第18話 亀裂の自覚(彩音)
最初の異変は、ラインだった。
既読がつくのが遅くなった。以前の凛は——彩音が送ったメッセージに対して十分以内に返信をくれた。講義中でも、サークル活動中でも、凛のスマホは彩音の通知に忠実だった。
「了解」「わかった」「何時がいい?」言葉数はけして多くはないけれど返信の速度が凛の誠実さだった。
それが変わったのは十二月に入る前ぐらいから。
既読がつくまで一時間、下手をすればそれ以上。返信はさらにその一時間後なんてこともあった。
「ごめん、気づかなかった」という添え書きも一度ならわかる。二度ならまだ許せる。でも三度、四度と続くと「気づかなかった」は明確な嘘でしかなかった。今まで即座に返信していた人間がそんなうっかりを続ける訳がないのだから。
次に凛との週末が消えた。
土曜日のデートがキャンセルされた。理由は「サークルの用事が入った」から。
翌週の日曜日もキャンセルされた。「課題が立て込んでる」らしい。
凛は理工学部だから課題が多いのは本当だろう。でも凛はこれまで課題を理由にデートを断ったことなんて一回もなかった。夜中まで製図をやっていても、朝にはケロッとした顔で待ち合わせ場所に立っている。そういう子だから。
そして——夜。
久しぶりに彩音のアパートで凛と過ごした日。映画を観て、ソファで並んで、彩音が凛の腕に頭を預けて、その流れで——彩音が凛の口元にキスをしようとせまったとき。
「⋯⋯ごめん、ちょっと疲れてる」
凛がやんわりと彩音の動きを制した。行き場を失った彩音の唇が、宙に残された。
「⋯⋯そっか」
笑顔で返した。返せた。そのくらいの余裕はまだあった。でも胸の奥で何かが小さく軋んだ。凛が自分を拒否した。凛が彩音のすることに抵抗したのは初めてのことだった。
翌日も、その翌日も、彩音はその軋みについて深く考えなかった。考えないようにした。凛は疲れているだけ。年末は忙しいから。それだけのこと。
——それだけの、はずだった。
*
十二月中旬に入ったころ。午後の講義が終わった後に彩音は凛をカフェへ誘った。大学から一駅離れたチェーン店、前ほどじゃないけど二人でよく来る場所。凛はいつも彩音が選んだ店に黙ってついてくる。
向かい合って座ると凛がブレンドコーヒーを彩音がキャラメルラテを頼んだ。
それはいつも通り——のはずなのに、凛の空気がなにか違う。
何が違うのか、最初はわからなかった。凛は寡黙でもともと言葉数が少ない。カフェで向かい合っても凛から話題を振ることは稀で、彩音が喋って凛が聞く。それがいつもの形だった。
今日も凛は黙っている。でもその黙り方がどこかおかしい。以前の凛の沈黙は「言葉が出てこない」みたいな沈黙で目は合わなくても、身体が彩音に向いていた。
今日の凛は、窓の外を見ている。
視線が彩音を通過していく。彩音の声が凛に届いているのかも怪しかった。ここにいるのに、ここにいない。凛の意識が彩音とは別の場所に繋がっている、そんな雰囲気。
「ねえ凛、聞いてる?」
「⋯⋯あ、ごめん。なに?」
「だから、来週の——」
そのとき凛のスマホが震えた。テーブルの上で画面が一瞬光って通知バナーが表示された。
彩音の目が反射的にそこに向いた。読めたのは一瞬。名前だけ。
『瀬名』
凛の手がスマホに伸びた後に、その内容を確認することなく画面を下にしてテーブルへ伏せた。それは何気ない自然な動作だった。
——あ。
彩音の血の気が引いた。指先から温度が消えていく。心臓が鷲掴みにされて、次の拍動が喉元まで上がってきたような感覚。
その動作を、彩音は知っていた。
何気ないふりをしながらスマホを伏せて画面を隠す。それは真由子からの通知が凛の前で鳴ったとき、彩音が自然にとっていた動作と酷似していた。
ともすれば寸分違わず同じ動きだったかもしれない。角度も、タイミングも「別に見られても困らないですよ」という顔の作り方も。
彩音は今、自分がやってきたことを凛にされていることを直感した。
「⋯⋯凛」
「ん」
「今の、誰?」
「⋯⋯サークルの人」
嘘だ。「サークルの人」で済ませられるならスマホを伏せる必要なんてない。
——『瀬名』 聞いたことがない名前だった。凛の口から出たことがない名前。サークルの話はたまに聞くけれど、特定の人の名前が出てくることは殆どなかった。
凛は人の名前を出すほど交友関係が広くないし深くもない。なのに、スマホの通知には個人名が表示され、そしてそれを視認した瞬間、隠そうとした。つまり凛とその「瀬名」は何か後ろめたい関係がある。
彩音はキャラメルラテのストローを咥えた。甘い液体が舌の上を流れているはずなのに味がしない。
視線を凛に戻す――気になっていたのは服装の変化もだった。
凛はファッションにとんと興味がない。いつも白か黒か、ネイビーといったシンプルな配色を好んで組み合わせることがほとんどで、今日も白シャツにダークパンツ。
色味がない、かわりに清潔感のあるスタイルと「着られればいい」が基本姿勢で、彩音が「もっとお洒落しなよ」と言っても「⋯⋯別に」で済ませてきた。
