第26話 彩音の懐柔と凛の決別
彩音が凛に向き直った。
瀬名から視線を完全に外して凛だけを見ている。大きな目には先程までなかった涙が浮かんでいた。睫毛の先端に溜まった水滴が、部屋の蛍光灯を反射してきらきらと光っている。
「⋯⋯凛」
声の質が変わった。
さっきまでの甲高い怒声が消えて、一転して甘い声になっている。それは一年間、凛に対して使ってきた声だった。おねだりするときの、甘えるときの、凛が断れないことを知っている声。
「⋯⋯ねえ、凛。許してあげるから」
許してあげる。
凛はその言葉を聞いてどこか腑に落ちた。許して「あげる」という上からのもの言い。凛が何か悪いことをしていて彩音がそれを赦す側だという構図。
おもえばこの一年間、ずっとそうだった。凛が謝り、彩音が許す。凛が尽くし、彩音が受け取る。その力関係を彩音は今この瞬間も維持しようとしている。それはたぶん無意識に。
「私も悪かったからさ。だから戻ってきなよ」
彩音が近づき凛の腕に手を伸ばした。指先が凛の袖をそっと掴む。ひどく弱々しい力だったが、この掴み方を凛は知っている。彩音がこうやって袖を掴むと凛はいつも立ち止まった。いつも振り払えなかったから。
「もっとちゃんとするから。浮気もしないから。私たち、今日からやり直そうよ。お互い——」
「彩音」
凛の声は静かだった。
震えてるわけでも、平坦でもなく、感情を押し殺しているのでもない。もう通り過ぎた場所のことを話すような、いつも通りの声。
「⋯⋯それ、一周年の日に聞きたかった」
彩音の言葉が止まった。袖を掴んだ指がわずかに強張る。
「あの日、カフェで彩音のこと待ってた」
凛の視線は彩音の目を見つめたまま逸らさない。
「手紙、握りしめて」
部屋が静かだった。瀬名も黙って二人を見ている。凛の声だけが冬の午後の空気を満たしている。
「⋯⋯あの日、彩音が来て、手紙を読んでくれたら全部、許すつもりだった」
彩音の唇が薄く開いた。声は出なかった。
「でも、彩音は来てくれなかった」
凛の声に責める色はなかった。なぜなら、その事実は声色を足す必要がないほど重いものだから。ただ事実を述べているだけ十分だった。
「彩音は嘘ついた。ゼミの飲み会があるって。——木曜にゼミはないのに」
彩音の指先がブレた。
「それで——たぶん、来週どこか連れてけばいいって、そう思ってたんでしょ」
動揺した彩音は思わず、掴んでいた凛の袖を離してしまった。顔面の血色が悪くなり唇の色が薄くなる。
「来週どこか連れてけばいい」——凛がそれを知っているはずがない。真由子の部屋で彩音が笑いながら言った言葉を聞いているわけがない。聞いていないのに「たぶん」と言いながら完全に当てている。
凛は一年間、黙って耐えていた。ずっと前から浮気されているのを分かっていて何も言わなかった。
でもそれは何も見ていなかったわけではない。何も感じていなかったわけではない。凛には彩音の考えていることがお見通しだった。全部わかっていながら聞けなかっただけなのだ。
凛の感情の欠片に触れて彩音の目から涙がこぼれた。さっきまでの羞恥と怒りにまみれたような涙ではない。
「許してあげる」のポーズが崩れて、その下から生の感情が剥き出しになった顔。化粧はボロボロに崩れ、マスカラが滲んで目の下に黒い線が走っている。
「⋯⋯ごめん。ごめんね凛。私が悪かった。凛を傷つけた」
本心からの謝罪だった。
「謝るから許して。ね? 私、凛と別れたくないよ」
彩音が凛の袖を両手で掴んだ。力強く引っ張ってしがみついている。
プライドの高い桐谷 彩音が人前で泣きながら縋っている。今まで振る側だった自分が振られる側に立たされている。恋愛では常に「選ぶ側」だった彩音は「選ばれない」という恐怖に初めて直面していた。
「凛のこと好きなの。凛も私のこと好きでしょ?」
凛は彩音の手を見ていた。自分の袖を掴む小さな手、ネイルが少し剥げていて薬指の爪だけが綺麗に塗り直してあった。誰かの前では完璧にしているのだろう。凛の前では薬指だけでいい。
「ねぇ、好きって言ってよ! 凛!」
涙で声が割れていた。追い詰められた彩音の声は一年間、凛がこの人から聞きたかった種類の「本気」だった。それが今ようやく——遅すぎたタイミングで——ここにある。
凛は彩音の目を見つめた。
長い沈黙、部屋の時計の秒針の動く音だけが聞こえた。
「⋯⋯好きだった。本当に」
彩音がその時制を聞き逃さなかったことが瞳の揺れで伝わった。「好き」ではなく「好きだった」そのたった三文字の差が一年間の終わりを告げている。
「大事にしたかった。ちゃんと大事にしたかった」
凛の目にも涙が浮かんでいた。一年間の時間が嘘ではなかったことが声に滲んでいた。
文化祭の夜、彩音に告白されてどれほど嬉しかったか。初めてのデートでカフェの窓際を選んで、彩音が「可愛い」と笑った店。手を繋いで帰った冬の道。隣にいるだけで心臓が鳴った季節が、確かにあった。
それは嘘ではない。嘘ではなかったのに——
「でも、もう戻れない」
彩音の指が凛の袖の上で震えた。
