見たのがわかった。
視線の先は前髪の横――星型のヘアピン。今までの凛ならしなかったオシャレ、真帆はそれについて何も言わず、ただ視線を外してテーブルに戻った。
「凛、最近どう?」
さっぱりした声。真帆はいつもこうだ。核心に近い話題を、世間話みたいな温度で差し出してくる。
「⋯⋯どう、って」
「彩音ちゃんとは?」
ゴミ袋を結ぶ手が止まる。結び目が中途半端なまま、指が動かない。
「⋯⋯わかんない」
自分の声がやけに遠い。
「もう、よくわかんなくなってる」
真帆はテーブルを拭く手を止めなかったが耳はしっかり傾けていた。真帆は凛の言葉を待てる人で急かさず、掘り返さない。ただ扉を開けたまま立っていてくれる。
「前にも言ったけどさ」
真帆の声は穏やかだった。
「自分がどうしたいかだよ。ぜんぶ取っ払って——凛自身が、どうしたいの」
ぜんぶ取っ払って。
彩音への義理と罪悪感。瀬名への後ろめたさと恋心。その一切を剥がしたら一番下に何が残るのか。
凛はゴミ袋を床に置き、パイプ椅子に腰を下ろした。膝に肘をついて俯く。
「⋯⋯ずっと、我慢してた」
自分の耳にもぎりぎりの声だった。
「言いたいこと言えなくて」
「うん」
「気づかないふりして」
「うん」
「それが正しいって⋯⋯思ってた」
喉の奥がつかえる。言葉にするのは、いつだって苦しい。頭の中にあるものは口を通るとき半分以上が欠けて、形が歪んで、自分の気持ちとは違うものになって出ていく。でも今夜は、欠けてもいいから出したかった。
「⋯⋯好きだから我慢する。それが愛情だって」
「⋯⋯違った?」
真帆の問いかけは短い。凛に考える隙間をくれる問い方。
「⋯⋯瀬名と、一緒にいて」
名前を口にしただけで、胸の奥がじんと熱くなる。
「感じた。我慢は⋯⋯愛情じゃなかった」
「じゃあ何だった?」
「⋯⋯怖かっただけ」
声が震えた。
「嫌われるのが怖い。一人になるのが怖い」
自分で驚くほどに言葉は溢れた。それはたぶん、ずっと思っていたことだったから。
「だから言えなかった。それだけだった」
沈黙が部室に降りてきた。窓から流れ込む冷気が凛の前髪を揺らし、星型のヘアピンが蛍光灯の光を受けて小さく光る。
「瀬名は」
膝の上で手を握った。
「⋯⋯何を言っても、どんな顔しても。全部好きって、言うんだ」
「うん」
「我慢しなくていい場所があるって⋯⋯教えてくれた」
それを知ってしまったら戻れない。瀬名の腕の中の温度も、声の振動も、指が触れたあとに残る熱も、身体が全部覚えていて、忘れ方を教えてくれないから。
「もう、我慢したくない」
顔を上げて、真帆の目をまっすぐ見た。
「自分で⋯⋯選びたい」
真帆は驚いた顔をしなかった。凛の肩に手を伸ばして、ぽん、と一度だけ叩く。
「——それでいいんじゃない。遅くないよ」
それだけで十分だった。真帆が窓を閉めに行き、凛はゴミ袋を結び直す。二人の間に気まずさはない。言葉は少なかったけれど空気が澄んでいた。
*
ある日、彩音からメッセージが届いた。
「熱出ちゃった。つらい」という文字の後に泣き顔のスタンプが三つ。
薄ぐらい部屋に浮かぶスマホの光を、しばらく見つめていた凛は彩音へ返信するまえに瀬名へメッセージを走らせた。
「彩音が体調崩したって。⋯⋯看病に行こうと思う」
既読がすぐついて――返信は三〇秒後。いつもより少しだけ遅い。
「行きなよ」
その四文字の前に、一度打って消された言葉があったのかもしれない。わからない。わからないけれど瀬名が時間を必要としたことだけは、四文字の温度から伝わった。