そんな凛が白シャツの上にカーキのミリタリージャケットを羽織っていた。
たしかに凛の黒髪とすっきりした顔立ちに、カーキの深い緑がよく映えて似合っている。ジャケットのサイズ感が絶妙で計算された「かっこよさ」があった。
凛は気づいていないけど、行き交う人がチラッと凛を見ては「ほぉ⋯⋯」とため息をつくように通り過ぎていくのを彩音は何度も見た。
だからこそ凛が自分で選んだ服ではないのだ。凛はジャケットのサイズ感など気にするタイプじゃない。誰かが凛を見て、凛に似合うものを選んで、凛に着せたのだ。
彩音にはわかる。
真由子に選んでもらった服を着て凛のアパートに行ったことがあるから。凛はそのとき何も言わなかった。彩音は「凛はこういうことに気が付かないだろう」と思っていた。でも今、凛が「誰かに選んでもらった服」を着ているのを見てその鮮明さに息が詰まる。わかる人間には、わかるのものなのだと。
「ねえ、最近なんか変わった?」
声が上ずらないように気をつけた。軽く。何気なく。雑談の延長のように。
凛はコーヒーカップに視線を落とした。
「⋯⋯そうかな」
目を合わせない。以前の凛は——言葉が出なくても、不器用でも彩音の目を見ようとした。彩音と向き合おうとしていた。それが、今は視線を逸らしている。
彩音の知っている凛の「目を逸らす」はいつも照れの動作で、褒められて恥ずかしくて逸らすだけだった。こんな「隠している人間の逸らし方」なんてしたことがない。
「浮気してないよね?」
その言葉が喉元まで上がってきて、そこで止まった。舌の上に乗って歯の裏側に当たって、口から出なかった。
――聞けない。
聞いたら凛は正直に答えるかもしれない。凛は嘘がつけないから問い詰められたら、きっと白状するだろう。「うん」と認めるかもしれない。でもそのとき——凛が「彩音だって」と言ったら?
テーブルの上のカードが全部ひっくり返る。彩音の浮気も俎上に上がる。一周年の夜に真由子のところにいたことも。「ゼミの飲み会」が嘘だったことも。全部。
それは、だめだ。
彩音は唇を舐めて、笑顔を作った。
「来週、久しぶりにちゃんとデートしない? 映画観たいんだけど」
軽く。甘えるように。いつもの彩音の声で。いつもの彩音の誘い方で。
凛はそのアンサーに間を置いた。
その「間」が彩音の胸に刺さった。以前の凛より明らかに長い間、これだけ時間があれば応えられたはずだ、一言「いいよ」と。
彩音が何を提案しても凛は「いいよ」と答えた。彩音が行きたい場所に行き、彩音が食べたいものを食べ、彩音の予定に合わせて自分のスケジュールを組み替えた。
「⋯⋯いいよ」
ようやく凛が答えた。でも、そこに至るまでの沈黙を彩音は見逃すことが出来ない。
その間の中で、凛は何を考えていたのか。
彩音はそれを聞けなかった。
*
夜。彩音は自分のアパートでベッドの上に寝転んでいた。
部屋は暗くてスマホの画面だけが青白く光っている。
ラインのトーク一覧、その一番上に凛の名前があり、最後のメッセージは今日のカフェの帰りに送った「今日ありがと! 来週楽しみにしてるね」――既読はついているが返信はない。
真由子の名前は三番目にあった。タップすれば繋がるが今夜、連絡する気が起きなかった。
理由はわからない。身体が求めていないわけではない。ただ——凛がスマホを伏せた、あの動作が頭にこびりついていて、それが邪魔をしている。
凛に電話しようかと思った。
指が凛の名前の上で止まった。押せば凛の低い声が聞ける。「どうした」と聞いてくれる。以前の凛なら彩音が夜中に電話しても嫌な顔ひとつせず出てくれた。声が眠そうでも「ん、起きてるよ」と言ってくれた。
でも——何を言えばいいのかわからない。
「最近冷たくない?」
「誰か他に女がいるの?」
どの言葉も口にした瞬間、自分のほうに刃が返ってくる気がした。凛を問い詰める資格がないことは頭ではわかっている。
初めて彩音は「聞きたいのに聞けない」場所に立っていた。
凛が一年間立っていた場所と似た場所に。「たぶん浮気されている」と感じながら「好きだから聞けない」と言っていた凛と同じ沈黙の中に。
——でも、少し違う。
凛が聞けなかったのは「嫌われるのが怖かった」からだった。聞いて、彩音の口から肯定されたら、もう一緒にいられなくなるから。それが怖くて凛は自分の痛みに蓋をした。
彩音が聞けないのは「自分の非を突かれたくない」からだ。凛の浮気は許すことが出来る。自分だってしているのだから。でも凛の口から「彩音だって同じことしてたでしょ」と返されて、自分の足元が崩れるのが嫌なのだ。
また、もしそうなれば凛との決裂は必至だ。彩音は凛を手放したいとは思っていない。真由子との関係も足りない刺激を得ているだけで、凛と別れたい訳ではないのだから。
それでもその差は決定的だった。凛の沈黙は愛ゆえの臆病で彩音の沈黙はプライドゆえの保身だった。
彩音はスマホを枕元に伏せた。画面を下にして。