「私は⋯⋯もう、我慢して愛されるのは嫌だ」
その言葉は凛自身を驚かせた。自分が彩音を前に、こんなことを言えるとは思っていなかった。
「嫌だ」と言うこと。自分の感情を自分の口で相手に向けること。嫌われるかもしれない。怒られるかもしれない。それでも——嫌だ。我慢するのは嫌だ。
怖かっただけだ。真帆にそう言ったことを思い出す。我慢するのは愛情じゃなかった。嫌われるのが怖くて、自分の気持ちを全部飲み込んでいただけ。もうそれは——やめる。
彩音が最後の足場にしがみついた。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。華やかなメイクが崩壊して、素の顔が露出していた。
「凛だって私に好きって言ってくれなかったじゃん⋯⋯!」
声が震えていた。
「私がどんだけ寂しかったか知らないでしょ⋯⋯! 凛だけ我慢してたみたいに言わないでよ⋯⋯!」
本心だった。彩音の口から出た言葉の中で、これが一番本心に近い言葉だと凛にはわかった。寂しかった。それは本当だろう。凛が「好きだ」と言わなかったことに不満があった。それも本当だろう。
でも——
瀬名の声がした。
「彩音さん」
変わらず静かな声だった。凛の隣、その少し後ろから。凛を守る位置ではなく凛の横に立つ位置から。
「凛は言葉が下手だよ。それは本当」
瀬名の声は淡々としていた。感情が消えているのではなく、感情を正確にコントロールしている。
「でも言葉の代わりに、ご飯作って、迎えに行って、荷物持って、全部やってた。そうでしょう?」
一つ一つ数え上げる。凛が一年間、彩音のためにやり続けたこと。オムライスを作ったこと。迎えに来てほしいと言えば来てくれたこと。買い物ではいつも彩音の荷物を持ってくれたこと。
「——それは見てた?」
彩音は涙で赤くなった目で瀬名を睨んだ。敵意はあるが言葉は出ない。
「凛の気持ちがわかんないって言うけど、彩音さんはわかろうとしてた? 凛がなんでご飯作ってたか、考えたことある?」
彩音の口が開いたが、やはり音は出なかった。
「言葉が足りないからって裏切っていい理由にはならない。足りないって思ったなら凛に言えばよかった。『もっと好きって言って』って。こうして欲しいって、それだけでよかったのに」
「それだけって⋯⋯」
ようやく彩音の声が絞り出された。
「頼んだって、凛に出来ないこと言っても意味ないじゃない! あんたは頼まないからそんなこと言えるだけでしょ!」
「いいえ、そんなことない」
瀬名の声が、一段だけ低くなった。
「——だって、私には言ってくれたもの」
その一言に彩音の顔が固まった。瀬名の目は真っ直ぐで嘘ではないことが知れた。
「⋯⋯は?」
彩音の声が掠れた。
彩音と瀬名の目が同時に凛へと向けられる。
凛はその視線を受け取った。瀬名の目には凛への信頼がある。
「大丈夫。言える」と伝えている目。
彩音の目には——困惑と疑義と、それから恐怖があった。
「そんなはずがない。凛には出来ない」と否定したい目。
凛は一つ息を吸った。肺の奥まで空気を入れて吐いて彩音に向き直る。
「⋯⋯好きって言えなかったのは、私のせい。ごめん」
自分の非は認める。凛が言葉足らずだったことは事実だから。彩音が寂しかったことも凛の責任の一端がある。それを否定するつもりはない。
認めた上で——
「でも、彩音もだよ」
彩音の目が見開かれた。
「私が何考えてるかわかんないって言ったのは彩音でしょ。でも——聞いてくれたことあった?」
凛の声は小さかった。いつもの凛の声。低くて、柔らかくて、少しだけハスキー。
「ご飯作って待ってても、美味しいって言ってくれなかった。迎えに行っても、嬉しいって言ってくれなかった。——私が言葉足りないのはそうだけど、彩音もだったよ」
彩音の唇が震えた。
「⋯⋯足りないって思ったなら、言ってほしかった。言ってくれたら、頑張れた」
声は小さい。部屋の隅まで届くかどうかの音量。でもこの一言は凛がこの一年間、一度も口にできなかった言葉だった。
もっと好きって言ってと求めてほしかった。やってほしいことがあったなら、こうしてほしいと言ってほしかった。黙って外で満たすのではなく。黙って離れていくのではなく自分と向き合ってほしかった。
言われたからといって、すぐには出来ないかもしれないけれど、それでも努力はしたから。不器用なりに成長しようとする誠意を見てもらいたかった。
凛は自分にもそれを求める権利があったのだと——今、ようやく実感していた。我慢するのが愛情だと信じていた凛が「私にも求める権利があった」と認めた瞬間。
彩音は何も返せなかった。反論の材料が一つも残っていない。
何度目かの沈黙が落ちた。今日、一番の重い沈黙。
彩音の手が凛の袖から離れて、指が一本ずつ開いていく。布地を掴んでいた力が抜けて、手が宙に漂い、やがて彩音自身の身体の横に落ちた。
凛はその手を見ていた。
一年前に初めて繋いだ手。温かかった手。今は——何も感じない。悲しいとも寂しいとも思わない。ただ、終わったのだと思った。




