10.簡単に変われるなら苦労はしない
「——あの本は、新しく作らせているというのは本当か?」
尋ねると、シレーは「おや」という顔をした。
「どなたからかお聞きになられたので?」
「メイラが気付いた。読んだことがない本だし、表紙がまだ真新しくてインクと糊のにおいがすると」
「おやまあ」
シレーはおれの言葉にくすくと笑って、その視線をちらとメイラに向けた。メイラはいつも通りのすんっとした顔をしたままだ。
「それだけで、推測を?」
そんなメイラにシレーが尋ねると「いえ」とメイラの静かな声が返った。
「王子宮の侍従長が予算の修正に追われていると小耳に挟みました。しかし、殿下の身の回りの費用については変動する要素はなく、むしろ備品等の修繕にかける費用が減りつつございます。そんな中で大きな費用の動きがあったとすれば、貴殿に関することではないか……と」
「それで、この本がその理由と判断なされたと。いやはや、殿下の侍女殿は細作に向いていらっしゃるのでは」
「あくまで知り得る情報からの推論でございますわ」
メイラはにっこりとよそいきの笑みを浮かべて目を細めた。
「それで、正解でございますか?」
「ええ、ご推察の通りです……が、貴女、まだ他にその推測に至った理由があるのではありませんかな?」
「……文体に見覚えがございました。恐らくでございますが、ヘキーニ・ツヨティ氏……それからフグーナ・サッカー氏が、この本の執筆に関わっておられるのでは?」
「おやまあ、よくご存知で」
シレーも同じように目を細めて楽しげに口の端を持ち上げた。なんだかふたりの間でぱちぱちと何かが弾けているようだ。白熱してきたのか、机の向かいでやいのやいのと言い合っている。
ふたりそろっておれを置いてきぼりにするなよ、と思わないでもなかったが、不思議と腹は立ってこない。
シレーから受け取った本を何度も読み返している内、メイラの目がじっとおれの手元を見ている気配がしたので読むのを許可すると、濃いめの紅茶色をした目がパアッと輝いた。
今、シレーに向けている目の光もちょっとそれに近くて、メイラが楽しそうだからいいか、と、だんだん何を言っているのかわからなくなったふたりのやりとりを眺めていると、ノックの音がして別の侍女が授業の部屋に入ってきた。
「まあ」
お茶用の湯を取り替えに来たのだろうその侍女は、シレーとメイラがおれの机の前でやりとりしているのを見て声をあげた。
そしてすぐ、メイラを壁側に引っ張っていくと「わきまえなさい」と声を尖らせた。いわく、高貴な方の前を遮るなどもってのほかであると言うことらしい。おれにはわからない侍女のルールと言うものがあるのだろうか。
おれは気にしていない、と言おうとした、その時だ。
「殿下のお気に入りだからと、調子に乗っているのではないの?」
そのぴりっとした声が耳に入ったとたん、おれの中でどっと熱いものが動き始めた。指に力が入って、ぐっと握りこんだ拳がちいさく震える。
そして。
「殿下も、使用人を付け上がらせるような真似はおやめくださ……」
「うるさいッ!」
ガシャンッと派手に音を立てて、机にあった文房具は、茶器を巻き込んで床に散らばった。
おれが自分の手でなぎ払ったのだと数秒遅れて気付いたけれど、それでもからだの中でぐるぐると渦を巻いているものは、おさまっていかない。
驚き、怯えたように固まっている侍女に向かって、おれはぎろりと睨みつけた。
「……っ、うるさい、お前! 出て行け……ッ」
言いたいことはたぶんいくつもあった。
けれどその内のどれもちゃんとは形にならず、手ばかりが先に動いて、バンバンと机を叩き鳴らす。
その内、侍女は逃げるように部屋を出ていって、しんと静まった室内で「申し訳ございません」とメイラが頭を下げた。
「わたしが……でしゃばったばかりに」
「違う!」
まだ熱をもったままの声が飛び出す。
「おれは、気にしてなかったっ、おれが、好きにさせてたんだ……お気に入り、だからとか、あんな……っ」
「殿下」
ぐちゃぐちゃともつれる言葉の間に、シレーの声がすっと割り込んできた。
「とりあえず、メイラさんには片付けをしてもらいましょう。それから少し、お話しましょうか」
***
物音がしたせいだろう、他の侍女もやってきてメイラと食器や文房具を片付けはじめると、その間におれのすぐ隣に椅子を持ってきたシレーは「まず大前提として」と話し始めた。
「殿下がお怒りになったこと自体は、正直、何もおかしくはありません」
「え?」
説教がはじまるものとばかり思っていたおれに、シレーは静かに言った。
「先程の侍女の態度は、良くありませんでした。殿下の御前を許しなく遮ってはならない。それはその通りですが、同じように、許しなく王族へ直の言葉をかけてはならない、と言うものがあります」
ちなみに教育係は職業上の免除をいただいておりますよ、とおどけるように付け加えてシレーは続ける。
「メイラさんに注意をするなら、まず殿下にメイラさんを下がらせる許可をいただき、廊下か使用人室のように殿下の目の届かない場所で行うのが正しいルールです。あの侍女は、殿下の許しなくメイラさんに声をかけ、更には殿下にまで声をかけた。この時点で、一番弁えていなかったのはあの侍女です」
「……そもそも、注意をしなくてはいけないようなことだったか?」
「そう、それも問題でございます」
おれが納得いかない顔をしていると、シレーはぴっとひとさし指を立てた。
