第17話 塗り替える
古着屋の試着室のカーテンが開いて凛が出てくる。
ワインレッドのニットに黒いスラックス。瀬名が十分前にハンガーから抜いて「これ、凛に似合うと思って」と渡したもの。凛は「赤は着ない」と言ったが、瀬名が「一回だけ」と言ったら試着室に入った。
凛はニットの裾を引っ張りながら居心地悪そうに瀬名の前に立った。いつものモノトーンから逸脱した色が身体を包んでいることへの違和感が、眉間の皺に出ている。
「⋯⋯変じゃない?」
ワインレッドは凛の白い肌に映えていて、黒髪との対比で色が深く沈み、凛の輪郭を際立たせていた。切れ長の目、通った鼻筋、普段のクールな空気に、ニットの暖色が血を通わせている。
瀬名の目が変わった。品定めの目ではない。もっと熱くて、もっと深い。凛を「見ている」のではなく凛に「触れている」ような視線に凛がぞくりと背筋を震わせる。
「——うん。最高」
凛の耳が赤くなった。瀬名の「最高」は、いつの間にか凛にとっての報酬になっていた。この二文字を聞いたとき、凛の表情がほどける。照れくさそうに目を逸らしながら口元が緩むのだ。隠しきれない満足が耳の色に出る。
レジに向かう凛の背中を見ながら瀬名は記憶を辿っていた。九月に凛を古着屋に連れ出したとき凛は乗る気じゃなかった。瀬名が半ば強引に服を押しつけて試着室のカーテンの向こうに押し込んだようなもの。
今、凛は自分でカーテンを開けて出て来ては「変じゃない?」と訊いてくる。瀬名を探して瀬名の言葉を待っている。
その変化の意味を、瀬名は噛み締めていた。
翌週。サークルの部室で凛が瀬名の隣に座り、小さな声で言った。
「⋯⋯この前、瀬名が見てた服、まだあるかな」
瀬名は凛の横顔を見た。凛はカメラのレンズキャップを外したり嵌めたりしていて指先が落ち着かない。何気ない風を装っているが、耳が薄く色づいている。
薄ピンクのブラウス――先週の古着屋で瀬名が手に取って凛にかざしたが「さすがにこれは」と凛が首を横に振ったもの。色とフリルの襟元が女の子っぽさを強調する一着、瀬名も無理強いせず「そう? 似合うと思うけど」と引き下がり棚に戻した。
それを凛が覚えていた。覚えていて自分から求めている。
内心で歓喜が弾けた。声を上げたいくらいの。でも顔には出さない。
「あー、あれね。見に行こうか」
平静で軽やかな、いつもの瀬名の声。凛が「⋯⋯うん」と頷いた。レンズキャップを嵌める手が、少しだけ緩んだ。
凛のクローゼットの中に瀬名が選んだ服が増えていく。カーキのミリタリージャケット、ワインレッドのニット、ネイビーのカーディガン、オフホワイトのタートルネック、そして薄ピンクのフリルつきブラウス。
モノトーンのパンツスタイルの隙間に瀬名の色が一着ずつ差し込まれていく。凛は自覚しているだろうか。朝、クローゼットを開けたときに手が伸びる服が変わっていることに。あるいは気づいていて止められないのか。瀬名に「最高」と言われた記憶が、布地の繊維に染みついているから。
*
「朝霧さん」
瀬名のアパートのソファで、凛がぎくりとした。
「⋯⋯なに急に」
「いや、たまにはよそよそしく呼んでみようかなって」
「⋯⋯やめて」
「朝霧さん嫌なの?」
「⋯⋯嫌っていうか」
凛の眉が寄っている。不快ではないく困惑に近い表情。「凛」と呼ばれることに慣れた身体が、急に距離を置かれて居心地悪くなっている。
「じゃあなんて呼ばれたい?」
「⋯⋯普通に凛でいい」
「普通の凛ね。了解。——りん♪」
平仮名の柔らかさを意識して声を少しだけ高くする。凛の肩が微かに揺れた。音の質感が変わっただけで身体が反応している。
「⋯⋯それ普通じゃない」
「普通だよ。りん。りーん」
「⋯⋯もう勝手にして」
