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大悪人、大奸物

江戸総攻撃のために官軍が迫っている。勝の使命はそれを止めることにあった。それは幕臣でありながら薩長とも気脈を通じている勝にしかできないことである。


まず勝は新政府側の有力者である松平春嶽へ向けて書状を送り、越前藩を通じて新政府に懇願しようと試みた。

その中で勝は

「徳川の臣としての自分はただ一死あるのみ」

と述べ、さらに薩長については

「口に勤王を唱えて大私を挟み、皇国士崩、万民塗炭に陥るを察せず」

としている。


これまで勝は幕府のことを天下を私するものとして、その打倒を訴えてきた。しかしここでは幕府を倒した側の薩長が大私を挟んでいるとしている。ここには明らかに視点の転換がある。今徳川は政権を投げ出し、恭順の姿勢を示そうとしている。その徳川を武力で討ってわざわざ国内に内乱を引き起こそうとしている薩長は、勝からすれば天下を私する存在である。


勝が説得しなければならないのは新政府側だけではない。旧幕府軍の中の多くの者が慶喜や勝の恭順の方針に納得せず、江戸から脱走して官軍に抗戦しようと考えていた。その説得も勝の仕事である。


脱走兵たちからすれば、勝は徳川を売り渡そうとする奸賊である。彼らは説得に来た勝に対して狙撃することもあり、勝の前に立っていた従卒2名が胸を撃たれて倒れることもあった。


小川町伝習隊の兵卒2大隊が逃げる途中に高田馬場で待機していた際は、勝は1人で馬に乗って追いかけ、この時も近づいた時に発砲されかけている。脱走兵たちはそこから板橋まで走って行き、勝が追いついた時には夜が明けていた。勝の説得によりなんとか36名だけ連れて帰ることができた。


赤坂屯所の兵が甲州へ逃げようとしたのを八王子まで追いかけ、新宿の宿屋まで率いて帰った際は、説得を加えている間に脱走の張本人の伍長が反対派である別の伍長を刺して自殺してしまった。説得は命がけであった。


勝は脱走兵を止めることもあったが、場合によっては過激派を江戸から遠ざけることで、最悪なかたちでの暴発を食い止めようとしたこともあった。例えば甲州鎮撫を願い出た新選組の近藤勇と土方歳三には金や武器を与えて甲州へ向かわせている。勝には彼らに地方でゲリラ戦を展開させることで、官軍との交渉を有利に導きたい意図があったという説もある。


官軍の総督府参謀として西郷隆盛が駿府に来ていると知った勝は、同じく幕臣の山岡鉄舟を使者として派遣することにした。山岡から勝に申し出たことであった。


山岡は駿府に向かう前に権田村の小栗のもとを訪れている。勝は山岡に、

「西郷との交渉の前に、幕府の内情に詳しい小栗殿に心得ておくべきことを聞いておくがよい。特に幕府財政のことは小栗殿が誰よりも知っている」

と伝えていた。


東善寺にて山岡と会った小栗は、西郷に伝えてほしいことを2点あげた。1つは自らが心血を注いだ横須賀造船所のことであり、今は建設が中断しているが、日本のためにも新政府の手で完成させてほしいということであった。


あと1つは、江戸町民が積み立ててきた小石川養生所の運営費積立金についてであり、それは幕府財政の逼迫により松平定信が始めたものであった。その額は170万両を下らないはずであり、新政府がその存在に気づけば東北諸藩との戦いの戦費に充てるはずである。その積立金を本来の持ち主の江戸町民たちに返してほしいとのことであった。


勝は官軍の非を説いた手紙を山岡に託しており、彼は官軍の諸陣地を突破して西郷に会ってそれを渡した。勝の手紙では江戸には百万の民がおり、必要のない戦でその民たちを犠牲にする愚かさが説かれてある。