彩音のアパートまでは電車で二十分、駅から七分。冬の夜風が頬を刺すのを感じながらコンビニでポカリスエットとゼリー飲料を買って、ビニール袋を提げて玄関の前に立った。
インターホンを押すと「開いてるー」と掠れた声が返ってくる。
ドアを開けた途端、暖房の温もりと甘い芳香剤の匂いが押し寄せた。彩音の部屋はいつもこの匂いがする。以前は「ああ、彩音の部屋だ」という感覚を連れてきた匂い。今はただ、甘い。
ベッドルームに入ると彩音がブランケットにくるまっていた。顔が赤く、額に熱さまシートが貼ってある。潤んだ大きな目が凛を見上げる。
「凛⋯⋯来てくれたんだ。ありがとう」
「⋯⋯うん。おかゆ、作るよ」
キッチンに立つ。彩音の家に来た時には毎回、凛が何か作るからどこに何があるかは身体が覚えている。棚から鍋を出し、米を洗い、水を張って火にかける。包丁を出して生姜を薄切りに。梅干しを一つ。彩音は梅干し入りが好きだから。
鍋の中で米が踊り始める。蓋を少しずらし、弱火に落として、しゃもじでゆっくりかき混ぜた。
勿論、手は抜いていないし丁寧にやっている。以前と同じ分量、同じ火加減、同じ工程で何ひとつ変わらない。
変わったのは、この手を動かしているものだった。
以前は彩音に温かいものを食べさせたくて作っていた。「おいしい」と笑う顔が見たくて、喜ぶ姿が見たくて。でも今は手順を遂行しているだけ、やるべきことを、やるべき通りにやっている。
おかゆを器に盛り、トレイにスプーンと一緒に載せてベッドサイドに運ぶ。
「⋯⋯食べられそう?」
彩音がゆっくり起き上がる。ブランケットを肩にかけたまま、トレイを引き寄せ、スプーンでおかゆをすくい、ふうふうと息を吹きかけてから口に入れた。
「⋯⋯おいしい。凛の作るおかゆ、好き」
「⋯⋯よかった」
凛はベッドの端に座って彩音が食べるのを見ていた。スプーンが器の中を行き来する音。嚥下の音。静かな部屋に小さな音だけが積もっていく。
「やっぱ凛がいると安心するぅ」
甘えた声――何も、感じなかった。
今までなら胸が温まった一言のはずだった。必要とされている、彩音の安心出来る場所でいられている——それが嬉しくて、その温かさを愛情だと信じていた。
その声がどこか遠くで鳴っている。音は聞こえるし意味もわかる。なのに胸の内側まで届いてこない。
どこか心ここにあらずのままでいると彩音が凛の手を握った。熱で火照った手のひらが、いつもより少し湿っている。
凛はその手を握り返せず、手のひらを合わせるように添えた。
拒んだわけでも払いのけたい訳でもない。ただ指に力が入らない。彩音の手の中に凛の手がある。あるだけで形だけがそこに収まっている。
瀬名の指が絡むときはまるで違った。何も考えなくても手が勝手に応えて、反射みたいに握り返して、離したくなくて指先まで熱くなる。
同じ手なのに。
凛は自分の右手を見下ろした。彩音の手に包まれた自分の右手。頭の中でどれだけ迷っても、この手はとっくに答えを出しているみたいだった。
「⋯⋯おかゆ、冷めないうちに全部食べて。ポカリは冷蔵庫に入れてある」
「え、もう帰っちゃうの?」
「⋯⋯うん。明日早いから」
「えー、もうちょっといてよ」
甘く引き留める声に以前の凛なら負けていた。「もうちょっと」に従い、ベッドの端に座り直して彩音が眠るまで手を握りながら見守っていただろう。
「⋯⋯ごめん。お大事に」
少し拗ねたような表情をする彩音を置き去りに、洗い物を終えたあとコートへ袖を通して部屋を出た。
廊下の空気が冷たかった。十二月の夜の冷気が肺の奥まで沁みてくる。
スマホを取り出して瀬名とのトーク画面を開いた。
「今から帰る。大丈夫だった」