「勝手にしていいの?」
瀬名は口角を上げた。ゆっくりと凛の背中に寄りかかり身構えるのを見てから耳元で、とどめを刺す。
「じゃあ今度から『私の凛』って呼ぼうかな」
凛の反応は予想を超えた。
「は⋯⋯っ⁉」
耳どころか首まで一瞬で赤くなった。凛が寄りかかっていた瀬名の肩を両手で押した。力が入っていて本気で押している。でも瀬名は笑いながら凛の手首を掴み、引き寄せた。凛の重心が崩れてソファの上で瀬名に倒れ込む。
「やめ——っ、瀬名——」
「私の凛」
「呼ぶなって——!」
「私の、凛」
「⋯⋯っ!」
凛が瀬名のシャツの胸元に顔を埋めた。隠れるように。耳が真紅に染まっていて、瀬名のシャツに当たっている顔の温度が高い。
「⋯⋯ほんと、勝手」
「うん。勝手だよ。ごめんね」
「⋯⋯全然謝ってない」
「ばれた?」
凛がシャツの生地を強く握ったから瀬名は凛の髪を撫でた。二人とも笑っていた。凛は瀬名に見えないところで。瀬名は凛に見えるところで。
このやりとりのすべてが彩音との関係にはなかったものだ。からかわれること。恥じらうこと。それを相手に見られて、笑われて、でもその笑いの中に温度があること。凛は彩音の前では「かっこいい側」を崩さなかった。崩す必要がなかった。彩音がそれを求めていたから。
瀬名は凛のかっこいい部分も可愛い部分も全部求めている。全部が欲しい。全部を見たい。凛の鎧を脱がして、その下にある柔らかいものを引きずり出して「かわいい」と伝えて、赤くなった耳を眺めたい。
——この子の全部の色を、私が塗り替えたい。
*
十二月第二週。冬晴れの午後。
キャンパスの中庭で瀬名は凛にレンズを向けていた。
サークルの自主撮影でテーマは「冬の光」。低い太陽の光が建物の間を縫って中庭に差し込んでいる。凛は銀杏の木の下に立っていた。黒いコートに白いマフラー。冬の光が凛の横顔を彫刻のように浮かび上がらせている。
瀬名がシャッターを切った。一枚。二枚。凛の表情をファインダー越しに追う。
以前の凛はカメラを向けられると固まった。表情が消えて、視線が泳いで、身体が硬くなった。「撮らないで」と言う凛に瀬名が「撮らせて」と頼み、凛が渋々応じ、瀬名が「いい顔」と言い、凛がまた渋々——それを何度も繰り返した。
今の凛は固まらない。
カメラの向こうで凛が自然に呼吸している。風が前髪を揺らしても直さない。瀬名のレンズの前でだけ、凛は「見られること」を許している。カメラの前の凛はサークルの部室にいる凛とも彩音の前の凛とも違う。瀬名のレンズだけが知っている凛の顔。
三枚目を撮ろうとしたとき、凛が動いた。
銀杏の木の下から二歩横に移動した。建物の影と光の境界線の上に立ち直す。顔を少しだけ瀬名のほうに向けた。
「⋯⋯こっちの角度のほうが、光がいいんじゃない?」
瀬名はファインダーから目を離した。
凛が光を読んで被写体の側から構図を提案している。「撮られること」を受け身でこなすのではなく、瀬名のレンズに映る自分を能動的に設計しようとしている。
凛は写真を撮る側の人間だから光の方向、影の落ち方、被写体の立ち位置が画面にどう影響するかを知っている。その知識を「撮られる側」に転用している――瀬名のために。瀬名のレンズが最良の一枚を捉えられるように。
瀬名はファインダーに目を戻した。凛が移動した位置は完璧だった。冬の低い光が凛の頬骨の稜線を際立たせ、白いマフラーが光を反射して顎の下を柔らかく照らしている。逆光に近い角度で、凛の黒髪の輪郭に金色の縁が灯っている。
「⋯⋯凛」
「⋯⋯なに」
「完璧」
シャッターを切った。凛が一瞬だけ笑った。照れを隠すように視線を落として、すぐに元の無表情に戻った。でもその一瞬をカメラは捉えている。瀬名のカメラだけが知っている、凛の笑顔。