「最初から見ていたならともかく、あの侍女は部屋に入ってきたばかりでしたね。確かにメイラさんは殿下の前に立って私と話していましたが、それは殿下のお認めになっていたことでした。まあ、許可を取っていなかったのは事実ですが、お咎めにならなかったので、認めたものと判断していただけですが」
「べつに、おれは気にしてなかったから」
「ええ。つまり、殿下が咎めていないものを、勝手に咎めた、というのがもうひとつ、彼女が分を弁えていなかったという事実です。もし、殿下がメイラさんに命じてその位置に来るように言っていたら? 殿下の命令を否定した罪にあたる行為でした」
淡々とシレーの口から出てきた、罪、と聞いてどきりとする。前に、おれが暴れたせいで、おれを怪我させたことになった騎士のことが思い出された。
「ですから、殿下がお怒りになる正しい理由がありました。ただ……殿下がお怒りになられたのは、そこではなかった。いや、それだけではなかった、と言うべきでしょうか? 前に出るなと言いながら、何も聞かずメイラさんを勝手に叱ったことにも、お怒りでしたでしょうしね」
「そうだ」
「殿下は、あの侍女の言っていたことで、何がおかしいと思いました?」
「……お気に入り、調子に乗っている」
口にすると、ジリジリと熱が喉のあたりに戻ってくる気配がした。
「……メイラは、おれのお気に入りなんかじゃない」
メイラがふとこちらを見た。その手は、おれが倒したインク壺を持っているせいで真っ黒だ。
「メイラはただ、残っただけだ。みんな、おれのそばにいるのを嫌がって、いなくなって、メイラだけが辞めずにいるから、おれの相手を押し付けてるくせに、お気に入りだとか、調子に乗っているとか」
息が苦しい。吐き出した言葉にぎゅっと喉が掴まれているみたいな気がする。
「みんな、勝手なこと、ばっかり……っ」
「殿下」
ひんやりとした声が呼んだ。いつの間にか椅子から降りて床にしゃがんでいたシレーが、静かな目でおれを見ていた。
「少し、息を吸って、吐いて……はい。では、これから私が話すことを、わからなくても、難しくても、一度最後まで聞いてください」
おれが頷くと、シレーはいつもよりもゆっくり、お湯がさめていくのを待つようなやわらかい声で話し始めた。
「殿下は恐らくですが、人の悪意を見つけてしまいやすいのでしょう。そして、殿下の中にある怒りの収まる器が、人よりもいくらか浅いところにあるのかもしれません。悪意に鈍感なのは危険ですが、今の殿下はぶつけられたものを衝動で弾き返してしまっていらっしゃる」
悪意、とおれが心のなかで繰り返したのがまるで聞こえているかのように、シレーは小さく頷いて続ける。
「怒りそのものを殿下ご自身で抑えることは難しいことなのだろうとはわかります。殿下が持て余していらっしゃるのも。ですが、その怒りの原因がどこにあり、何に対しての怒りであるかを言葉に出来るようになれば、怒りの種類を分けられるようになるはずです」
怒りの種類、というのはどう言うことなのか分からなくて目を瞬かせたが、シレーが言うのだからそうなのかもしれない、と思えた。
「怒りの種類がわかるようになれば、おれでも怒らないようになれるのか?」
「いやあ、それはどうでしょうな」
「おい」
「シレー殿」
へらりと言われて、おれがムカッと声を出すのとメイラがピリッとした声を上げたのは同時だった。
けれどシレーはふたりぶんの睨み付ける目にもしれっと笑みを浮かべたままだ。
「怒りは魂の根源から沸くものと言われております。私だって、腹の立つことそのものは消えたりなんかしませんよ」
「じゃあ……」
「けれども、意味はございますよ」
反論しかけたおれに、シレーは笑う。
「何に怒っているのか、相手に伝えることが出来なければ、相手はただやり過ごすか逃げ出すかしかなくなります。ですが、怒りの原因がわかり、伝えることが出来れば、少なくとも相手が理解して予防することができますからね」
理解。
その言葉は、おれのなかで柔らかく広がって、しばらくの間頭のなかでゆらゆらと揺れていた。
***
それから一年ほどが過ぎ、棚の本も何冊目かに突入した頃になって、俺は王宮に呼び出された。
「久方ぶりに、お目にかかります、父上、母上。」
緊張と気鬱の両方を抱きながら、俺がふたりに頭を下げると、冷え冷えとした空気が頭の上から降ってくる気配がした。
シレーが教育係についてから、挨拶くらいはそれなりに出来るようになったものの、他のことは相変わらずだ。
少し前から、年齢的にどうしても欠席できないような王室典礼もぽつぽつ出てくるようになったのだが、儀式の度に手順を間違い、あるいは反射的に手が出てしまったりして、居合わせた重役たちからは眉をひそめられてばかり。
今も、一向に完璧にならない俺の所作や振る舞いに、母上や周囲の大臣たちが呆れの色を深めたのが見える。
「息災のようで何よりだ」
そんな中、父上だけが変わらぬ表情で、しばし形式上の前置きを経てから口を開いた。
「お前にもそろそろ婚約者を、という話があがっている」
「婚約者……ですか」
とは言え婚約者とは名ばかりで、いい加減公式の場に出ないでいるのは限界といった年頃になった俺をサポートする役のようなものらしい。
俺だけでは何もできないと改めて突き付けられる気持ちになったが、母上がひんやりとした声で「決まったことです」と言えば覆ることはない。
(まあどうせ、すぐに逃げ出すだろう)
これまで俺の周りにいたやつらと同じように——そんな風に思っていた、のだが。
その日、俺の婚約者として告げられたヴェリアルデ・ヒーデル侯爵令嬢が、あのお茶会の日に俺を強く見返してきた少女だとは、この時の俺はまだ、知らなかった。