送信――既読がつくまですぐ、返信はさらに早かった。
「おかえり。寒いから温かくして、気をつけてね」
凛は画面を見つめた。冬の路上でスマホの光に照らされた顔がじわりと温かくなっていく。頬が、耳が、胸の奥が。
さっきの「安心する」では微動だにしなかった心臓が、たった一回のやりとりで脈を取り戻している。「大丈夫だった?」とは聞かない。「早く帰っておいで」とも言わない。ただ「おかえり」と、ただ「温かくして」と。短くて、押しつけがましくなくて、それでいて確かに繋がっている人の言葉。
凛はスマホをポケットにしまい、駅へ向かって歩き出した。風は冷たいけれど胸の内側だけが、ずっと温かかった。
*
玄関のドアが閉まる音を聞いて、彩音はブランケットの中で小さく息をついた。
暖房の温もりに包まれて、おかゆの温かさがまだ胃の中にある。キッチンからはかすかに料理の残り香が漂ってきて、覗けばきっと鍋が洗って伏せてあるのだろう。凛はいつもそうする。使ったものを黙って片付けて何も言わずに帰る。
——ちゃんと来てくれた。
ここ最近、ずっと引っかかっていたものがある。ラインの返信が遅くなったこと。デートを断られたこと。凛のスマホに知らない女の名前が光ったこと。
だから今夜の「熱出ちゃった」は、ただの連絡ではなかった。正直に言えば試していた。凛が来るか来ないか。来てくれたら——大丈夫だと思えるから。
凛は来た。おかゆを作って、ポカリを冷蔵庫に入れて、鍋を洗って帰った。
来てくれた。だから大丈夫。凛はまだここにいる。まだ私の——。
でも「もうちょっといて」は聞いてもらえなかった。前の凛なら二つ返事で残ったのに。「明日早いから」と言われて、それ以上は引き留められなかった。引き留めるための言葉を彩音は持っていなかった。
「行かないで」も「寂しい」も本当だけれど、なんだか凛に縋っているみたいで言いたくなかった。
胸の奥に小さな棘が残っている。来てくれた安心と早く帰られた不安が混ざって、どちらとも言えない温度の塊が胸の底に沈んでいる。
彩音はその塊をじっとは見つめない。見つめたら何か嫌なものが見える気がする。代わりに視線を枕元へ走らせた、画面を上に向けたまま転がっているスマホ。
凛ではない相手のトーク画面を開いて指を動かす。三十八度の熱があるとは思えない滑らかさで。
「凛が看病しに来てくれた。やっぱり優しい」
送信。
「おかゆ作ってくれた」
送信。
指が一瞬止まった。さっきの凛が部屋にいた時間を思い出す。
温かくて安心して守られている——この感覚に似たものをふと思い出した。小さい頃に熱を出して母親がりんごを擦ってくれた夜の安心感。寝込んでいるところに来てくれて、温かいものを作ってくれて、身の回りを整えて静かにいなくなる。帰ったあとに残るのは感謝と安堵であって、もう一度会いたいという焦がれではない。
「凛ってなんかお母さんみたいなんだよね笑」
送信。
「安心するけどドキドキしない ていうか笑」
送信。
スマホを胸の上に置いて返信を待つ。枕元ではおかゆの器がベッドサイドのテーブルに残されている。半分ほど食べたところでスプーンを置いたまま。湯気はとうに消えて、表面に薄い膜が張り始めていた。梅干しの赤が白い粥にじわりと滲み、丁寧に刻まれた生姜の薄片が固まりかけた中にぽつんと沈んでいる。
スマホが震える。彩音は弾かれたように画面を覗き込んだ。
「じゃあ会いたくなったらおいで笑 ドキドキさせてあげる」
顔がぱっと明るくなって指が踊るようにメッセージを打ち始める。
胸の底に沈んでいた棘のことは、もう忘れていた。