西郷は山岡に新政府側の条件を提示した。


一、慶喜は備前藩(岡山県)池田家に預ける

一、江戸城を明け渡す

一、幕府の軍艦は全て引き渡す

一、幕府の武器は全て政府に引き渡す

一、江戸城内の徳川の家臣たちは向島にて謹慎する

一、慶喜を助けた者たちは厳重に取り調べたうえで処罰   

  する


山岡は慶喜を備前藩に預けることだけは納得できないと主張して、

「立場が逆であったら西郷先生はいかがなされますか」

といったから西郷も納得した。


この会談をもって和平交渉が成立したということがいわれることがあるが、事態はそれほど単純ではない。山岡が行ったのはあくまで政府軍の条件の確認に過ぎない。この時西郷の出した条件のもとでは徳川方は矛を収めることができなかっただろうし、山岡が指摘した以外の内容もこの後徳川方の要求により変えられることになる。またこの会談後も官軍は江戸城総攻撃のための進軍を止めてはいない。西郷および官軍が江戸の攻撃および徳川の殲滅を諦めるためには、まだまだ勝の知恵と努力が必要である。


勝は恭順を第一としながらも、自分の交渉が上手くいかないという最悪の場合も想定していた。もし官軍が攻めてきたら、江戸を火の海にして官軍を追い詰めるつもりであった。それはナポレオンがロシアに侵略した際にロシア軍がとった作戦を参考にしていた。


そしてその時は房総に船を集めて難民を救うことまで考えている。江戸の町民たちと親しみのある勝は自力でその手配を全てしていた。常に世間の声を知るべきだと考えていた勝は街の散歩を日課としていたが、その際に築いた人脈であった。勝は自らが築いてきたありとあらゆる人脈を使って、この日本史上かつてない大仕事を遂げようとしている。


実際に勝の交渉は成功してこの作戦が実行されることはなかったわけで、それをもって費用の無駄であったという者もあった。しかしこれについて勝は次のように述べている。

「もし此の如くならざりせば、十四十五両日(この後の勝と西郷の会談のことで十三、十四の誤り)の談、予が精神をして活潑ならしめず、又、貫徹せざるものあり」

「此策を設けて、逢対誠意に出ずるにあらざれば、恐らくは貫徹為しがたからむか」


西郷との交渉にあたって、もし向こうが攻めてくるつもりなら返り討ちにできるという状況を用意してこそ、こちらも気合をもって臨むことができる。少しでも怯む気持ちがあれば付け込まれる。交渉とはそういうものである。


さらに勝はイギリス公使館通訳官アーネスト・サトウと秘密裏に会談を行い、江戸の情報を伝えたうえで薩長の背後にいるイギリスが西郷に圧力をかけるように仕向けた。薩長がイギリスの力を借りていたのに対し、徳川方はフランスの力を借りていたが、勝はフランスの軍事顧問団を解雇してフランスと距離をおくことでイギリスとの接近をはかった。実際にこの後、イギリス公使パークスが西郷に対して総攻撃を取りやめるように圧力をかけることになる。


「みんな、敵がいい」

という勝の言葉通り、勝はこの時孤独であった。戦争をしたい旧幕府軍からも官軍からも恨まれている。彼の真の理解者はこの時1人もいなかったといっていいかもしれない。だからこそ彼は敵、味方、善、悪などという隔て方をしていなかった。いわば全員が敵であり味方であり、善であり悪であった。その中でそれぞれの人間に対して果たしてほしい役割を与えていった。


後に福沢諭吉が「痩我慢の説」という文章で勝のことを批判した。徳川の家臣でありながら主君を薩長に売り渡したというのである。勝は

「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」

と返答した。信念は自分の中にしかない。それを他者がどう評価しようがお任せするという内容だ。


善悪などというのは、立場や状況により変わるあてにならないものである。そんなことよりも誠心誠意事に処することが肝心だと勝は思っている。


勝は後に次のように述べている。

「一身の栄辱を忘れ、世間の毀誉を顧みなくつて、そして自ら信ずるところを断行する人があるなら、世の中では、たとへその人を大悪人といはうが、大奸物といはうが、おれはその人に与するヨ。つまり大事業を仕遂げるくらゐの人は、かへつて世間からは悪くいはれるものサ。おれなども、一時は大悪人とか、大奸物とかいはれたツケ。しかしこの間の消息が分る人は甚だ少ないヨ」

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