——この子は、私のレンズの前でだけ開く花だ。
そう思ったとき凛の前髪の隙間から星が光った。銀色の、小さな星型のヘアピン。
ちょっと前、瀬名の部屋で「着けてみて」と言ったら凛は黙って前髪に留めた。それは瀬名の部屋でだけで帰るときには外してポケットに戻していた。
今日、瀬名は何も言っていない。着けてと頼んでいないのに凛は自分で着けて来た。他の部員がいる、瀬名がくれたものだと知っている人間がいるかもしれない場所に。
瀬名はファインダー越しにヘアピンを見つめた。凛の黒い前髪の中で、銀色の星が冬の光を受けて静かに輝いている。
凛が瀬名を見た。瀬名の視線がヘアピンに向いていることに気づいて、少しだけ頬が染まった。
「⋯⋯今日は、ヘアピン着けたまま撮って」
凛が小さく言った。
「撮りたい」ではなく「撮って」瀬名に向けた言葉。
「了解」
瀬名はもう一度シャッターを切った。星型のヘアピンが冬の光を弾いて、凛の前髪の影に小さな光を落としていた。
*
水曜の夜。
鍵を開ける音がした。
正確には凛がアパートのドアの前に立つ気配が先にあった。凛の足音は特徴がある。階段を上がる足音は少し重く、均等なリズムで踵から着地する。
瀬名はキッチンに立って棚からココアパウダーの缶を下ろすと鍋を出して冷蔵庫からミルクを注いだ。
「⋯⋯おじゃまします」
「おかえりなさい」
凛は自然な動作でコートを脱いで椅子の背にかけると、ソファに座り足を崩して背もたれに体重を預けた。この部屋に来てソファに座るまでに、ぎこちなさは存在しない。自分の部屋に帰ってきたときのような滑らかさで、凛は瀬名の部屋の空気に溶け込んでいく。
白い陶器のマグカップにココアを注いでソファに戻ると凛が目を閉じていた。眠ったわけではない。ただ、力を抜いている。瀬名の部屋の温度と匂いの中で身体が安全を確認して、鎧を脱いでいる。
「はい」
マグカップを差し出すと凛が目を開けて両手で包む。指先がカップの温度を吸い込んでいく。
瀬名は紺色のカップを手に凛の隣に座った。
言葉はない。凛がココアを一口飲む。飲み込む音。瀬名がコーヒーを啜る。窓の外を風が鳴らす。
「⋯⋯今日、三限の教授が」
凛が話し始めたのを瀬名は黙って聞いている。
何も頼まなくてもココアが注がれて、何も説明しなくても隣に座ってくれる。この一連の動作が凛にとっての「帰ってきた合図」になっている。これを設計したのは瀬名だ。でも今、この静かな時間を心地いいと感じているのは設計者の瀬名自身でもあった。
凛がココアを飲みながら話す声を、瀬名は目を閉じて聞いていた。低くて、柔らかくて、瀬名の前でだけ饒舌になる声。この声がずっと聞こえる場所を作っている。作り上げている。凛のために。自分のために。
マグカップの温度が手のひらに伝わっている。凛の声が耳に伝わっている。窓の外の冬が一枚の壁を隔てて遠い。
——凛の声が途切れた。ソファの上で凛の頭がゆっくりと傾いて瀬名の肩に触れた。
寝落ちではない。凛はまだ起きている。ただ自分から——瀬名の肩に頭を預けた。
瀬名は動かなかった。コーヒーカップを静かに置いて右手を凛の頭の上に乗せた。黒い髪の中に指を差し入れて、前髪の隙間にある星型のヘアピンの金属に触れた。冷たい。でも凛の髪は温かい。
凛が何か呟いたが小さすぎて聞き取れなかった。
凛の体温が肩に染みている。瀬名のアパートの温度と、凛の体温と、ココアの温度が、全部同じ温度になっていく。境界が溶けていく。
果たしてこの時間は「攻略」の一環なのか「ただ一緒にいたい」だけなのか、もう区別がつかなくなっている。区別をつける必要があるのかも、わからなくなっている。
——まあ、いいか。今は、このままで。




